79


 里とは何だ。
 忍とは何だ。
 サスケは柱間に問う。
 柱間はマダラのいる戦場へ向かうよりも、サスケの心のわだかまりを解くことを先決とした。
 千手とうちはの歴史。
 木ノ葉隠れの里ができるまで。
 そして、里を抜けたマダラとの決着。
 柱間は己の見てきた全てをサスケに話した。
 忍とは耐え忍ぶ者。
 その答えを聞いたサスケは、兄イタチこそが柱間の意志を継いだ忍だったと理解する。

「お前の兄だけではない。そこにいるなまえもそうだ」

 扉間は一人離れて立つなまえへと視線を向ける。
 一族の枠を越えて里のために尽くした者。
 目を閉じて話を聞いていたなまえは顔を上げ、静かに首を振った。

「私は……そんな立派なものでは……」
「お前達が里を抜け、様々な噂が飛び交おうと、カガミだけはお前を信じ続けていた」

 里を守ることは子供達を守ること。子供達を守り育てていけば、いずれは一族同士のしがらみもなくなっていくのだと信じ、扉間の下で懸命に働いたなまえ。
 なまえのその思いはカガミが継ぎ、シスイへと伝えられ、そしてイタチへと繋がったのだ。
 もしなまえが里を去らず次の世代の手本となり続けていれば、里の、うちはの未来も違うものになっていたかもしれない。
 口には出さなかったが、扉間は今でもその可能性を夢見ずにはいられなかった。

「さあ……サスケくん、どうするの?」

 大蛇丸がサスケに問う。
 イタチに闇を背負わせた里への復讐か。
 それとも、全てを無にしようとしているマダラを止めるのか。
 答えを出すのに時間はかからなかった。

「オレは戦場に行く」

 自分の中で道はすでに見えていたのだろう。それを確かにするものが欲しかったのだ。

「決まりだ」

 柱間が立ち上がる。外へ飛ぶ準備をするよう扉間に言った。

「お待ちください」

 四代目火影ミナトが声を上げる。
 皆が振り返る中、ミナトはなまえへと顔を向けた。

「我々はこれからうちはマダラを倒しに行くんですよね? でしたらその妻である彼女は……」

 言わんとしていることを扉間がいち早く察する。
 敵となるならば自由にさせないほうがいい。今のうちに拘束しておくべきではないかと、里を守る立場の人間として意見しようとしているのだ。

「四代目。貴様はこ奴を知らぬから無理もないが……そこらの女と同じだと思わぬことだ。肝を抜かれるぞ」

 最もなまえの近くに立っていた扉間は庇うように前へ出た。
 至極真面目な顔をしているが、どこか得意げな様子にも見え、柱間は笑みが零れる。
 これまでのなまえを知らずとも、戦争が起きている現在の状況をよしとしていないのは、彼女がこの場にいるというたったそれだけの事実で柱間と扉間にはわかるのであった。
 マダラを差し置いてまで、道に迷っていたうちはの子供と共にいる。
 それでこそなまえだった。あの頃と変わらずにいることに扉間は喜びさえ感じていた。

「とはいえ……本人の弁を聞くのが早かろう。どうなのだ、なまえ?」

 無論、そう易々と信用できないこともわかっている。それならばなまえ自身から話をさせたほうが早いと扉間は判断し、なまえを振り返った。
 全員からの視線を受け、なまえは戸惑いを見せる。突然の事態に、準備などしていなかったからだ。
 しかし扉間から話せと言われて黙っている訳にはいかない。こんな状況になっても自分を信用してくれる二人の優しさを蔑ろにすることはできなかった。
 どう話すべきか少し考え、ミナトへ顔を向ける。

「私はまだ、マダラさんに会っていないから……この後の計画が具体的にどうやって行われるのか知りません。ですが……」
「会っていないとはどういうことだ? お前はあのマダラと一緒にいたはずだ」

