火の国のとある人里へ夫婦が旅にやってきた。そこはただの人里ではなく、見た目の統一された建築と川沿いの自然の景色が美しいことで有名な火の国内でも有数の観光名所であった。
専用の露天風呂が付いた離れの宿には大名がお忍びで訪れるほど。風呂だけでなく食事やもてなしも素晴らしいと口伝えに広まり、国の中心地からは少し外れているものの旅の客が途絶えることはないと言う。
里に入るとまずは案内所で入里の手続きを行う。旅で訪れたことを伝えればここで宿の手配をしてくれる。足労を労い、中の客間で休んでもらっている間に諸々の手続きを済ませるのだ。
「お名前をお伺いしても?」
「うちはマダラとうちはなまえです」
忍里ではないなら名を伏せる必要もない。夫婦の妻のほうが快く答えた。
受付の女は礼を述べ、宿の手配をする旨を伝える。妻は「お願いします」と言い一泊であることを付け加えた。夫のほうはあまり喋らないようだ。
奥の客間へ二人を案内し、女は手続きのため受付の裏の事務室へと入る。客間には茶器や絵巻が飾ってあり、里の案内図なども置いてあるため退屈することはないだろう。
「お、おい、今の……」
早速仕事に取りかかろうとした女を青ざめた顔の男が呼び止める。女は少し迷惑そうにしながらそちらを振り向いた。
彼はこの里の観光に関わる全てを取り仕切っている責任者だ。ただ温泉が湧いて出ていただけの里をここまで発展させ名を広めたのはこの男の手腕によるものである。その類稀なる才能は評価されるべきものだが、性格に少々難があるらしく一部の人間からは鬱陶しく思われていた。
「私はあの男を知っている……ま、間違いない、あれは……!」
「うちはマダラ様とうちはなまえ様とおっしゃるそうです」
「知っていると言っただろ! ええい騒ぐんじゃない。聞こえたらどうする」
騒いでいるのは一人だけだという言葉は飲み込み、女は机に名簿帳を広げた。
「待て。奴はあのうちは一族の中でも最強と言われ恐れられている男。ただでここに来るとは思えない。一体何が目的なんだ……?」
「一泊の旅にいらっしゃったと。見たところご夫婦でしょう。考えすぎです」
女は些か面倒になってきた。誰であろうと客は客。受付という段階で待たせて苦情を貰いたくはない。いつも通り迅速に処理を済ませ、観光の旅へと送り出したかった。
「待てと言っているだろう。まずは二人に茶をお出ししてこい」
「はい?」
「何としても茶柱を立てろよ。機嫌を損ねたら町を焼かれるかもしれないからな」
「無茶を言わないでください」
女は呆れ果てた。しかし男に何か考えがあるのだと思い、言われた通りに茶の用意をするため部屋を出る。こんな男だが、客を満足させる腕は確かなのだ。
枝から離れた楓の葉がひらひらと舞い落ちる。外に見える秋の美しい紅葉には見向きもせず、男は暖簾の隙間から必死に目を凝らしていた。
視線の先には一組の夫婦。うちはマダラとうちはなまえ。未だにあのマダラが旅に来たという現実を受け止められずにいた。
今は千手柱間と作った忍里に住み、戦をすることもなくなったと聞くが、実際にその姿を目にすると自分など片腕で捻り潰されてしまうような恐ろしい迫力があった。
火の国の民でその名を知らぬ者はいないだろう。しかし妻がいるという話は聞いたことがなかった。
あの大男の奥方にしては無垢で騙されやすそうな印象を受ける。
男は茶をふうふうと冷ましているなまえを観察する。受付での様子を見ても基本的には奥方が進んで対応するようだ。マダラはあまり意見せず、奥方がいいならそれでいいというタイプの男だろう。
ならば狙うのは奥方のほうだ。奥方を喜ばせればマダラも満足するに違いない。だがもし無礼を働けばその時は覚悟を決めねばならないだろう。
