シスイの説得によりなまえは里に留まることを選んだ。あれから彼はもう一つ見せたいものがあるのだと言ってなまえを自宅へと案内した。
物置から取り出した包みに入っていたのは、かつてなまえがシスイの祖父カガミと交換した風鈴。桃の花が描かれた、世に一つしかない代物である。
壊したくないから一度も飾らず大切に仕舞っていたらしい。祖父の宝物だったんだとシスイは話した。
「一族の間でいろいろと言われているけどじいちゃんは最後まで信じてた。うちはなまえはそんな人じゃないって」
なまえは風鈴の入った箱が丁寧に包まれていく様を見つめながら膝の上で両手を強く握る。
懸命に守った大事な一族の子供、うちはカガミ。そして目の前にいる、彼の子孫であるシスイという少年。
「なまえ。何度も言うがどんな事情があったっていいんだ。オレはお前のことを……じいちゃんが憧れていた人と同じ名前、というだけの理由で助けたいと思ってる」
この出会いが仕組まれたものだったしても。彼らの思いを知ってしまったなまえはそれを振り払ってまで里を出ようとは思えなかったのである。
それから数日後。なまえはうちはカガミの墓の前に来ていた。結局シスイの家で匿ってもらうことになったが、彼が任務で不在の時は家に居辛いためこうして人の少ない場所に来て過ごしていた。
シスイの両親はなまえを家に置くことに反対はしなかった。シスイがどのように説得したのか、二人がうちはなまえについてどう思っているかなどなまえは知らぬままでいる。
シスイの父親は戦争で片足を失いほとんど寝たきりの状態であり、母親はその看病のために家を離れられず、子供のシスイだけが収入を得て生活しているという状況だ。
当然ただで住まわせてもらうつもりはなかったなまえは自分にできることなら何でもやろうとした。シスイの母親はまだ戸惑っているのか簡単なことしかさせないが、その扱いは決してぞんざいなものではなかった。
そうしながらもなまえの胸には不安が付きまとっていた。それは、先日名前のことで怒鳴っていた女。彼女や彼女と同じ考えを持つ者がなまえの存在を知ったことでシスイ達に害をなすようになってしまったら。
無論その時は去るつもりでいる。シスイは止めるだろうがなまえは彼ら一家が傷付けられることも一族内での諍いを引き起こすことも望んではいない。そうならないために極力うちはの人間とすれ違わないように気を付けていた。
うちはなまえに関する誤解を解いていくというシスイの言葉も、出まかせではないのだろうが多数が信じているものを一人の子供が覆すのは余程でない限り不可能だ。反感を買う前にやめさせるべきかと悩んだ時、なまえは彼が過去と現在どちらの自分に対する誤解を解くつもりなのか知らないことに気付いた。そしてそれを改めて確認するというのも躊躇われたため、結局のところ何も行動を起こさないまま今に至る。
「なまえ」
シスイの呼ぶ声がする。なまえは屈んだままそちらを振り向き、歩み寄ってくる彼を見上げた。癖のある髪を見る度、本当にあの少年の子孫なのだということを強く感じる。
「またここに来てたんだな」
きっと祖父も喜んでいるだろう。頷くなまえに対してシスイは笑みを浮かべた。
任務帰りの彼と共に一族の集落へと入る。すれ違う人々の視線を感じてもシスイは普段通りなまえに話しかけた。なまえもシスイといる時だけは彼に合わせた。
当然シスイはなまえの表情が強張っていることに気付いていた。それでも往来の中を歩いているのは、なまえがそこらの子供と何ら変わりないことを周りの人々に示すため。そして多数の大人は例の女のように攻撃的ではないのだということをなまえにわかってもらうためである。
女がどのように吹聴して回ったとしても相手は子供。いきなり石を投げるような真似はしないだろう。こうして少しずつ馴染ませていけばいずれはなまえ一人でも顔を上げて歩けるようになるはずだ。