 飛び出した矛盾点をサスケがいち早く指摘した。
 なまえは言葉を止め、サスケに視線を移す。

「トビ……仮面の彼はマダラさんじゃない。本人に成り代わって行動していただけの別人だよ。気が付かなかった? 私は彼を一度もマダラとは呼んでない……」

 なまえの視界の端で大蛇丸が僅かに反応を示す。
 扉間達がマダラのチャクラを感知したということは、あちらではすでにトビではない本物のマダラが動いているということだ。
 もはや隠すことに意味はなかった。

「なら、あのトビって奴は何者なんだ」
「運悪く私達の前に落ちてきて傀儡にされてしまった……うちはの子供だよ」

 舌に封印を施されているため名を口にすることはできなかった。
 なまえはあの地下空間での出来事を思い出す。あそこで死を免れたのは彼にとって果たして幸運だったのか不幸だったのか。
 定められた結末だけを見ても、前者と言えるはずがない。
 なまえはミナトへと視線を戻す。

「この時代は、この時代を生きている子供達のもの……。すでに死んでいるはずの私達が関わっていいものではありません」

 それはなまえ自身も、マダラも、穢土転生された彼らも同じことだ。

「では何故あなたはその子供と一緒にいたんです? ご自身は生きながら、止めもせずに……」

 容赦のないミナトの指摘にもなまえは怯まない。
 おかしいと思うのは当然だ。
 なまえは、いつも考えていた。

「私が弱かったからです。私にもっと勇気があれば、こんな状況になる前に止めることができたかもしれません。私が、もっと強ければ……」

 実際、それができる立場にあったことは間違いない。
 誰一人としてそう責める者はいなかったが、自分でわかっていた。

「……マダラさんが里を抜けることを止められたかもしれない」

 なまえは柱間と扉間を見る。

「あの子が九尾を使って里を襲うのを止められたかもしれない」

 三代目ヒルゼン、四代目ミナトを見る。

「シスイやイタチの犠牲を……一族の滅びを止められたかもしれない」

 サスケを見る。

「この戦争も本当は止められたんじゃないかって……私はずっと……今も、何度も……!」

 なまえがずっと胸の内に隠してきた思い。言葉にして吐き出せば、抑え込んできた感情も一緒になって溢れてくるようだった。
 だが、それを彼らにぶつけたところで何かが変わる訳ではない。強く握った拳に、再度それらを閉じ込める。
 なまえがこれほど感情的になる姿は、当時を知る柱間達でさえ初めて目にしただろう。
 話を振った扉間も、ここまで思い詰めているとは思っていなかった。

「どれほど悔やんでも……過去を変えることはできません。だから私は、闇に引きずり込んでしまったあの子だけは助けようと決めたのです。たとえそれがマダラさんの意に背くことになったとしても……」

 強い決意。それこそが、なまえが今までオビトの隣を歩き、見つめてきた理由だった。
 口先だけでは何とでも言える。しかし、他の誤魔化しが利かない部分、初めは冷たささえ感じていた瞳が熱を帯びたことに、本心であることをミナトは感じた。

「あなたの考えはよくわかりました……先代達が信じるあなたを私も信じます」

 なまえは何も言わず、そっと視線を外した。
 もともと、自分の胸の内を話すことなどあまり慣れていないのだ。

「話は済んだな。では改めて……向かうとするか」

 柱間は力強い笑みを浮かべる。変わらぬその頼もしさに、なまえは今も救われる思いになるのであった。


 火影岩の崖へと移動した一行。柱間が、戦場へ行く前に里の景色を目に焼き付けておきたいと言い出したからだ。
 呆れながらもそれに付き合ってやる扉間も昔と変わらないようであった。
 なまえは里で調べたいことがあるため後から向かうことを伝えた。そして、里を懐かしがる火影達を待っているサスケに声をかける。

