「さっき、ヒナちゃんは長い付き合いじゃないって言ってたけど」
来た道を引き返しながら、祈里はそんなことを口にした。行きのときと同じようにこっそりとスマートフォンを確認する。月の位置が高くなったことからも察してはいたが、あれから二時間近くが経過しようとしていた。
先ほど秀那は寒くなってきたと言ったが、厚着をしているおかげか、耐えられないほどではなかった。風がないのが救いだろう。
とはいえ秀那が本気で寒がっている可能性もあるにはある。だが、祈里には分かる。あれはきっと、あの場を離れるための口実だ。
「付き合いは、まあ、そうかもしれないけど。ヒナちゃんのことは、ずっと知ってたよ。一方的にだけど」
二年のクラス替えを終えてすぐの、蓮の話。今でも覚えている。
マフラーに顔を埋めながら、秀那の返事を待つ。秀那はややあってから、どこか翳りを帯びた声で言った。
「……ああ。車椅子……ですか?」
「うん、それもあるけど。浅岸くんの幼馴染み、だったから」
あの日、初めて見た秀那の姿を思い出す。教室の前で、佑弥と気安そうに喋る秀那の姿。周りの視線を気にせず、堂々としていた。ただ、今にして思えばそれは秀那の虚勢かもしれなかった。
秀那もそのときのことを思い出したのか、「なるほど」と呟いた。
「あと、綺麗な子だなって」
そう付け足すと、褒めても何も出せませんよと秀那がはにかんだ。黒く細い髪が秀那の耳から落ちる。やっぱり綺麗だ、と祈里は思った。生まれ変わるなら、秀那みたいな女の子になりたい。本当に、そう願ってしまいそうになるくらいに。
「受験も大変じゃない?」
「配慮の申請は出しますけどね。まあ、やりづらいですね」
静かな道に、祈里と秀那の話し声と、それから祈里の靴音、車椅子の歩く音。
ふと会話が途切れて、焦ったわけでもないのに、無意識に祈里の口をついて出たのは、先ほど思ったばかりの願望に近い言葉だった。
「わたし、生まれ変わったらヒナちゃんになりたい」
「……それは、浅岸と幼馴染みだからですか?」
秀那の言葉は祈里を責めるような口調ではなかったが、しまった、と咄嗟に思った。違う、と慌てて言おうとして、声が詰まる。
幼馴染み。その関係性に、どうしようもなく、羨ましい、と思ってしまっている。
違わない。羨ましい。幼い頃から彼を知っていて、近くにいられて、今だって。
そうだ、違わない。もちろん、秀那のその賢さに憧れている。見目に、憧れている。でも、それだけじゃない。
そうか。わたしはずっと、浅岸くんを、近くで見つめていたかったのだ。
彼女だなんて、たった一瞬かもしれない、一歩間違えればすぐ壊れてしまうような肩書じゃなくて、例えば従姉弟とか、それこそ幼馴染みとか、そういった安定した肩書を持って、誰からも何も言われない場所で、かつ彼から数歩離れた所で、彼をずっと見ていたかった。
祈里の思考を余所に、秀那が苦笑する。
「やめておいたほうがいいですよ」
どちらかと言うと、困った、と言いたげな声音だった。どう説得しようかと考えるような、そんな言い方。どうして、と祈里が反論する前に、秀那は言う。
「この脚。本当に不便ですよ。もう私は諦めちゃったけど、本当に、つらくて……」
秀那はそこで口を噤んだ。わざと濁した、というよりは、何か自分の言いかけた言葉に思うところがあったようだった。
「いや。そうですね。きっと祈里先輩は、私だった方が幸せだった。そうですね。私たち、逆の立場だったら良かったのに」
秀那はそう言って、うん、と頷いた。
「そうしたら、少なくともきっと先輩は、幸せになれたんでしょうね」
秀那の言葉は、たまに難しい。その小さな頭の中で、たった一人だけで解決して、そして吞み込んでしまう。それを他人に分け与えようとはしてくれない。