男は各施設へ通達するよう指示を出す。この里の命運は自分にかかっているのだ。生まれて初めてというほどの重圧を感じ、男は全身を震わせた。
宿へ案内すると言い、受付の女は二人を連れて町を歩いていた。
道を進むほどに見えてくる景色に対してなまえはいちいち反応を示した。左は食事処や土産屋など様々な店が立ち並んでおり、右は川沿いに楓の木や花が植えられていて、一つ一つ見つけては喜んだり驚いたりしている。
マダラもなまえと同じほうを見ながら時折短く言葉を返して歩いていた。その二人の様子は他の客と何ら変わりはない。
何故彼があれほど怯えているのか女は不思議でならなかった。
広い通りから少し離れた閑静な場所に宿はあった。石畳の道の先に低い階段があり、屋根の付いた立派な門の向こうにようやく建物が見える。
先導する女の後に続いて玄関へと入る二人。そして更にその後ろを男がつけていた。
彼の案はこうだ。まずはこの夫婦を本年一千人目の客として宿で迎える。こちらの催しだから此度の旅の代金は要らぬと断ることで心置きなく至福の時を過ごしていただくことができる。
数ある宿の中でも最もいい部屋を用意し、料理も最高級の食材を惜しみなく使った豪勢なものにする。そして幾度となく大名を満足させてきたこの観察眼で彼らの求めるものを見極め、臨機応変な対応、細やかな気配り心配りを皆に徹底させて完全無欠のもてなしをするのだ。
それなりの損失になるがこの里の存亡の危機である。背に腹は代えられない。
裏口から宿に入った男は控室の真ん中で握り拳を作り、己の決意を再確認していた。
マダラ達に用意されたのは、今迎えられた宿を抜けて小径を進んだ先にある離れの部屋だった。
二人だけで過ごすにはあまりにも広い部屋。そして眺めのいい庭と専用の露天風呂まで付いている。
「一つの家みたい……」
なまえが呟いた。案内役の女中は微笑みを返し、二人を座らせて茶の支度を始めた。
もうすぐ昼になろうかという時間。秋の肌寒い朝からちょうど少し暖かくなってくる頃合いだ。
「町を見て回られるのでしたら川沿いに歩いて行かれるといいですよ」
それぞれに湯呑みを置いた女中は盆を膝に乗せて微笑んだ。そして、昼の予定がまだ決まっていなければ赤い橋の近くにある紫の暖簾の店に行くことを勧めた。
なまえは「そうしましょうか」とマダラを見る。彼が頷くと、女中の言った目印を小さな声で繰り返した。
「どうぞごゆっくり」
丁寧にお辞儀をして女中が部屋を後にする。なまえは座ったまま会釈を返してその背中を見送った。
別の女中が運んでくれた荷物が部屋の隅に置いてある。マダラもなまえも替えの服しか詰めてこなかった。本当にただ一泊するだけの目的で訪れているのである。
静寂に包まれた室内。なまえはひとまず湯呑みを手に持った。先程飲んだばかりだったが、わざわざ入れてくれたのだから一口だけでもと思ったのだ。
庭へ目を向けながら少し啜る。おやと思って次は普通に飲んだ。
マダラの湯呑みへと目を向ける。入れたての白い湯気が立ち昇っていた。
なまえの茶はぬるく飲みやすくなっていた。
部屋で少し休んだ後、二人は女中に勧められた店で昼食を済ませた。赤い橋まで行くと紫色の暖簾の店もすぐに見つかって迷うことはなかった。
その後は特に目的もなく川沿いの道を歩いていた。この通りを観光の中心としているのか景観は美しく整えられており往来の人々も多く賑わっていた。
風がそよぐ度に舞い落ちる葉が川の穏やかな流れに攫われていく。きっといい時期に来たのだろう。マダラは落ち葉が頭に乗って慌てるなまえへそっと手を伸ばした。