「サスケ……」

 様々な思いが、何を話すべきか迷わせる。その多くはイタチに関することだった。
 けれども、今言うべきなのはそれではない。

「私の話なんて聞きたくないかもしれないけど……」
「別に……お前のことは何とも思っていない」

 気を遣っただけだとしても、そう言ってくれたことがなまえは嬉しかった。
 次にいつ言葉を交わせるかわからないから今のうちに伝えておきたいのだ。

「この後、どんなことになっても……私のことなんて考えなくていいからね」

 マダラと戦うことになっても躊躇するなと、暗にそう言っている。
 サスケはいつものように鼻で笑ってみせた。

「初めからそのつもりだ」

 いらぬ世話だったのかもしれない。なまえはそう気付き、少しだけ目を細めた。これ以上の助言は必要ない。
 それからなまえは戦場へと発つ一行を見送った。先程の件で気にかけたのか、柱間と扉間は分身を一体ずつ残してなまえにつけた。
 なまえの目的は、里本部の情報室。長年探しているゼツの手掛かりを、警備が手薄になっているこの機に見つけようとしていた。
 しかしこの二人がいれば問題なく中へ入れそうである。分身を残してくれたのは非常に有り難かった。

「なまえ、舌を見せろ」

 歩き出す直前、扉間が呼び止めた。なまえは小首を傾げながらも言われたとおりにする。
 扉間はなまえの舌の呪印に気付いていた。

「……簡単な術式だな」

 解、となまえの喉元に触れて解術する。チャクラの動きに僅かに体を揺らしたなまえだったが、それも一瞬のことだった。

「……オビト……オビト……」

 封印が解かれ、およそ十数年ぶりにその名を口にするなまえ。

「オビト……」

 ようやく本当の名前で呼べることに些か安堵を浮かべた。
 そして、状況的にももう隠す必要のない局面まで来てしまったことを改めて実感する。

「それがお前の言っていたうちはの子の名か?」
「はい」

 横で見ていた柱間に問われ、なまえは頷く。
 解いてくれた扉間には感謝しかなかった。

「扉間さん、ありがとうございます」
「……こういった術もお前に教えていくつもりだったのだがな」

 ふいに扉間が零した。
 責めているのではない。どちらかと言うと、残念がっているという様子だ。
 それを聞いた柱間は嬉しそうに笑みを作る。

「なまえが里を去って一番落ち込んでいたのは扉間だったかもしれんの」
「当然だ。里のため、ワシ自ら育てるつもりでいろいろと考えていたのだ。術だけでなく広い分野でな」

 おちょくろうとする柱間に対し、扉間は至って真面目に答える。
 あの扉間がそれほど期待をかけてくれていたのだと知り、なまえは嬉しさよりも申し訳なさを覚えた。

「しかしお前も苦労するな。一人で大変だったろう、ここまで……」

 柱間がなまえの肩に触れる。
 なまえはその優しい声に昔を思い出した。
 柱間はいつだって優しかった。マダラのことで悩んでいないかといつも気にかけてくれていた。
 何も言わないなまえの顔を見た時、二人はぎょっとして目を見開いた。

「…………」

 なまえの目に滲んだ涙が頬を伝って落ちる。
 あれから本当にいろいろなことがあった。その優しさに縋ってしまいたくなるほど苦しいことばかりだった。
 だが、ここで立ち止まる訳にはいかない。やらなければならないことがあるのだ。
 そして、何度も背中を押してくれた人達の存在も決して忘れてはならない。
 なまえは涙を拭った。

「柱間さん、扉間さん……いつも助けていただいてありがとうございました。お二人には、本当に感謝しています」

 自分を気にかけてくれる相手が近くにいたことがどれほど幸福だったのか、なまえは今になって痛いほど胸に感じたのである。
 その思いを伝えられただけでも、この時代を生きたことに価値があったように思えた。

「なまえ……いいのか? オレ達はこれからマダラを倒しに行くんだぞ」

 柱間は神妙な面持ちで問う。
 先程とは違う答えを聞こうとしているのかもしれない。
 しかし、なまえは「はい」と即答する。

「私達はこの時代の異物です。排除されるべき存在であることは誰よりもわかっています。もう一度、なんて望んではいけないことも……」

 なまえは静かに語る。
 それは間違いなく本心であった。本心ではあったが、さらにその奥に隠されたものを、扉間だけでなく柱間でさえもこの時は見抜くことができた。
 許されないことだからと自分に言い聞かせ、本当の気持ちを無理やりに抑え込んでいるのだ。
 柱間はなまえの目を見つめた。