「ねえ、祈里先輩。私たち、本当にないものねだりですね」
その隠された言葉の意味を教えてもらうには、きっとまだ距離が遠いのだろう。そう思って、祈里は「そうだね」とただ頷いた。
「……ねえ、ヒナちゃん。あんまり深くは考えずに答えてほしいんだけど」
祈里はできるだけただの世間話に聞こえるように、ただのつまらない話題のひとつだと思ってもらえるように、言った。
「幸せって、なんだと思う?」
我ながら面倒な質問だなと思ったが、意外にも、秀那は間を置かずに答えた。
「何にも囚われずに、生きられること。ですね」
「……ヒナちゃんは、今、幸せ?」
少し躊躇いながら、そう尋ねる。否定をされたら、どんな言葉をかければいいだろう。しかし、それはどうやら杞憂のようだった。
「幸せですよ。きっと、誰からも理解されないですけど」
それは、秀那が今、何にも囚われずに生きられているということなのだろうか。
そうだと良い。秀那にはそうやって、できるだけ自由に生きていてほしい。本当に、そう思うのだ。それを上手く言葉にして秀那に伝えてやることは、残念ながら祈里にはできないのだが。
「あっ」
数分ほど、互いに何も喋らなかった。かと思うと、弾んだ声で秀那がそう言って、勢いよくばっと振り向く。辺りは暗かったが、暗闇にはとっくに目が慣れていたから、きらきらと輝く瞳で秀那が祈里を見つめているのがよく分かった。
「流れましたよ、今! ……あ」
「流星群?」
しばらく会話のないうちに、秀那は空を見上げて流れ星を探していたらしい。
しかし祈里はその秀那の車椅子を押している。人通りがないとはいえ、電信柱やブロック塀に車椅子をぶつけて怪我をするのは秀那である。その事に思い至ってしょんぼりとする秀那に、祈里はそう問いかけた。
「そうです。やっぱり一瞬ですね、願いごとを三回唱えるとか、絶対無理ですよ」
「それはもう……気合いだね」
「なんですか、それ」
秀那はくすくすと笑って、また空を見上げていた。やはり興味があるのだろう。
残念ながら、祈里にはそこまで熱心に空を見上げる趣味はない。ただ、それで秀那が喜ぶなら、悪くはないと思った。
「あ、ほら、また!」
「えー、そんなに流れてるの?」
「本当ですって! ほら!」
本当に楽しそうに、秀那はそう言う。
あまり期待をせずに一瞬だけと視線を上げるとその瞬間、星屑たちに紛れて一つ、星が尾を引いて流れていった。本当に、一瞬だった。
「……あ」
「見ました、見ました!? ふふ、祈里先輩の願いも叶うといいですね」
流れ星を見るのは、初めてのことだった。確かに灯りは少ないが、こんな街中なのに見えるのか。
誰に見えるわけでもないのに、ゆるゆると自然と口角が上がる。不思議と、気分が良かった。
「……そうだね」
そんな話をしているうちに、集合場所でもあったコンビニに着いた。
外で待っています、と言った秀那に「一分で買ってくるから!」と祈里はコンビニの中へと飛び込んだ。
肉まんと抹茶ラテを購入したまでは良かったが、ラテのカップに粉末を入れ、専用の機械にそれを突っ込んだ時点で悟る。一分はさすがに無理があった。
ドアの向こう、一人で祈里を待つ秀那に、悪い男に声をかけられないだろうかとか、寒くて凍えていないだろうかとか、そんなことを考えながらカップにお湯とミルクの注がれる音を聞く。それよりも秀那が帰りが遅いと親に怒られやしないだろうかと心配するべきだった。
急いで外へ出て肉まんと抹茶ラテを差し出せば、秀那はまず肉まんを受け取って、それから顔を上げて不思議そうに首を傾げた。「抹茶もヒナちゃんのだよ」と祈里が言うと、秀那はその目を大きく開いてぱちぱちと瞬きをした。
「……良いんですか?」
「いいの。寒い中付き合わせちゃったし。嫌いじゃなければ」
