3(前)


 翌日。オビトはまたしても、マダラとなまえの住む雨隠れの里を訪れていた。
 今日も今日とて雲に覆われたこの里の空を見上げて目を細める。昨夜はほとんど眠れなかったから薄く差し込む光にも目の奥が染みるようだった。
 二人が住む家には遠慮なく出入りしているものの、神威で部屋の中に直接飛ぶのはさすがに気が引けるため、数階下の通路に転移していつもそこから階段を上って向かっていた。玄関前でもいいのだろうが、ドアノブを回すまでに時間が欲しいため、あえて少し離れた場所をマーキングしている。
 歩きながら息を吐き出し、目を伏せて、静けさに同化する。緊張しているのではない。マダラやなまえに対して抱いているものをうっかり表出させてしまわないように、こうして歩きながら心を落ち着けているのだ。
 任務の後だと気が立っていて攻撃的になるかもしれない。木ノ葉の人々と接した後だと気が緩んで余計なことを言ってしまうかもしれない。以前なまえの前でマダラを毒突いた時、わずかに悲しげな顔をするのを見た。それは単純に言葉のきつさにそんな顔をしたのではないだろう。なまえのことだから、これまでのことや、マダラとオビトの関係がどうにもならないこと、また、それをどうにもできない自分が不甲斐なく、心を痛めているに違いなかった。
 オビトは暁を通して様々な人間を見てきた。自分自身も年を重ねて多くを経験し、そういう見えない部分にも考えが及ぶようになった。何よりなまえのことに関しては、彼女と旅をした年月が、共に過ごした時間が容易にそれを悟らせる。表情の意味するもの。言葉にしない、胸の内側に隠した思いを。
 なまえには、もう、何にも苛まれることなくただ平和に生きてほしい。それは直接の血の繋がりがない相手へ向けるには度が過ぎた思いかもしれない。けれどもなまえは命の恩人だ。どうしようもないほど罪を重ねてきた自分に手を差し伸べ、救ってくれた。
 返しきれない恩があるのだ。なまえはやめろと言うだろうが、オビトは残りの人生をそのために使うつもりでいた。
 やり直すと言ったって、他にできることもやりたいこともない。取り戻したかったものもここにはもうない。空っぽの中で唯一思い付いたのがなまえへのそれだった。
 不思議と自分で納得できた。なまえのためならいいかと、気持ちがすんなり定まったのだ。
 胸にあるのは恋慕といった類のものではなく、家族に抱くような情。
 ――そう、家族だ。家族に近い感覚だ。
 オビトはようやく思い至る。そして、なまえはずっと前から自分をそうやって見ていたのだということにも同時に気が付いた。なまえにとってうちは一族は、直接の血の繋がりがあろうとなかろうと、一つの家族のようなものなのだろう。
 現在からすれば古くさい考えだと思う。けれどもなまえにはそれが普通のことのようだった。
 生まれた時代の違い。その一言で片付けるには、なまえのうちはへの愛情はあまりにも大きすぎる。なまえが元来そういう人間なのだろうか。はたまた、マダラが何か関係しているのか。
 当時を知らぬオビトにはわからない。わからないが、そこに秘められた目に見えない何かがあの二人を結び付けているのではないかと、そんな気がしてならない。
 だとすればその絆は相当に強固なものであるはずだ。たった一度の死程度では、互いの手を離さぬほどに。果たして自分が入り込む余地があるのか。いっそ関わらないほうが二人は幸せに暮らせるのかもしれない。そんなふうに考えてしまうことが、ないと言えば嘘になる。
 部屋の前に着く。ドアノブに手を伸ばした。いろいろと思うことはあっても躊躇いはない。何故なら今日は大事な用があって来ているからだ。
 時刻は、朝を少し過ぎた頃。
 ノブを回してドアを引く。鍵は開いていた。彼らが起きて中にいる間はこうして開けていてくれる。不用心に思えるが、いつ来るかわからないオビトのためだ。こういったところからもオビトはなまえの優しさを感じた。