「なまえ、お前は必ずマダラと会え。そして言葉を交わせ。誰が何と言おうと……オレがその時間を作る」

 本気だった。
 それを感じたなまえは口を閉ざして俯いた。けれども柱間はなまえの両肩を掴み、有無を言わさぬ勢いで「よいな」と念を押した。

「……ですが……」
「不安なら、オレがあいつの所へ連れていく。あの時のように」

 あの時。それはマダラとなまえが初めて顔を合わせた時のこと。
 多少強引にでも引き合わせなければこの二人は駄目なのだ。そして、それをするのは自分の役目だと柱間は昔から考えていた。

「わかりました……」

 押し負けたなまえはようやく返事をする。
 柱間は力強く頷いた。


 木ノ葉の里の情報室。あらゆる知が集められたこの一室には、当然外部の人間が入ることは許されない。
 しかし、穢土転生体とはいえ初代火影と二代目火影、そしてその二人が連れたなまえの入室を拒める者はいなかった。

「何を探している?」

 書棚の前に立つなまえに扉間が問う。
 数冊の本を抜き出したなまえは近くの机にそれを置き、扉間を見上げる。

「お二人は、ゼツという名に聞き覚えはありませんか?」

 なまえが広げたのは、自分達が生まれたよりも以前の歴史が記された本。
 なまえの問いにはどちらも否定を示した。

「マダラさんの代わりに月の眼計画を進めているのはうちはオビトです。ゼツはマダラさんが残した意志としてその補助をしているのですが……」

 なまえは頁をめくる手を止め、二人を見る。

「ゼツは私達の時代にすでに存在していました。私は、彼が何か別の目的を持って仲間のふりをしているのではないかと……そんな気がしてならないのです」

 そう言って再び本をめくり始めたなまえ。話を聞き出すうち、扉間は昔の感覚を思い出した。
 里という基盤を確かなものとするため、やるべきことが多々あったあの時代。
 里に移ってきた忍に協力を募り、任務という形で仕事を頼んでいた。
 特例で単独行動を許し、その身軽さを活かして求めた以上の成果を短期で持ち帰っていたなまえ。
 他の忍に頼んだ時は自分でやったほうが速いと思うことも安心して任せられた。
 初めて信用したと言ってもいいうちは一族の人間。
 未熟な部分も多くあったが、物事を見定める目は誰よりも優れていると、扉間は今でもそう思っている。

「お前がそう見たのなら何かがあるのは間違いないだろう」

 そう言って、扉間も机に置かれた本の一つを手に取った。

「そのゼツとやら……長い時を生きているとすれば一体何者ぞ?」
「名前以外何もわかっていません。まず、人間なのかさえ……。彼に関する情報はずっと探してきましたが、ここにもないのなら恐らく……」
「本人から直接聞くしかないということだな」

 扉間の結論になまえは頷いた。なまえの目をもってしても見つけられなかったのなら、どこを探しても無意味だろう。

「わかった。我らも留意するとしよう」
「兄者」
「ああ。なまえ、すまんがあちらが少々危ういようだ。分身を解き、本体へチャクラを回す」

 柱間のその言葉に、なまえは開いていた本を閉じた。

「はい。私のためにありがとうございました」
「お前と話ができてよかった。マダラが封印される前に必ず来るのだぞ」

 柱間は再度念を押した。
 すると、扉間がなまえの代わりに答えた。

「案ずるな、兄者。なまえの足ならすぐに追い付く」

 扉間の分身は煙を残して消えた。
 この二人の絆も相当なものだ。柱間は内心で嬉しさを感じた。

「なまえ……最後に一つ聞かせてくれ」

 残った柱間に、なまえは顔を向けた。

「お前は、マダラと一緒になって幸せだったか?」

 なまえはわずかに目を丸くする。
 しかし口元はすぐに弧を描いた。
 考えるまでもない。

「はい。幸せでした」

 過ごした時間がどれほど短いものだったとしても。
 偽りのない微笑みを見せるなまえに、柱間も目を細めた。


 その後、どの資料を探してもゼツに繋がる情報は見つからなかった。
 扉間の言ったとおり、本人から聞く以外に手段はないように思えた。
 全ての本を元の場所に戻し、なまえは一人、立ち尽くす。
 それがわかったところで、自分に何ができると言うのだろう。
 何かを成し得たことなど一度だってありはしないのに。