赤く色付いた葉を指で摘む。確かにいい場所ではあるが、と後方の建物の陰にちらりと目を向ける。
ずっと付き纏ってくる視線さえなければ素直に褒めることもできただろう。そう思いながら葉を離し、先へ行こうとするなまえの後を追った。
一方で男は腰を抜かしていた。一瞬、振り向いたマダラと目が合ったような気がしたのだ。
改めて忍の、彼の恐ろしさを思い知る。一日中籠の中で呆けているような大名とは違うのだ。
胸がどきついている。額は汗でびっしょりと濡れていた。男は袖で汗を拭い、壁に手をついてよろめきながら立ち上がった。
本当は今すぐにでも逃げ出したい。だがそうしてしまえばこの里はどうなるだろう。里だけではない。ここで暮らし、ここで働いている皆のためにもあの二人には満足してお帰りいただかねばならないのだ。
男は更なる使命感に燃え、恐れを跳ね除けて次の目的地へと向かった。
次に先回りをしたのは里で最も人気のある甘味処であった。
立地も構えもよく出来立ての甘い匂いを漂わせれば自然と客の足は向く。女は甘味が好きだろう。マダラも奥方に連れられてやって来るはずだ。
男は店の厨房に潜み二人が入ってくるのを待ち構えていた。店の人間からしてみれば客が多くなる時間帯に突っ立っていられるのは非常に迷惑であった。
しかしいつまで経っても二人は入ってこない。なまえは「賑わっていますね」とだけ言ってマダラと共に早々に通り過ぎていたのだ。それに気付いた男は慌てて外に飛び出していった。
川に沿って歩いているなら姿を見つけるのも難しくはない。夫婦は東屋のある公園で足を止めていた。
菊が咲いている花壇を眺めて話をしているようだ。男は少し離れた木の陰に身を潜めた。
「マダラが……私の育てた花を見ている……」
この公園の花は男が世話をしていた。何だか感慨深いような不思議な気持ちになり、胸に手を当てた。
その時、なまえがはっと何かに気付き両手で口元を覆った。そしてマダラの腕に触れながら前方にある何かを指で示した。
男は何事かと思い身を乗り出す。見せてはならないものでもあっただろうか。不安になりながらその先にあるもの見つける。目を凝らすと、それは子犬の群れだった。
「小さな太郎がいっぱい……」
なまえはそう呟いていた。この辺りの家で飼われている犬が先月の始めに子供を産んでいたのだ。外に慣らすため公園の隅で遊ばせているところをなまえは見つけてしまったのである。
視線に気付いた飼い主が二人に声をかける。触れてみないかと言っているのだろう。なまえは「いいのか」という顔で一度マダラのほうを見て子犬の群れへと近付いていく。マダラもその後ろに続いた。
少し手前の所でなまえがしゃがみ込んだ。一匹の子犬が気付き、トコトコとそちらへ寄っていく。一匹が行くと他の子犬もつられて駆け出した。
なまえは手を伸ばして触れようとした。ところが子犬達はなまえではなくその後ろのマダラの足元にぞろぞろと集まっていった。
男はまずいと焦った。何故奥方のほうに行かせないんだと飼い主を睨みつける。素通りされたことに奥方が悲しみマダラが怒り狂う未来を予感し、男は木に添えた手を震わせながら里の最後を見届けようとした。
しかしなまえはにこにことしていた。ここへ来て一番の笑顔だったかもしれない。マダラが子犬に囲まれている光景は彼女にとって愛らしいものでしかなかった。
マダラはどうしたものかと考え、子犬を踏まないように避けながらなまえのそばへ移動した。子犬達も皆ついてくる。何匹かはなまえのほうへ寄っていき無事に触れ合うことができた。マダラもその場にしゃがみ、足に縋りついている子犬を撫でたりした。
