今年は暖冬なのだそうだ。両親のどちらかが点けたテレビの向こうの、天気予報のお姉さんがそう言っている。
祝日であった月曜日も終わり、今日から一週間、期末試験が始まる。祈里は朝食のチーズトーストをかじりながら、現実逃避の代わりに今までの冬を思い返していた。
いちいち覚えていないから自信はないが、確かに去年は寒かったような気がする。毎日エアコンの下にタイツが吊るされていた記憶があるし、毎日コートの下にさらに重ね着をして学校へ通っていたような気もする。否、これは一昨年のことだったかもしれない。
やはりよく覚えていない。それはそれとして、今年だって寒いものは寒い。カップスープを飲み干しながら、そんなことを思う。
今朝のリビングも相変わらず平和だ。片付けられた室内、空調が効いていて、BGMの代わりにニュース番組の流れるこの空間。家を出てもきっと、代わり映えのしない日常がそこにはある。祈里は、そんな平和を愛している。
今日はコートは必要なさそうだと、テレビの端の予想気温の数字を見ながら思った。画面の中央では見覚えのあるようなないような女優が、何やら新しく始まるドラマの番宣をしている。
その内容は、今まさに画面の向こうで健気に番組のアピールをしている女優演じる主人公が、周囲を巻き込みながらも一生懸命に自らの幸せを追い求めていく、といういわゆるラブコメのようだ。
きっとあの主人公にとっての幸せは、想い人と円満に結ばれることなのだろう。間違いなく、それはひとつの幸せの形だ。
祈里が思うに、恋愛というのは、幸せに結びつきやすいのだと思う。例えば恋をしているときとか、それが実った瞬間とか、その先だとか。そのようなタイミングで、人間は達成感だとか満足感とか、そういうものを得られるのだろう。完全に、無責任なただの想像だけれど。
では、わたしにとっての幸せとは、一体なんなのだろう。
祈里は頭の隅で、そんなことを考える。別に、過去に取り立てて嫌なことがあったわけではない。誰かから嫌がらせを受けていたとか、変なことを吹き込まれたとか、大きな壁にぶち当たって挫折感を味わったとか。はたまた大事な誰かを失くしてしまったとか、そういう大きな不幸には、未だ遭遇したことがない。
ただし、祈里にはろくに友達もいないし、何か明確な目標があるわけでもない。ただ何も考えずに流されて生きているだけで、これでは幸せどころか、不幸せにだってならないはずだ。
祈里は冷めはじめているカップスープの水面にふうっと息を吹きかけた。ざあっとその面が揺れて、すぐに元の平らに戻る。
わたしは、なんのために生きているのだろう。どうして、こうなってしまったのだろう。
――生きていれば、きっと良いことあるよ。
どこかで聞いたことのあるようなセリフが、ふと脳裏に浮かんだ。
――その良いことがなくたって、わたしはこれからもぼんやりと生き続けるのだろう。死ぬ勇気なんて、爪の先ほども持ち合わせていないのだから。
祈里にとっての幸せは、きっとこのつまらない平穏だ。ノンフィクションでも、ドキュメンタリーでもない創作と違って、特別な価値のない自分にとって、きっと、そうなのだ。それがきっと、関祈里にはお似合いだ。
祈里はスープを飲み干してカップを置くと、ごちそうさまを言って立ち上がった。今年の冬も、何事もなく終わればいい。食器と食器の軽くぶつかる音を聞きながら、そう考える。
ぬるま湯に浸かっているような、そんな平穏が何より尊いのだろうと、祈里はそう信じている。
火曜一限、某必修科目。四月に顔を出したきりのサークルの先輩から『この講義では毎年二割は落単者が出る』と散々脅されただけにどうにも緊張する。しかも休み明け一発目の試験だ。既に炬燵が恋しくて堪らない。
教室のドアを開けて、予想以上に暖房がよく効いていたのに内心でよしと拳を握った。エアコンの暖かな風が、凍りつくように固まっていた頬を緩ませていく。
マフラーを外しながら指定されている席へと向かえば、その先には見知った顔の男がゆるゆると手を振っていた。
「祈里! 久しぶりだな!」
にかっと、懐っこい笑みを浮かべながら隣の席に座る男──蓮が声をかける。それに祈里は溜息混じりに「そうだね」と雑にあしらうように返した。なんの因果か、この二人は塩谷と関とで偶然にもこの授業においての指定席が隣同士なのだった。
「なんだよ、つれないな。冷てー、この時期のドアノブみてえ」
「何、その首回されたいの?」
蓮は肩を竦めて見せながらいじけたように唇を尖らせた。秀那がやれば可愛く見えるのだろうそれも、彼がやるとただ薄ら寒いだけである。夏だったらまだましだったかもしれない。
ところで、彼と会うのは四日ぶりになるのだが、果たしてそれは久しぶりの範疇に収まるのだろうか。少なくとも祈里はそうは考えていないが。
「テスト勉強するから。邪魔しないで」
「はー、相変わらず真面目だな」
肘をつきながら、半目でこちらを眺めてくる塩谷だって相変わらずだ。祈里はそう思いながら、几帳面にマーカーの引かれたレジュメを広げて蓮を視界に入れないように努めた。