「…………」

 なまえは目を閉じ、静かに息を吐く。
 これまでのこと。これからのこと。
 少しの間、思いを寄せる。
 そして、目を開けた。
 行かなくては。



 外套はうちはの石碑の前に置いてきた。
 オビトが用意してくれたものだ。適当な場所に捨てることはできなかった。
 もう背中の家紋を隠す必要はない。
 聞いていた方角を目指して走る。
 月へ届くほど高く大きな樹が見えた。
 その頂上から地上へ目がけて小さな光が飛んでいく。
 爆発の衝撃を感じた。
 そこへ行けばいいのだろう。


「間に合ったか、なまえ……」

 遠くになまえの姿を見つけて柱間が呟いた。
 マダラが輪廻天生の術で復活を果たした直後だった。
 穢土転生時の輪廻眼は仮のもの。本来の眼はオビトが持っているため、今のマダラは瞼を閉ざしている。
 それでも彼は感じるようだ。

「…………」

 見える距離まで来た時、なまえは足を止めた。
 しかし、すぐに歩き出す。
 覚悟はとっくに決めてきた。

「あれって……サスケの姉ちゃん?」

 なまえに気付いたナルトが零す。近くにいたサスケが即座に反応した。

「誰の姉だと?」
「皆、少しでいい。彼女に……なまえに時間をやってくれないか」

 柱間は周囲の忍に伝えた。
 騒がしかった戦場が静寂に包まれる。
 その中心で。
 長い時の果てに、二人は再会を果たすのである。

「……マダラさん……」

 魂のない抜け殻ではない。
 本物のマダラが、目の前にいる。

「なまえ……」

 マダラがその名を呼ぶ。
 手が触れる位置まで近付いた。
 マダラにとってはいい頃合いだった。
 穢土転生などという塵芥の体でなまえに触れるつもりはなかったからだ。
 なまえをひと思いに抱き寄せる。
 が、どうしてかなまえは体を逸らして抵抗しようとした。

「柱間さんのお顔が……」

 マダラの左胸のことだ。
 こんな時でさえ、なまえのその反応。
 昔と何一つ変わっていないことが、マダラは嬉しかった。

「相変わらずだな……」

 右へと寄せて今度こそ抱き締める。
 なまえは大人しく頬を寄せた。

「体は成長したか?」

 マダラが最後に見たなまえは子供の姿だった。

「はい……」

 昔と同じくらいになった。

「髪も、伸びたか」

 優しく髪を掬う指先。

「もう、何度切ったかわからないくらい……」

 それだけ長い時間が経ったということだ。
 なまえはそっと体を離した。

「目は……どうしたのですか?」

 閉ざされた瞼を見つめる。

「オレの眼はオビトが持っている。返してもらわねばな……お前の顔を見るためにも」

 オビト。
 その名を聞いてなまえは顔を俯けた。下ろした両手を袖の下で握り締める。

「ずっと会いたかった……」

 本当は、怖かった。

「ああ……もう時間はかけん。あと少しだけ待っていろ」

 マダラの指がなまえの頬を撫でる。
 手袋越しにもわかる。その指先の低い温度に、心を溶かされてしまいそうになる。
 今、ここでその手に全てを委ねてしまえば。
 苦しみなどない、幸せなだけの世界に逃げることができるのだろう。
 これまでの決意や覚悟を捨てて。
 悲しかったことも全部忘れて。
 そのほうが、きっと、今よりもずっと楽なのだ。