何ということだ。無邪気な動物はあの凶暴な男さえも虜にしてしまうのか。男は新たな可能性に気が付こうとしていた。
「いや……今はそれどころではない。とにかくこれ以上の失態を犯さぬようにして今日を乗り切らなければ」
この里に明日はない。何だかんだと危機を回避できていることに安堵しながらも、決して油断はせぬようにと己に言い聞かせる。
この男は一人で危機を感じ、一人で必死になっているだけであったが、それを指摘してくれる者はいなかった。
観光を終えて離れに戻ったマダラ達が風呂に入っている頃。男は夕餉の支度をしている厨房で次の選択に頭を悩ませていた。
この宿の夕餉には名物料理がある。それは白子を扱ったもの。小鉢に一品を盛り、珍味として客に楽しんでもらっていた。
あまり一般的ではなく好き嫌いの分かれる食材だ。それをあの夫婦に出すか否か。
変わったものを食べるのも旅の思い出にはなるだろう。しかし万が一これをマダラが苦手であったら。そしてそれを奥方に隠していたとしたら。
よくも恥をかかせてくれたと言ってたちまち宿は破壊され里は焼け野原。そこまで先を見てしまった男はすぐさま答えを決めた。
「いいか皆よく聞け。今晩の夕餉だがあの夫婦には絶対に白子をお出しするなよ。もしうっかり卓に並べようものなら我々の明日はないと思え」
あまりにも深刻な物言いに厨房が静まり返る。男はその緊迫した空気を肌に感じ、皆しっかり理解してくれたようだなと一人頷いた。料理の一つでそんなことになるものかと呆れられているのが本当のところであった。
恒例だからと何も考えず提供するのではなく、最悪の事態を想定して適切な判断をする。皆の命を預かっている者として当然の行いである。
これに関しては、この男の判断は正しかったと言えるのかもしれない。
食事が配膳された卓にマダラとなまえは向かい合って座った。並べられた数々の料理とその彩りに目を輝かせるなまえ。これほど華やかで豪勢な料理を目にするのは初めてであった。
そうして自分の近くまで視線を移した時、そこにあった小さな存在に気付いて思わず声を上げた。まだ女中が去っていなかったためすぐに口元を押さえたが、優しげな笑みを返されて恥ずかしくなってしまう。
「里の職人が一つ一つ作り上げたものなのですよ。よろしければ旅の思い出にお持ち帰りくださいね」
「……いいんですか……?」
感激のあまりなまえは囁くような声しか出せなかった。女中は笑顔で頷いて退室する。
なまえは箸をよけて小さなそれをそっと手の平に乗せた。
犬の形をした箸置き。昼に見た子犬に似ていてとても愛らしい。マダラのほうにも色の違うものが置いてあった。
マダラは喜んでいるなまえの姿を眺めながら、こういったものがこの里における客のもてなし方なのだと悟っていた。
そうして何事もなく夕餉の時間は終わった。片付けに来た女中は同時に寝室に布団を敷いて去っていった。今日はもう世話になることはないだろう。
外はいつの間にか夜の帳が下りている。二人は部屋の明かりを落とし、庭に面した濡れ縁に腰を下ろして外を眺めていた。
「マダラさん、寒くありませんか?」
なまえがマダラに問う。秋の夜はそれなりに冷えるのだ。少々肌寒いが耐えられないほどではない。マダラは羽織の前を閉じながら大丈夫だと答えた。
「なんだかようやく落ち着けた気がしますね」
身を寄せて小さな声でなまえが言う。聞いている者はいないのに声を潜めようとするのは辺りが静寂に包まれているからだろう。草木の自然に囲まれたこの場所に町の喧騒は届かない。
澄み通った夜空に無数の星が煌めいている。あの景色だけはどこから眺めようと変わらない。いや、変わらないと言えば隣にある温もりも――。