「入るぞ」

 いつものように声をかけてから、草履を脱いで中に入る。その時オビトは家の中に漂う空気が普段と違うことに気が付いた。
 いつもなら少しの話し声や物音が聞こえてきて、その気配に安心感を覚えていた。しかし今は耳を澄ましても何も聞こえない。それだけでなくどこか居心地のよくない感じまでしてくる。
 何かあったのか。オビトは微かな不安に眉をひそめながら居間に続く戸を開く。
 そこに、二人の姿はあった。普段なら睦まじく隣同士にソファに座っているのが、どうしてか距離を取っている。マダラはいつもの位置で、なまえはその端のほうの床に膝を抱えて座っていた。
 どんよりとした空気。マダラはちらりとオビトに視線を向けたがなまえは俯いたまま動かない。二人の間に何かがあったのは一目瞭然だ。そしてそれはオビトがこんな時間からここを訪れる羽目になった理由でもあるのだろうが、問いただすのは後にする。

「おい、今日は検査の日だろ。何してるんだ」

 オビトは腰に手を当てて呆れたように言った。直後、しんとした部屋に奇妙な緊張感を覚える。

「……今日は行かない」

 俯いたままのなまえが弱々しい声で返す。

「行かないって何だよ。サクラが時間作って待ってるんだぞ」
「……行きたくない……」

 駄々をこねる子供のようだ。こんななまえを目にするのは初めてだった。オビトは余程のことがあったらしいなと内心で同情する。
 こうなった原因がどちらにあるのかは知らないが、この調子のなまえをマダラも連れ出せなかったのだろう。約束を守らなければ立場が悪くなるのはわかっているはずなのに、このマダラという男は、一度世界を滅ぼしかけたのが信じられなくなるほど、なまえには弱いようであった。
 ――しかしそれなら、何故こんな状況になっている?
 首を捻ったのも束の間。時間を無駄にする余裕がないことを思い出し、オビトはなまえへと迫った。

「五分だけでもいいから顔を見せてやれ。サクラを心配させたくないだろ?」
「…………」
「定期的に木ノ葉へ行くのはお前達にとって大事なことだ。今のような自由な暮らしができなくなってもいいのか?」

 脅しではなく本当のことだった。そこまで言うとなまえはようやく顔を上げた。酷く傷心しているような表情。それを無理やり連れ出すというのはかなり気が引けたがこうするしかないのだ。その時オビトは身動きの取れなくなったマダラの気持ちがわかった気がした。

「今日はオレが連れていく」

 おずおずと向けられた視線の重なりを了承と受け取る。そして一応は許可を得ようとしてマダラのほうを見るも、一瞥をくれるのみで返事はない。外された視線の動きから、少しだけマダラも気まずそうにしているのを感じた。そちらに原因があるということだろうか。
 オビトはなまえを立ち上がらせて玄関へ向かい、脱いだばかりの草履を再び履いた。渋々といった調子で履くなまえを待っていると壁に吊るされた外套が目に入った。二つあるうちの丈の短いほうがなまえのものだろう。オビトはそれをフックから外してなまえの身をくるんだ。

「ありがとう」

 なまえはそう言って外套の前を留める。一言も口を利きたくないというほどではないようだ。
 オビトはなまえの肩に触れた。二人の間に一体何があったのか。それは時空間の中で聞くことにする。


 周囲は暗く、まばらに配置された足場以外には何もない時空間。息遣いさえも響いてしまいそうなほどの静けさが広がっている。
 オビトは、身なりを整えているなまえを見下ろした。つい先程まで意気込んでいたものの、本当に聞いていいのか今になって尻込みする。
 しかし悩んでいるのなら助けてやりたかった。なまえがいつもオビトを心配しているように、オビトもなまえのことを心配しているのだ。