「マダラさん……」

 頬に触れる手に、己の手を重ねる。
 優しく握り、ゆっくりと下ろす。
 なまえはマダラの顔を見上げた。

「その前に……少しだけ、私の話を聞いてくれますか?」

 だから、怖かった。
 揺らいでしまうから、会うのが怖かった。
 この男の、愛情を秘めた深い瞳に見つめられれば、なまえは目をそらすことなどできなかっただろう。
 閉ざされていたからこそ、踏み止まることができた。
 なまえはマダラの手を握ったまま、今はないはずの目を見つめるようにして話を始めた。

「マダラさん、覚えていますか? 里作りが始まる前の、うちはと千手の最後の戦い……。あの日、私もあの場にいたんです」

 この話は、カガミにだけ聞かせたことがある。
 マダラ本人に話すことはないと思っていたが、これが最後になると考えた時、他に相応しいものが思い浮かばなかった。
 あの日、マダラが柱間の手を取ったあの瞬間。
 どういう思いの果てにその選択をしたのか、自分だけは忘れないでいようと思ったこと。
 それから里ができて、マダラと一緒に暮らすようになったこと。
 里での生活が、マダラと過ごす日々が本当に楽しかったこと。
 次第にうちはの皆の心が離れていったが、それでも構わなかった。
 里の中に一族があって、自分の隣にはマダラがいた。
 それが嬉しくて、辛いことも乗り越えられた。
 けれども、里を離れることになった。
 どうしようもない困難が続いた。
 なまえが仕方がないと受け入れても、マダラは諦めなかった。
 諦めず、今、こうしてここに立っている。

「昔も、今も……マダラさんがどんな思いでいるのか、私はわかったつもりでいるだけなのかもしれません」

 なまえは周囲を見渡した。

「ですが……これまで失ってきたもの、マダラさんが愛したもの達のためにここにいるのだとすれば、それを否定することは私にはできないのです」

 それによって傷付けられた多くの人々。
 なまえはそれらを目に映した後、月へ届かんとする大樹を見上げた。

「だから、どんな道であろうとも私は一緒に歩みます。いつか、マダラさんがそう言ってくれたように……。行き着く先がどんな場所でも、マダラさんがいてくれればいいんです。だって私は……」

 なまえはマダラの手を両手で包み込む。
 そして――。

「マダラさんを愛しているから……」

 見えないはずの彼に向けて、とびきりの笑顔を浮かべるのだ。

「…………」

 マダラはもう一方の手でなまえの腕に触れる。
 およそ七十年の時を経て、初めてなまえから伝えられた数々の思い。
 自分が気付くよりもずっと前からなまえが自分を見ていたなどと知りもしなかった。
 だが、何故それをこの時に話すのか。
 それを考えた時、マダラは少しだけ嫌な予感がした。

「この先も、私を一緒に連れていってくれますか?」

 なまえの声に感じる微かな震え。
 不安がっているのだとマダラは思った。
 無理もない。
 おぞましささえ感じる巨大な樹。
 屍の転がるこの大地の上で、誰も目にしたことのない世界を作り出そうとしているのだ。
 怖れを覚えるのも当然だろう。

「ああ。お前だけは必ず連れていく」

 なまえの手を握り返し、答える。
 だからこそ自分の気持ちを確かめる必要があったのだ。
 この先へと進むために。

「よかった……」

 なまえは安心したように呟く。

「あ、でも……一つ、先にやっておきたいことがあるんです。少しだけ待っていてもらえますか?」

 なまえは言った。
 もうすぐ全てが夢の世界へと消える。やり残しなど気にすることもないのに、何だと言うのだろう。
 そう思ったが、なまえの意思を拒むことはできない。
 近くにいれば戦いに巻き込んでしまう恐れもある。
 ならば手早く準備を済ませて迎えに行くことにしよう。
 マダラはなまえのためを思い、手を離す。
 するり、と離れ難そうな指先を感じた。



 二人の様子は、柱間の場所からはよく見えた。

「マダラ……お前には見えないのか」

 マダラのそばを離れるなまえの顔も。

「お前が悲しませてどうする……」

 涙を拭う仕草も。

「この大馬鹿者が……!」

 こんな道しか選べなかった友と。
 それを止められなかった自分自身が。
 どうしようもなく腹立たしかった。