「それにしても、観光地作りの手本にするために私達で見てこいだなんて……あまりにも突然でしたよね」
現実に引き戻すようなことを言うなまえ。マダラは考えかけていたことを胸に仕舞い込み、銀の穂を揺らすススキに視線を移した。
「あいつはそういう奴だ」
溜め息混じりにそう返す。なまえは目を細めて微笑んだ。
二人がこの里を訪れたのは単に旅のためという訳ではなかった。マダラの言う「あいつ」が先程なまえの言ったようなことを突然提案してきたのである。
温泉街を中心とした観光地作り。火の国最大の忍里としてそちらの方面でも発展させていきたいという柱間の案。
しかしそれならばそういったことに詳しい者を呼んで任せるべきだろう。なまえはそうとも思わないのか頼まれた仕事を遂行すべく真面目に観光をしていた。
馬鹿正直に仕事だと言ってしまうからこうなるのだ。柱間の思惑を薄らと感じているマダラは内心でそう毒づく。
それは柱間がマダラとなまえを旅に行かせるために思い付いた適当な理由であった。マダラだけに言っても動かぬと思ってなまえにも話をしたのだろうが、それが大きな誤りであった。
あれがよかったこれが綺麗だったと一つ一つ思い出しながら話すなまえ。あくまで里のための観光。休息や気晴らしをしようとは考えもしていない。
しかし、邪念がなく真っ直ぐなところがなまえの良さなのだ。あえてそれを明かす必要はないだろう。里に持ち帰る情報を整理しているなまえの横顔を見つめながらマダラは思った。
「それから……」
そう言いかけて、ふと、なまえの瞳がマダラを捉えた。何を考えているのか、口を閉ざして互いに見つめ合う。
月の光を遮るものはない。淡く照らされる髪や肌はとても柔らかそうだ。少しくらい触れてもいいだろうかと、月影に惑わされてしまいそうになった時。
「マダラさん……疲れてしまったのではないですか?」
ぼんやりしていると思ったらしい。なまえは心配そうに眉尻を下げた。
「いや……」
疲れてはいない。そう言おうとしたのになまえは無視して立ち上がり、無情にもこのひと時を終わらせようとする。
「そろそろ休みましょうか」
腰を屈め、髪をさらりと垂らしながら覗き込む。何気ない仕草さえ愛おしく感じてしまい、マダラはほんの僅かな間目を閉じて心を鎮めた。なまえとの旅に少なからず舞い上がっているのかもしれない、などと冷静に己の分析をして。
重い腰を上げて部屋に入るとなまえが静かに障子を閉じた。寝室は東の部屋だったか。そう思っていると指先に温かいものが触れた。なまえの手だ。
なまえはマダラの手を引いてゆっくりと歩き出した。隣の部屋へ行くだけだというのにこの手は何なのだろう。ことごとく予想に反した行いをする女だとわかっていてもマダラは少しばかり期待してしまう。
寝室に入るとなまえは同じように襖を閉じた。隙間なく寄せて敷かれた二組の布団があり、行灯が枕元を薄暗く照らしていたが、なまえがさっとその火を吹き消してこの部屋も真っ暗にしてしまった。
マダラは不動の佇まいでそれを見ていた。わかっている。後は布団に入って眠るだけ。仕事のためでしかないこの観光も朝を迎えたら終わるのだ。投げやりにそんなふうに思っていると、なまえが目の前に立った。
「……あの……」
火を消した後の焦げたような臭いがなまえの後を辿ってきた。消さずにいたほうがその顔もよく見えたのに、とマダラはどうしてか不満ばかりを募らせてしまう。
それを知ってか知らずか、なまえは。
「す、少しだけ……」
そんなことを呟きながらマダラの胸元に頬を寄せ、両手をそっと背中に回した。
抱擁。なまえは宣言した通り本当に少しの間だけそれをしてすぐに離れようとした。
