火曜一限、某必修科目。四月の見学の時に顔を出したきりのサークルの先輩から『この講義では毎年二割は落単者が出る』と散々脅されただけにどうにも緊張する。しかも休み明け一発目の試験だ。炬燵が恋しくて堪らない。
教室のドアを開けて、予想以上に暖房がよく効いていたのに内心でよしと拳を握った。エアコンの暖かな風が、凍りつくように固まっていた頬を緩ませていく。
マフラーを外しながら指定されている席へと向かえば、その先には見知った顔の男がゆるゆると手を振っていた。
「祈里! 久しぶりだな!」
にかっと、懐っこい笑みを浮かべながら隣の席に座る男──蓮が声を掛ける。それに祈里は溜息混じりに「そうだね」と雑にあしらうように返した。何の因果か、この二人は塩谷と関とで偶然にもこの授業においての指定席が隣同士なのだった。
「なんだよ、つれないな。冷てー、この時期のドアノブみてえ」
「何、その首回されたいの?」
蓮は肩を竦めて見せながらいじけたように唇を尖らせた。秀那がやれば可愛く見えるのだろうそれも、彼がやるとただ薄ら寒いだけである。夏だったらまだましだったかもしれない。
ところで、彼と会うのは四日ぶりになるのだが、果たしてそれは久しぶりの範疇に収まるのだろうか。少なくとも祈里はそうは考えていないが。
「テスト勉強するから。邪魔しないで」
「はー、相変わらず真面目だな」
肘をつきながら、半目でこちらを眺めてくる塩谷だって相変わらずだ。祈里はそう思いながら、几帳面にマーカーの引かれたレジュメを広げて蓮を視界に入れないように努めた。
一限の開始まであと三十分以上あるせいだろう、教室内は人が少なく、どうにも寂しい印象だった。そう言えば、あの塩谷がこんなに早い時間から学校に来るだなんて、珍しいこともあるものだ。
はやく四限まで終わらないかな、そう考えながら、祈里はレジュメの中身を脳に詰め込もうと無意識に背中を丸めた。
一限に続いて、二限も必修の授業の試験があった。なんとかそれを乗り切ってから、祈里は蓮の誘いを受け、教室で家から持参した、母親お手製の弁当を食べていた。ちなみに祈里のこの後の予定は、三限空きコマ、四限は選択必修の授業の試験、それで今日は終わりだ。
蓮はコンビニの惣菜パンを食べながら、スマホを操作している。祈里はやはり机の上に四限の試験の範囲であるテキストを広げていた。
「あ、キキョウ座流星群……二十九日に極大らしーぜ」
「え、塩谷そんなのに興味あったの?」
手元の画面を見ながらそう言った塩谷に、祈里はぼうっと眺めていたテキストから半ば反射的に顔を上げた。そして蓮の顔をまじまじと見る。視線に気が付いた蓮も祈里の顔を見た。
「なんだよ、悪いかよ。桔梗は織古に縁あるし、そうでなくとも星は俺達には馴染み深いだろ」
「いや、それはそうだけど。塩谷がそんなの言い出したの、今回が初めてじゃん……意外とロマンチスト?」
祈里たちの住む市の名前は織古市、そして白旦駅や白旦高校がある町の名前を星斗(ほしと)町という。それぞれの由来は安直に星から取ったものであるらしいと、小学校のカリキュラムにあった郷土理解の授業で習った。
その他にも、織古市には星を由来としたのであろう地名が多く残っている。お世辞にも都会とは言えないこの地では、この現代でも夜になると星がよく見える場所が多かった。
また、織古市の花として桔梗が登録されていることは、マイナーながらも知っている人は知っているであろう事実だ。星の形の花を咲かせる、それ。これらを引っ括めての蓮の発言であったのであろうことは、祈里にも理解ができた。
しかしそれとこれとは話が別である。ぽかんと虚を突かれた顔をしたかと思えばその口を緩めた祈里に、「言ってろよ」と少し拗ねたように蓮が顔を逸らした。
「浅岸でも誘えばいいんじゃねーの」
「いや誘わないよ。時間帯もあるし、何より本当に受験も目の前じゃん」
「へーえ、ふーん、あっそ」
あからさまに面倒臭い状態の蓮にそれ以上声を掛けることはせずに、祈里はテキストに目を戻した。そしてそのテキストを読み込むふりをしながら、考える。──流星群か。
卵焼きを咀嚼しながら、その三文字を脳の裏で反芻した。誰かを誘うことはしないでも、一人で空を眺めるくらいはしてもいいかもしれない。
いくら星斗町に縁のある花とはいえ、キキョウ座は世界的に見てもマイナーな部類だったはずだ。どの方角にどんな配置で輝いているのか、祈里もはっきりと覚えていない。
ニュースに大々的に取り上げられるような他の流星群と違い、キキョウ座流星群は規模も小さい。しかし、これも縁だろう。場所も場所だし、季節も季節だ。運が良ければ、見られるかもしれない。
そう言えば、秀那と大学についての話をしたことがあったな、と全く関係のないことを思い出した。あれは、いつのことだっただろうか。
「大学ってどんなところですか? 楽しいですか?」
そんな質問を受けて、やっぱり不安にもなるよな、と祈里は苦笑した。祈里はなるようになれ精神で生きているので、あまりその辺りは気にしたことがなかった。自分さえ良ければ周りの環境には特に興味がないとも言う。
「思ってたよりはつまんなかった。あくまでわたしは、だけど。塩谷は楽しそうだよ」
マイナスなイメージを植えつけるのも忍びなく、そう補足をしておく。祈里も祈里だが、蓮も蓮でどんな環境でも楽しめそうな性格だから羨ましい。適応能力というのが高そうだ。秀那はそれを「そうなんですね」と笑って聞いていた。
少しでも参考になりそうなことを教えてあげられれば良いのだが、残念ながら祈里はそれほど大学生活を楽しめていない、と自分では思っている。間違っても、秀那には自分と同じような大学生活を送ってほしくない。
「ヒナちゃんは、楽しめるといいね」
「うーん、どうでしょうね。でも、そうですね。楽しめたら、いいな」
自信なさげに眉を下げていた秀那の顔を、よく覚えている。
それはともかく、昼休みが終わるまではあと五分もないのだが、塩谷は確か三限があったはずだ。
時間は大丈夫なのだろうか、そう思いながらもそれを蓮に教えてやるほど優しい性格をしていない祈里は、黙々とエビグラタンを口に運んだ。占い付きのカップの底の、『恋愛運ウルトラハッピー』の文字が祈里の目には妙に愉快に映った。
そのほんの数秒後、時間に気付いた蓮が大きな物音と同時に椅子から立ち上がったのは余談であろう。