いつの日か彼女が振り返った時に。いい思い出とまではいかないにしても、せめて「悪い日々ではなかった」と思ってもらえるように精一杯努めよう。シスイは胸の奥でひっそりと誓う。
家に着くと先になまえを中へ入れた。するとその背中にあったうちは一族の家紋が目に留まり、ぼんやりと考える。
存在が疑問と違和感ばかりの彼女に対して何故ここまでするのか。祖父の話があったからというだけではない。己の過ちから目を背けるためにちょうどよかったのだろう。戸惑いと脅えに染まった少女に手を差し伸べることで善い行いをしている気になっているだけかもしれない。
「シスイ?」
外で立ち止まったままのシスイをなまえが呼ぶ。シスイは内心を悟られぬように「何でもない」と誤魔化した。
しかしなまえからはそれらの不安要素がかき消されるほど特別な何かを感じるのだ。恐らく普通ではない自身の行動にあれこれと理由をつけてみても、やはりその直感こそがシスイを突き動かしている最たるものであった。
翌日、なまえはシスイに連れられて集落の中にある公園へと向かっていた。昨晩シスイから「会わせたい奴がいる」と話をされて断り切れなかった結果である。
シスイの思惑はなまえにはわからない。彼も毎回全ての事情を明かす訳ではないのだ。今回に限っては「会ってみればわかる」と面白がって詳細を伏せているだけであったが。
真っ青な空とは対照的になまえの心はどんよりとして憂鬱な気分になっていた。
「イタチ」
待ち合わせの場所に着くとシスイは木陰に腰を下ろしている少年に声をかけた。少年は手に持っていた水筒を地面に置き、ゆっくりと立ち上がる。
なまえと同じくらいの背の高さだ。緩やかな足取りでシスイとなまえの前にやってくる。その視線はなまえへと注がれているが、なまえは下を向いているため交わることはなかった。
「なまえ、こいつがうちはイタチだ。無愛想に見えるけどいい奴だよ」
シスイがなまえの側に立ったまま彼を紹介する。イタチと呼ばれた少年は穴が開きそうなほどになまえをじいっと見つめている。
「なまえは……まあ、オレの親戚みたいなものだ。まだうちに来たばかりで……」
「親戚? 昨日は妹のようだと話してなかったか?」
「馬鹿、それは今言うなよ。とにかく、二人には仲良くしてほしいと思ってる」
シスイは空気を読まず疑問を口にするイタチに呆れながらも笑みを浮かべる。こんな友人だからこそ、なまえに会わせたいと思えたのだ。
イタチはなまえに向けて左手を差し出した。なまえは視界に入ってきたその手に、特に考えることもなく己の左手を重ねた。
軽く握り合う。そして手を離して終わるはずが、イタチはなまえの手を握ったまま動かない。
怪訝に思ったなまえが顔を上げる。そこでようやく二人の視線が交わった。イタチはそれを待っていたのだ。
「よろしく、なまえ」
イタチはにこりとも笑わずに言った。目の前のものに対して何の感情も抱いていないような顔で。
「うん……」
なまえは小さく返事をする。手が離れると、イタチは水筒を置いた木のそばへ戻っていった。
なまえは立ち尽くしたままその背中を見つめる。無愛想に見えるけど、とシスイは彼を紹介した。確かにその通りのようだと静かに納得する。
表情こそ変わらないが、瞬きの間に覗いたイタチの瞳からは柔らかな温もりが感じられた。言葉がなくても、表情がなくても、瞳を見れば何となくわかってしまうのだ。
その時、なまえの胸に切なさが駆け上る。いつも、いつもそうやって一人の男を見つめていた。ずっと考えないようにしていたものが、頭の内側で弾けたように広がろうとしている。
胸元で手を握り締め、まばゆい思い出を心の奥に閉じ込める。今ここで全てを投げ出してそれらに浸ることができればどれほど楽だろうか。
けれども、それは許されない。うちはの子供達や里に住む大勢の人々。多くの苦難に耐えながら懸命に生きる彼らを前にしてその道を選ぶなどなまえにできるはずがなかった。