不意を打たれてすぐに動けなかったマダラだが、逃すまいと何とかなまえを腕に閉じ込めた。勢い余って顔をぶつけたなまえが微かに呻き声を漏らす。
構わずに目一杯抱き締める。そうすると何もかも許してしまえるほど心が浄化されていくのを感じた。
なまえの手が再び背中に回る。全身が幸福で満たされる。自分達はもっと触れ合うべきではないかとマダラは思った。思ってしまったら、駄目だった。
己を抑えるものがどこかへ消え去った。
「え?」
きつい抱擁から解放されて大きく息を吸おうとしたなまえ。次の瞬間には体を抱え上げられていた。
そのまま運ばれて布団の上に下ろされる。被さるようにしながら後ろに倒される。流れるような動きで、抵抗を考える間もなく組み敷かれてしまった。
じっと見下ろす視線に熱を感じ、迫ってくるその体をなまえは慌てて押し戻そうとする。
「マ、マダラさん……」
「お前が悪い」
なまえの細腕など何の障害にもならない。機嫌のよくなったマダラは口元に笑みを浮かべながらなまえの頬を撫でる。
仕事は仕事だと割り切って真面目に取り組んでいたなまえがその合間に愛情を見せてくれた。それだけでこの旅が極上のものへと変わる。言葉の一つで、仕草の一つであっさりと左右されてしまうのだ。
だがそれもなまえだから許されること。それ以外の者が翻弄しようものならたちまち業火に焼かれ灰燼に帰すだろう。
そういう意味ではなまえに狙いを定めて奔走したあの男の判断は間違いではなかったのかもしれない。
翌朝の火の国の空は青く晴れ渡っていた。澄んだ空気を胸いっぱいに取り込みたくなるような見事な秋晴れである。
それはまるで男達の胸中を表しているかのようだった。マダラはとても満足した気分で目覚めることができた。里の観光を取り仕切っている男も無事に朝を迎えられたことに心から安堵していた。
里を出る前、見送りに来た一同の中に男もいた。最後くらいはと勇気を振り絞ったのだろう。緊張を悟られぬよう必死に笑みを浮かべて二人の前に立っている。
「い……いかがでしたか、我々の里は。楽しんでいただけましたか?」
両手を擦り合わせながら尋ねる男。その額には薄らと汗が滲んでいる。
何かに怯えているらしいことは一目でわかったがマダラ達は特に触れなかった。なまえは一度マダラを見た後、男に旅の感想を話し始めた。
その最中、男は相槌を打ち感謝の言葉を述べながらちらちらとマダラに視線を向けた。彼が気になっているのはどちらかと言えばマダラのほうなのだ。
その視線の感じは昨日ずっと自分達の後を追っていたものと似ていた。そこでマダラは気付く。なまえの茶をぬるくしたのも、犬の箸置きを用意したのもこの男の仕業だったのだと。
なまえが話し終えると男はこちらに顔を向けてきた。どうだったのか聞きたいのだろう。しかしマダラは答えずそっぽを向くように余所のほうへ顔を向けた。
確かに里は悪いものではなかった。なまえと濃密な夜を過ごすこともできた。いい旅だったと言えるだろう。この男の鬱陶しい視線さえなければ。
つんとしたマダラの態度に慌て出す男。どうしたのだろうかと思いながらもなまえは世話になった女中達へ感謝を伝え、「それでは」と別れを告げた。
踵を返して歩き出す。里に戻って柱間に報告すればこの仕事は終わりだ。
里までの長い帰路もなまえと共に歩むのなら苦ではない。それはこの旅に限らず他の何にだって言えることだ。
青空の下、見渡す限りの大地に眩しい日差しが降り注ぐ。川はきらきらとその光を散らしながら流れていく。
日の差すほうへ進んでいけば迷うことはない。太陽は温かく照らし続けてくれるだろう。二人が歩んでいく道のりを、どこまでも。