「なまえ」

 あれこれ考えているうちに口が勝手に動いた。
 なまえは憂いを帯びた瞳をオビトに向ける。どうしたの、とにこにこと笑みを浮かべて聞き返す彼女はここにはいない。

「いや……」

 もしも拒絶されたら。オビトは想像して言葉に詰まる。べつに、などと素っ気なく返されたら心臓がきゅっと縮まってしまいそうだ。
 ――そうなったらすぐに木ノ葉の里へ出ればいい。この空間の支配権は自分にあるのだから。
 何故そのような考えに至ったのかオビト自身にもわからなかったが、そう思うと少し強気になれた。冷静になってみればあまりの必死さが滑稽でしかないのに、この時は気付かない。

「……あいつと何かあったのか?」

 思っていたよりも緊張していたらしい。オビトはどうにか言葉を吐き出した後、大きく息を吸い込んだ。この重苦しい空気に呼吸するのさえ恐れてしまっていたようだ。以前なまえと旅をしていた時にはこんなふうに感じたことはなかった。自身に向けられる優しさを知った今、なまえに拒絶されたくない、と無意識のところで思っているのだろう。

「…………」

 なまえは無言のまま、オビトに向けていた視線をすっと外した。話したくないなら無理には聞かない。オビトがすかさず言おうとした時、なまえはぼそっと零した。

「ベッドのこと怒られたの」
「……ん?」
「昨日、オビトに頼んでベッドを広くしてもらったでしょ。マダラさんに言わずにやっちゃったから、そのことで……」

 なまえは悲しげに目を伏せる。
 昨夜、知らぬ間に変わり果てたベッドを見たマダラに、せめて一言伝えてほしかったとそんな当然のことを言われただけだったが、喜んでもらえることを期待していたなまえは酷く狼狽した。
 マダラにしてみれば自分となまえが使うもののことなのにオビトを頼ったというところが不満でしかない。しかしなまえはベッドがせまいことをしきりに気にしていたから自分のためを思ってそうしたのはわかる。そんな様々な思いを胸の内に押し止め、事前に伝えてほしかったという一言をただ言っただけであったが、その辺りの感情もなまえは感じ取ってしまったらしい。怯えた様子で即座に謝り、気まずい空気のまま朝を迎え、今でもまだ引きずっているという状況だった。
 オビトは何を言えばいいかわからなかった。なまえから説明がなかった部分も、同じ男としてそれとなく察することができた。
 だからこそ、おかしかった。
 ――昨日、偉そうに愛がどうだとか語っていなかったか? なまえのすることは広い心で受け止めてやるのではなかったのか?
 オビトは気持ちがよかった。マダラの機嫌を損なうことができたのだ。それもなまえから頼まれたことをそのとおりに実行しただけだから、自身が責められることもなく。
 少しだけ仕返しをしてやったような気分になり、自然と口角が上がった。

「……オビトなに笑ってるの?」

 顔を上げたなまえが怪訝そうに指摘する。しょんぼりしているなまえのことは不憫に思うが、オビトはそれ以上に愉快だった。歪む口元を手で覆う。
 そらした視線の先で、オビトはそれに気が付いた。なまえの外套の背の部分を指でつまみ、軽く引き上げる。

「裾のところ裂けてるぞ。他になかったのか?」

 本人からは見えにくい箇所だから親切心で教えたつもりだった。それに対し、なまえは首を横に振る。

「いいの。まだ着られるから」

 オビトは目をしばたたかせた後、つまんでいた外套を離す。先程も身なりを整えていたし、女だから気になるのではないかと思ったのだが、どうやらそうでもないらしい。

「お前がいいならいいけどよ」

 昔の人間だから感覚が違うのだろうか。なまえのこととなるとオビトは妙に気になってしまう。つい考え込んでいると、それに気付いたなまえがゆっくりと振り向いた。

「これ……オビトがくれたから大事にしたいの」

 そう言ってなまえは俯き、襟の下に口元を隠した。
 予想外の答えに呆気にとられ、黙り込んでしまうオビト。
 奇妙な空気に包まれる。

「……そんなものいくらでも買ってやる」
「まだ着られるからいいよ」
「オレが気になるんだよ。……もう木ノ葉に出るからな」

 照れ隠しのためか、まくし立てるようにオビトは言う。
 胸の奥がむず痒い。けれども、不思議と悪い気分ではなかった。
 こんな気持ちになるのはいつぶりだろうか。オビトはなまえの顔をまともに見ることができず、余所のほうを向いたまま、そっと肩に手を触れた。