集落の奥地にある杉の林はなまえの新たな居場所となっていた。背を高く伸ばした木々が並んでいるだけのその一帯は、ほとんどの人にとっては遠くから眺めるだけの景色でしかない。なまえが日中を過ごす場所としては打ってつけであった。
幾つか持ってきた本の中から一冊を手に取る。シスイから里に図書館があることを聞き、さっそく歴史書や生物学の本を借りてきたのだ。過去から現在までの火の国を知るため、そしてゼツの正体を突き止める手がかりを得るために。
そうしていると時折シスイとイタチが修業をしに来ることもあった。もとは二人が使っていた場所で、シスイが「家に居辛いなら」となまえに教えてやったのである。
二人の修業する様を眺めたり難しい言葉が羅列する本を必死に読んだりして毎日が過ぎていく。次第にイタチとも打ち解けていき、シスイがいなくても自然と会話をするようになった。
修業場所にこだわりはなかったイタチがこの林を頻繁に訪れるようになったのは、シスイが任務でいない間なまえのことを見ておくように頼まれたからだ。彼は「たまにでいい」と言っていたが、イタチは何故シスイがそこまでするのかという興味もあって彼女を観察しに来ていた。
確かになまえは目を離せば消えてしまいそうな儚さがあるように感じた。他人がいなくなろうとイタチには関係のないことだったがシスイにとってはそうではないのだろう。たとえばなまえを自分の弟に置き換えてみると心配になる気持ちもわかるような気がした。
「なまえはアカデミーには行かないのか?」
イタチはそう尋ねながら木の枝に引っ掛けていた手拭いを取る。木陰に座って本を読んでいたなまえは僅かに思案した後にきっぱりと答えた。
「うん。行かない」
「何か理由があるのか?」
「……本、読みたいから」
なまえは膝の上で開いたままの本をちらりと見て言った。イタチはその本となまえの顔を交互に見やり、いつも表情を変えない彼にしては珍しく「何だそれ」とおかしそうに笑いを漏らした。
「お前らしいな。でも……たまには体を動かしておいたほうがいいんじゃないか?」
「どうして?」
なまえは不思議そうな顔をする。幼い頃より叩き込まれた忍の作法は体に染み付いているし、今更修業をやり直す必要はないと思っているからだ。それになまえにはやるべきことがある。シスイが不在で孤独に鍛錬を続けるイタチに声をかけようとしないのも己が定めたことを優先するためであった。
しかしそれらのことをイタチが知るはずもない。彼は少し考える素振りを見せて、なまえにこんな提案をした。
「向こうの壁まで競争しよう。どんな手を使ってもいい。お前が勝てばオレはもう何も言わない」
「え?」
「行くぞ」
イタチは手拭いを枝に戻して駆け出した。呆気に取られて口を閉じるのも忘れるなまえだったが、はっと我に返ると慌てて本を置きイタチの後を追い始めた。
考える隙を与えないことで誘いに応じさせるイタチの策であった。何故腰を上げてしまったのだろう。そう思いながらなまえは前を見る。イタチの姿はずっと先だ。追いつくためにはどうすれば、と視線を巡らせた時、なまえは右の足を左の足に引っ掛けてしまい、勢いよく地面に倒れ込んだ。
「…………」
打ち付けた全身の痛みに顔を歪めることもなく、そして起き上がろうともせずに瞬きを繰り返す。足をもつれさせて転んだというこの状況になまえ自身が最も驚いていた。
子供の体で動くことに慣れていないというのもあるだろう。けれども、それ以上に深刻な問題があることを今初めて自覚しつつあった。
「大丈夫か?」
倒れているなまえに気付いたイタチが戻ってきた。なまえはようやく体を起こし、座り込んだままその顔を見上げる。
「イタチ……」
「何だ?」
「私も一緒に修業していい?」