そう言えば、秀那は嬉しそうに「ありがとうございます」と笑って言った。
しばらく抹茶ラテのカップで手を暖めていた秀那が、肉まんを半分に割った。その片割れを祈里に差し出す。
「食べませんか?」
「ありがとう。でもダイエット中なんだよね」
「人に食べさせておいて……いえ、強請ったの私でした。冗談です。ありがとうございます」
ダイエット中、というのは嘘だった。そう言えば秀那が引き下がるだろうと分かった上で言ったのだ。秀那はぶつぶつと何かを呟きながら肉まんを口に運んでいる。
「ねえ、そういえば、深川って人知ってる?」
ふと思い出してそう尋ねれば、秀那は記憶を辿るような素振りを見せてからこてんと首を傾げた。
「……深川?」
「うん。浅岸くんの従兄弟だって」
そう言えば、やや間を置いてから「ああ、知ってますよ」と秀那は頷いた。心当たりがあるようだった。
「喋ったことはないんですけど……どうかしましたか?」
「うーん……なんか、佑弥はおすすめしないって言われちゃって」
「……はあ?」
秀那は顔を顰めてそう言った。怒っている、というわけではなさそうだが、何か思うところがあるらしい。普段は容赦なく毒を吐いているが、やはり幼馴染みが悪く言われるのは気に食わないものがあるのだろうか。それに少し微笑ましく思いながら、祈里は言う。
「馬鹿だから止めといた方がいいって。テニスとあの人のことしか考えてないからって」
「……あー」
佑弥の幼馴染みである秀那なら何か知っているだろうかとそう尋ねると、秀那は合点がいったとばかりに何度か頷いた。
「ありましたね、確かにそんなこと。一時期荒れてたみたいですよ、浅岸。離れてた期間だし、興味ないので詳しくは知らないんですけど。……気になるなら聞いてみるといいですよ、本人に。馬鹿なので、きっと気にしません」
興味がないというのがまた秀那らしかった。だがそうか、知らないのか。
本人の知らぬところで探りを入れるのもどうかとは思っていたが、やはり本人に聞いてみるべきなのだろうか。
しかし、祈里は覚えている。あのときの佑弥の、傷付いた顔。泣き出しそうな顔。本人は気にしない、と秀那は言うが、本当にそうだろうか。
そう思っていると、祈里の心を読んだのか、秀那か軽い口調で「だって馬鹿ですからね。あ、勉強とかの話じゃなくて」と付け足した。それはフォローのつもりなのだろうか。
あはは、と愛想笑いをしながら、本人に咎められないのをいいことに美味しそうに肉まんを頬張る秀那の顔を見つめていた。
もぐもぐと、口いっぱいに咀嚼をする秀那の手からごみを受け取ってコンビニのゴミ箱へとそれを捨てる。戻ると、秀那がちびちびと抹茶ラテを飲んでいた。祈里の姿を認めると、カップの縁から口を離す。
「ごちそうさまでした。祈里先輩の恋が上手くいくように、祈ってますよ」
ぱちん、と愛嬌たっぷりに秀那がウインクをした。まるでアイドルかのようなその愛らしさに祈里が「うっ」と撃ち抜かれて膝を折る。それに慣れたように秀那はけらけらと笑って、祈里に手を差し出した。
秀那を家まで送り届ける道すがら、何度か空を見上げてみたものの、そこには星屑が散りばめられた夜空が広がっているだけだった。ただの星屑にそれ以上の価値はなく、願いを叶えられるわけもない。
もう一度星が流れるのを見られたら、何を願えばいいのだろう。それすら浮かばないほどには、自分が分からない。迷子のようだと、そう思った。
「ねえ、先輩」
別れ際、秀那は真面目な顔で、祈里に言った。
「幸せになってくださいね。先輩にだって、その権利はあるんですから」
秀那の言葉にはなぜだか酷く重みがあるような気がして、祈里は何も考えられずに、ほとんど無意識にその言葉に頷いていた。それににっこりと、秀那が笑った。