二月五日。
秀那がいなくなってから、一週間が経った。あれから何度秀那にメッセージを送っても、それが既読になることはなかった。当たり前だ。秀那は財布も、スマホも、何もかもを置いていなくなったのだから。そう、佑弥に聞かされた。
佑弥からは、秀那の事があってから度々連絡を受けている。とは言っても、電話がかかってきたのはあの一回きりで、それ以降は全てメッセージでのやり取りだった。佑弥なりに気を遣っているのか、その方があちらにとっても都合が良いのか。
片付いた女の子らしい部屋、開け放された窓、風に泳ぐレースのカーテン、置き去りにされた車椅子、エトセトラ、エトセトラ。
実際に目にした訳でもないのに、はっきりとその光景が目に浮かぶ。想像力だけは逞しく、余計に祈里の心を傷付ける。
秀那の母から連絡を受けた佑弥は、その足で秀那の家に向かったらしい。佑弥は今、何を思っているのだろう。泣いただろうか。きっとショックを受けただろう、落ち込んでいるだろう。受験前なのに、大丈夫だろうか。
無気力なまま、祈里はベッドの隣のデスクへと手を伸ばした。指先が硬い紙に触れて、それを皺が付かない程度に引っ掴む。
それはシンプルながらに可愛いデザインの封筒だった。
真っ白いそれ。自然光に反射して、きらきらと紙が控えめに光っている。それから、ところどころに散る桜の花びら。
封筒の表、その中央には秀那の字で、祈里先輩へ、と宛名書きがしてあった。あの後、わざわざ祈里の家を訪ねてきた佑弥に渡されたものだった。
昨日からの時間で何度も読んだ。何度も何度も読み返した。
たった一言、その文字を。たったの一文の、彼女からの言葉を。
「幸せって……何」
じわりと目の奥が熱くなって視界がぼやけた。便箋の上で文字が踊っている。
『幸せになることは、罪じゃないんです』
たったそれだけ。それだけの言葉に、祈里はこうも心を乱されている。
祈里の他には、この手紙は警察の人しか読んでいないという。秀那の両親も、佑弥も、祈里宛てのものだから、と目を通していないらしい。いい人たちだ、と他人ながらに祈里は思った。
結局、この件は家出として処理されることになりそうだ、とも佑弥から聞いた。部屋に荒らされた形跡がないこと、秀那が書いたと見られる手紙が数点部屋に残されていたこと、受験前のストレスの溜まりやすい時期だということ。
挙げればもう少し理由はあるが、とにかく事件性が見られないことがその理由らしかった。
朝食を食べ終えた後、何をする気も起きないままぼんやりと焦点の合わない目で天井を見つめていると、しばらくして聞き慣れた通知音で現実に引き戻された。佑弥か、蓮か。以前までは蓮くらいのものだった選択肢が二つに増えたのは良いことなのだろうか、悪いことなのだろうか。問われるまでもなかった。
メッセージの送り主は佑弥で、その内容はやはり秀那のことのようだった。ただし、今回は少し毛色が違うようだった。
『鷲宮のことで話があるんですけど、会えますか?』『八日で受験が終わるんです。織古が会場なので、良かったらその後に会いたいです』
それを断る理由が、祈里にあるわけがなかった。『いいよ』と返事をして、それからスタンプを添える。
たったそれだけの動作で力尽きて、大きく溜息を吐きながら目を閉じた。通知音が鳴って、佑弥からの返信だろうと想像はついたものの、投げ出した腕とその手に握ったままのスマホの画面をオフにする。きっとスタンプが返ってきたか、お礼の言葉を言われたのか、その辺りだ。
そう言えば、結局蓮に告白の返事をしていないままだった。
秀那と話す中で、答えは決めた。その決意が揺らがないように、蓮を待たせないために。あの日、しっかりと伝えるはずだったのに。
そのことを浅岸くんに連絡をもらったことで思い出すわたしは、本当に薄情な女だ。つくづくそう思う。
秀那がいなくなって、とてもではないが色恋のことを考える気分にはなれなかった。しかし秀那がいなくなっても、祈里の世界は回り続ける。
もうこの先一生秀那は見つからないだろうという、確信めいたものが祈里にはあった。そしてきっと、秀那は望んで姿を消したのだろうと。漠然と、そうだとも思っていた。
うたた寝をしていたようだった。
アラーム代わりになったのはやはりメッセージの通知音で、ぼやぼやとピントの合わない目でなんとか時計を確認する。正午になる少し前。大した時間は寝ていない。
徐々に慣れてきた目で通知を確認すれば、直近のものの送り主は蓮だった。ついでに、数時間前に佑弥から。
『今何してんの?』
なるほど、今日も蓮は暇をしているらしい。本当にこいつは変わらないな、そんな感想を抱くと共に、そのことが有難いな、とも思うのだ。同時に多少の苛立ちも感じる。
『寝てた』
端的に事実のみ返信すれば、既読はすぐに付いた。すぐに何かしらのレスポンスがあるかと思ったが、一、二分待ってみてもなかなか返事は来ない。何か迷っているのだろうか。
猪突猛進は言い過ぎにしても、勢いよく突っ走るイメージのある蓮にしては珍しいことだ。スマホの画面を閉じようかと思ったところで、それがメッセージの受信を知らせた。
『今から会えねえ?』『白旦まで行くからさ』
少し考える。とてもではないが、今は人に会える気分ではない。しかし、このまま一人で悶々と過ごしていても良いことはないだろうというのは、祈里にも分かっていた。
それに遅かれ早かれ、蓮とは話さなければならないことがある。それが今日になるのかは、不明であるが。
『一時間後でいいならいいよ』
『了解』『じゃあ白高のとこのコンビニのイートインで待ってる』
長考の末に、祈里はそう返信した。今度はすぐに蓮から返事がきて、トークルームは静かになる。
身支度に準備がかかるだろう、そう思って一時間後だと言ったのに、着替えて髪を整えて、そしてカバンに財布を入れただけで祈里の身支度は完了してしまった。ここから蓮に指定されたコンビニまでは、歩いて五分と少ししかかからない。
ちなみに言うならば、リビングの食卓の上に母親からの書き置きがあって、『最近よく寝てるようだからご飯は用意していないけど、お腹が空いたらあるものを適当に食べてください』と伝言が残されていた。さすが祈里のことをよく分かっている。祈里の食が細くなっていることにも、恐らく気付かれている。そんな察しの良い親だから今の今まで反抗らしい反抗もせずに済んでいるのだろうと、そっと笑った。
書き置きの下の余白に、ありがとうと書いてリビングを出る。母親がこれを見ることになるかは、分からない。――秀那は、一体どんな気持ちであの手紙を書いたのだろう。頭の端で、そんなことを考えながら。
玄関の姿見の前に立って、そこに映る無難な服を纏った自分、そして化粧っ気のない顔に、苦笑が滲んだ。
こんな時にいつも比較対象にするのはやはり秀那だ。憧れの女の子。つい守りたくなるような、そんな、存在だったのだ。
こんなのの、どこが良いって言うんだ。あいつは。
少なくとも、今の祈里には理解のできない感情だった。ぐちゃぐちゃの思考のまま、祈里は家を出た。