あまりにも複雑そうな顔をして言うなまえに、イタチは思わず吹き出しそうになりながら「ああ」と返す。なまえは服に付いた土も払わず自身の膝をじっと見つめていた。
こうして、イタチが一人の日はなまえも修業をするようになった。咄嗟に動ける体ではなかったことがわかって危機感を覚えたのだ。あれが戦いの場であれば転んだ拍子に背を刺されて無様な終わりを迎えていただろう。
なまえが忍としての能力を備えていることはシスイだけでなくイタチも薄らと気付いていた。足の運びや衣擦れの音を立てない動きなど訓練を受けているのは明らかで、シスイに至っては僅かとはいえなまえから雷撃を食らっているため疑いようがなかった。
しかしそれらの身のこなしは洗練されたものではない。かつての記憶や感覚が残っているだけに今の小さな体に完全には適応できていないのだろう。イタチはその妙なズレを感じ取り、なまえに自覚させるために「かけっこ」に誘ったのである。
「目では追えているのに体が反応できてない。もう少し鍛えて筋力と……」
数十分の組み手を終えて、イタチは顔色の一つも変えずにアドバイスを始めた。一方のなまえは両膝に手をつき、全力疾走をした後のようにぜえぜえと息を切らしている。
「……体力をつけたほうがいい」
なまえはその的確な助言を受けてさらに深く首を垂れる。
およそ二十年の経験があってもイタチには敵わなかった。彼の実力が図抜けていることはシスイとの修業を見てわかっていた。シスイ共々一体どれほどの鍛錬を積めばここまで強くなれるのかと不思議でならない。深呼吸して息を整え木の根元に座り込むとイタチも水筒を持ってきて近くに腰を下ろした。
「なまえは誰に忍のことを教わったんだ?」
なまえはそう尋ねてきたイタチの顔を見る。興味津々といった様子で向けられる瞳。なまえはこの数日の間で、イタチが先程のように笑ったり腑に落ちないことに対して眉をひそめたりするのを何度か目にしてきた。
彼にもまだ年相応なところがあるのだと思うとどこか微笑ましい気持ちになり、核心に触れない範囲でその好奇心に応えることにした。
「兄から全部教わったよ」
「忍術も使えるのか?」
「少しだけなら」
「写輪眼は?」
次々と繰り出される問いに同じように答えを返していたなまえだったが、そこでぴたりと動きを止めた。
写輪眼。今のなまえの左目にはかつての自分自身の眼球が移植されているらしい。写輪眼も使えるはずだとマダラは言っていたが実際に試したことはなく、この先も余程の危機に直面しない限り使うつもりはなかった。
「わからない」
少しの間を置いてそう答える。イタチは「そうか」と零してそれ以上は触れなかった。
「お兄さんはどんな人なんだ?」
「兄は……シスイに少し似てる。世話焼きなところとか」
「今は離れて暮らしているのか?」
「もう亡くなってるから」
その瞬間、イタチが息を止めたのがわかった。風もなく草木の音が途絶えると、まるで辺りの時が止まったかのような錯覚に陥る。
「辛いことを思い出させてしまってすまない」
本当に申し訳なさそうな顔をして言うイタチになまえは首を振る。兄の死はずっと昔のことであり、なまえはすでにそれを乗り越えているのだ。辛い記憶ではなかったがそこまで話すこともできないため、ただ静かに視線を下げた。
「……少し前にオレの弟が生まれたんだ」
「うん」
「歩けるようになったらここにも連れてくるつもりだ」
イタチなりに気を遣ったのだろう。どうしてかなまえはそれが嬉しくて、その日まで里にいるのかさえわからなかったが、この時代において初めて自然な笑みを浮かべることができたのである。
彼らと触れ合うほどに思い起こされる。これから進んでいく先で妨げにならないようにと目を背けていたもう一つの大切なもの。
己の在り方がどうであろうとも。人々からどれほど酷い扱いを受けようとも。なまえはこの里と子供達へ愛おしさを感じずにはいられなかった。