四月某日。わたしが彼のことを蓮、と呼ぶのにようやく慣れてきた頃。
二回生の前期が始まる前に神社に行きたいと言えば、蓮は二つ返事で了承してくれた。
蓮はわたしの家まで迎えに来てくれて、そして庭に自転車を停めたまま、いつかと同じように歩いて神社まで向かった。道中、白高の前を通りすがって懐かしい気持ちになる。もうこの校舎に、わたしの知る後輩はいない。
他愛のない話をしながら、いつの間にか繋がれていた手に舌を巻く。そして今回も今回とて神社へと行くためのあの長い長い階段に気圧されていると、蓮が笑いながらわたしの手を引いた。
「咲いてんなー、桜」
「あのね、あんたはどうか知らないけどね、わたしにはないの。花を愛でてる余裕なんて、ないの」
「大変だな」
あまりにも他人事な返事に腹が立って握られている手に思い切り力を込めてみたものの、彼には大したダメージを与えられていないようだった。それどころか「ん、休憩するか?」と心配までされる始末である。違う、そういうアピールではない。
なんとか階段を上りきった頃にはすっかり体力を消耗していて、元気に笑う膝に抗えないまま、その場に崩れ落ちるように地面に両手をついた。けらけらと、頭上で蓮までもが笑う声がする。
「相変わらず体力ねーな」
わたしの呼吸が整い始めたのを見計らって、彼がこちらに手を差し出してくる。前にもこんなことがあったな、と思い返して、今回はその手を取った。ちらりと顔を覗き見た彼は、嬉しそうに目尻を下げていた。
落ち着いてから改めて周囲を見渡してみると、確かに見事に桜が咲いていた。文字通りの、満開。数十本の木のどれもに溢れんほどの花が咲き乱れるその光景は、思わず息を呑んで見入ってしまうくらいには美しいものだった。きっとあの子に、よく似合うだろう。
首が痛くなるまで時間を忘れてその花々を見つめていた。さすがに飽きてきたらしい蓮に腕を引かれて、鳥居をくぐる。気のせいでなければ、その瞬間、風に頬を柔く撫でられたような心地がした。
手水舎で手を口を清めてから、わたしは尋ねる。
「お賽銭入れてくる。蓮は?」
「俺もやる。大吉の恩があるしな、礼くらいは言わなきゃな」
蓮と揃って拝殿の前に立って、祈里は少し悩んで財布から四十五円を取り出した。そしてそれをそっと賽銭箱へと入れる。
そして鈴を鳴らして――そう言えばこれの正式名称を知らない、帰ったら調べようと思う――二礼と二拍手をした。目を閉じたところで、はたと気が付く。何を言うかを、決めていなかった。
少々焦りつつも数秒悩んでから、幸せになります、と宣言をして目を開けた。一礼。
これで良いのだろうか、と自分に首を傾げながらその場を離れた。蓮もいつの間にかお参りを終えていて、わたしは足早に彼の元へと向かう。蓮が待ってましたと言わんばかりに無邪気に笑っている。
「なあ、おみくじ引こーぜ」
「またあ?」
そう返しつつも、まんざらでもなかった。
前回と同様に、無人の社務所に設置されている賽銭箱に初穂料を納めて、隣の箱からおみくじを抜き取る。あまり期待はせずに、ゆっくりとそれを開いた。
「どうだった?」
「……大吉」
さっそくそう尋ねてきた蓮に端的にそう答えれば、にんまりと蓮が笑った。自分も大吉を引いたというわけでもないだろうに、これ以上なく上機嫌だと、一瞥しただけで分かる。にへら、と緩んだ顔がいっそ不気味ですらあるくらいだ。
「へえ。ふーん。そっか」
「なんであんたがわたしより嬉しそうなの?」
恐らくいまのわたしは盛大に顔が引き攣っているだろう、そう思いながらも改めて自分のおみくじの有難いお言葉に目を通す。
――待ち人、そこにあり。恋愛、安心してよし。
悪くない結果だ。それにしても、前回から妙に心当たりのある文言だ。単なる偶然だろうか、それとも、わたしが都合の良いように解釈をいてしまっているのか。
「で、蓮は?」