一限の開始まであと三十分以上あるせいだろう、教室は人が少なく、どうにも寂しい印象だった。そういえば、あの塩谷がこんなに早い時間から学校に来るだなんて、珍しいこともあるものだ。試験期間だから、気合でも入っているのだろうか。まさか、塩谷に限ってそれはないか。
はやく四限まで終わらないかな、そう考えながら、祈里はレジュメの中身を脳に詰め込もうと無意識に背中を丸めた。
一限に続いて、二限も必修の授業の試験があった。なんとかそれを乗りきってから、祈里は蓮の誘いを受け、教室で家から持参した、母親お手製の弁当を食べていた。ちなみに祈里のこの後の予定は、三限空きコマ、四限は選択必修の授業の試験、それで今日は終わりだ。
蓮はコンビニの惣菜パンを食べながらスマートフォンを操作している。祈里はやはり机の上に四限の試験の範囲であるテキストを広げていた。
「あ、キキョウ座流星群……二十九日に極大らしーぜ」
「え、塩谷、そんなのに興味あったの?」
手元の画面を見ながらそう言った塩谷に、祈里はぼうっと眺めていたテキストから半ば反射的に顔を上げた。そして蓮の顔をまじまじと見る。視線に気が付いた蓮も祈里の顔を見た。
「なんだよ、悪いかよ。桔梗は織古に縁あるし、そうでなくとも星は俺達には馴染み深いだろ」
「いや、それはそうだけど。塩谷がそんなの言い出したの、今回が初めてじゃん……意外とロマンチスト?」
祈里たちの住む市の名前は織古市、そして白旦駅や白旦高校がある町の名前を星斗(ほしと)町という。それぞれの由来は安直に星から取ったものであるらしいと、小学校のカリキュラムにあった郷土理解の授業で習った。
その他にも、織古市には星を由来としたのであろう地名が多く残っている。お世辞にも都会とは言えないこの地では、この現代でも夜になると星がよく見える場所が多かった。
また、織古市の花として桔梗が登録されていることも、小学校のときに習った。星の形の花を咲かせる、それ。これらをひっくるめての蓮の発言であったのであろうことは、祈里にも理解ができた。
しかしそれとこれとは話が別である。ぽかんと虚を突かれた顔をしたかと思えばその口を緩めた祈里に、「言ってろよ」と少し拗ねたように蓮が顔を逸らした。
「浅岸でも誘えばいいんじゃねーの」
「いや誘わないよ。時間帯もあるし、何より本当に受験も目の前じゃん」
「へーえ、ふーん、あっそう」
あからさまに面倒臭い状態の蓮にそれ以上声をかけることはせずに、祈里はテキストに目を戻した。そしてそのテキストを読み込むふりをしながら、考える。──流星群、か。
卵焼きを咀嚼しつつ、その三文字を脳の裏で反芻した。誰かを誘うことはしないでも、一人で空を眺めるくらいはしてもいいかもしれない。
いくら星斗町に縁のある花とはいえ、キキョウ座は世界的に見てもマイナーな部類だったはずだ。どの方角にどんな配置で輝いているのか、祈里もはっきりと覚えていない。
ニュースに大々的に取り上げられるような他の流星群と違い、キキョウ座流星群は規模も小さければ知名度も知る人ぞ知る、程度のものだ。だからこそ、それを蓮が知っていたことに驚いた。祈里自身、どこでそのことを知ったのかは思い出せない。
しかし、これも縁だろう。場所も場所だし、季節も季節だ。運が良ければ見られるかもしれない。
そういえば、秀那と大学についての話をしたことがあったな、と全く関係のないことを思い出した。あれは、いつのことだっただろうか。
「大学ってどんなところですか? 楽しいですか?」
そんな質問を受けて、やっぱり不安にもなるよな、と祈里は苦笑した。
祈里はなるようになれ精神で生きているので、あまりその辺りは気にしたことがなかった。自分さえ良ければ周りの環境には特に興味がないとも言う。
「思ってたよりはつまんなかった。あくまでわたしは、だけど。塩谷は楽しそうだよ」
マイナスなイメージだけを植えつけるのも忍びなく、そう補足をしておく。祈里も祈里だが、蓮も蓮でどんな環境でも楽しめそうな性格だから羨ましい。適応能力というのが高そうだ。秀那はそれを「そうなんですね」と笑って聞いていた。
少しでも参考になりそうなことを教えてあげられれば良いのだが、残念ながら祈里はそれほど大学生活を楽しめていない、と自分では思っている。間違っても、秀那には自分と同じような大学生活を送ってほしくない。
「ヒナちゃんは、楽しめるといいね」
「うーん、どうでしょうね。でも、そうですね。楽しめたら、いいな」
自信なさげに眉を下げていた秀那の顔を、よく覚えている。
それはともかく、昼休みが終わるまではあと五分もないのだが、塩谷は確か三限があったはずだ。
時間は大丈夫なのだろうか、そう思いながらもそれを蓮に教えてやるほど優しい性格をしていない祈里は、黙々とエビグラタンを口に運んだ。占い付きのカップの底の、『恋愛運ウルトラハッピー』のポップな文字が祈里の目には妙に愉快に映った。
そのほんの数秒後、時間に気付いた蓮が大きな物音と同時に椅子から立ち上がったのは、余談であろう。