今度は木には結びつけず、暫く財布にでも仕舞っておこうと、おみくじを元通り畳みながらそう尋ねる。すると蓮は自身のおみくじをぺらり、と祈里に見せながら言った。
「ん? 中吉。普通だろ」
「……つまんないね」
「やめろ」
正直な感想を伝えると、蓮が微妙そうな顔で祈里を見ていた。前回が大吉だったから、あとは下がるだけだもんね。そう言ってやろうかとは思ったが、どう考えても余計だろうと思い止まった。それに何より、その言葉はそのまま自分にも返ってくる。それにしたって凶から大吉とは、いささか振れ幅が大きい気がしないでもないが。
そう言えば、最近の蓮は特によく笑うようになったなと。ふとそう思った。
「ねえ、あの祠……見にいっていい?」
祈里がそう尋ねると、蓮はふっと笑って「いいぜ」と祈里の手を引いた。断られるとは思っていなかったから、わたしもその返答に満足して一緒に本殿裏の祠へと足を向ける。
いざ再び目にしたその祠は、あの薄汚さは相変わらずだったものの、前と比べるとそれほど貧相な印象を受けなかった。というのも、桜の木々に囲まれ、かつ日当たりの良いその場所が、どこか暖かな雰囲気を纏っていたからであった。
そう言えば、あの冬の日は天気が良いとは言えなかった。花も、あの一輪の桔梗を除いて何も咲いていなかったし、どうにも寂しい空間だったのだ。それが今はどうだ。いっそこの場が神聖なところである気さえしてくる。否、境内であるという時点で神聖であることには間違いないのだが。
わたしは暫く目の前の光景を見つめながら、ぽつりと呟いた。
「……やっぱり、咲いてないね。桔梗」
枯れている、というわけでもなく、咲いていた形跡もない。当然だ、今は四月で、余りにも季節外れだ。あの冬、咲いていたのも一輪だけだった。あれも異常だったのに、今日のこの日もまた都合良く咲いている訳がなかった。
「まあな。あれ、秋とか夏とかの花? 草? だもんな」
そう言った蓮に、「草?」とわたしは首を傾げた。しかしすぐに思い至る。そう言えば、学校で習った記憶があった。
「あ、そうか。秋の七草……夏?」
「開花時期が六月から九月なんだよ」
「へえ。詳しいね」
訳が分からず混乱しかけていたわたしに、彼がそう言った。それにしても、蓮が意外に博識で驚く。それとも世間では常識なのだろうか。
漠然と九月頃に咲く、というイメージを持ってはいたが、六月にはもう咲くのか。知らなかった、と当然今は咲く気配のない桔梗を見つめる。
「また、来てもいいかもね。桔梗が咲く頃に。……前期が終わったら、かな」
「だな。それまでにちょっとは体力つけとけよ」
余計なお世話だ、と言う代わりにその肩口を思い切り平手で叩いた。「いった!」と痛がる蓮に、ふんと鼻を鳴らす。少し気持ちが晴れた。
「そう言えばさ、桔梗の花言葉、調べたんだ」
「……やっぱり蓮ってロマンチストなところあるね?」
「うっせーよ。悪いか」
一般的に考えて、花のことに詳しいのは男よりも女の方が多い気がするのだが。
しかし少なくともわたしは花に特に興味はないし、蓮にその趣味があったところでそれを否定する気は毛頭ない。そもそもこのご時世にこのようなことを話題にするのも時代遅れなのかもしれない。
そう一通り考えて、わたしは口の端だけで笑った。
「いや、別に? で、なんなの。聞いてあげる」
そう促すと、蓮はちらりと一度こちらを見てから、目を泳がせた。何か迷うように口を開いて、また閉じる。
それに首を傾げていると、突然蓮の右手がわたしの右肩に乗せられて、そしてぐいと引き寄せられた。バランスを崩して、思わず蓮に寄り掛かるような体勢になる。それに驚いている間に左手を耳に添えられて、囁かれた。
「……“永遠の愛”」
それを聞いて、咄嗟には言葉が出てこなかった。蓮に半身を預けたような格好のまま、それを誤魔化すためにふうん、と呟いた声が風に乗って溶けて消える。「そっか。……いいね」そう言ったわたしに、蓮が照れたように視線を逸らした。
きっと未来は悪くないと、そんな予感がした。