 木ノ葉隠れの里にある病院の、いつも通っている地下の病室へと転移したオビトとなまえ。ガタッと物音がしたほうを見ると、椅子から立ち上がったサクラが駆け寄ってくるところだった。

「なまえさん! よかった、てっきり何かあったんじゃないかと思って、私……」

 そう言いながら両肩に手を伸ばして優しく迎えるサクラだったが、微笑みを返すなまえを見るなりぎょっとして顔を強張らせた。
 なまえの後ろに立つオビトへ視線を向けるも、我関せずといった様子でふいっとそらされる。そして「日が暮れる前までに迎えにくる」とだけ言い残して去っていった。この件に関してオビトは一人勝ちしているようなものなので、もう関わるつもりはないのである。無論それはなまえが立ち直るためにどうすればいいかわかったうえでの態度であって、決してなまえとマダラのすれ違いが続くことを望んでいるのではない。
 サクラは、こんな状態のなまえを預けてさっさと消えてしまったオビトに冷ややかな気持ちを覚えた。少しくらい事情を説明してくれてもいいんじゃないか。大筒木カグヤとの戦いではあれほど頼もしかったのに。胸の内で呟く。

「サクラさん、大丈夫?」

 不服そうに唇を尖らせるサクラをなまえが覗き込む。

「いや、なまえさんこそ大丈夫?」

 その顔を見てサクラは即座に返した。
 なまえの微笑みはあまりにも不自然なものであった。誰が見ても作り笑いとわかってしまうほどの。これほどまで悲しみがにじみ出ている笑みというのをサクラは見たことがなかった。
 このうちはなまえという人は、つくづくうわべを飾ることができない素直な人間なのだと感じさせられる。本当に百年近く前の人間なのか、本当にあのうちはマダラの妻なのかと今でも疑ってしまうほどに。
 自宅で何かがあったのは明らかなのに、こちらを心配しているなまえがおかしくてサクラはつい笑みを零してしまう。こんな人を放っておけるはずがないから、こうしてずっと担当医を続けているのだ。
 ――仕方がない。サクラは気を取り直してなまえをベッドに座るよう促した。心のケアをするのも医療忍者の大事な役目である。

「何があったのか聞く前に、体を診させてもらうわね」

 外套を脱いだなまえは、疲れたのか笑みを作るのをやめていた。些か不気味だったためサクラはそのほうがよかった。


 それから診察と簡単な検査を行った後、サクラはなまえを病院の外へと連れ出した。今日はなまえの診察の他に予定がない。薄暗い病室よりは明るい場所のほうが気分転換にもなるだろうと思い、自分の息抜きも兼ねてなまえと共に里の散策を楽しむつもりだった。
 時間は昼前といったところで、もう少ししたら店が人で賑わい始める頃だ。サクラは商店街をそのまま通り抜けて、少し外れた閑静な場所にある茶屋へとなまえを案内した。暇があれば友人と談笑をしに来ている行きつけの店だ。外の席も用意されているため、そこでなら落ち着いて話ができるだろう。
 サクラはなまえを先に座らせると、注文をしに店の暖簾をくぐった。なまえは茶だけでいいと言っていたが勝手にあんみつもつける。ここの甘味はどれも絶品なのだ。
 代金を渡し、なまえの元へ戻るサクラ。注文した品は用意ができたら運ばれてくる。
 なまえはぼんやりと遠くに行き交う人の姿を眺めているようだった。その顔からは憂いは感じられない。サクラは、普段の彼女に戻りつつあることにほっとしながら向かいの席に腰を下ろす。

「……で、一体何があったの、なまえさん?」

 その声に振り向いたなまえは、不思議そうな顔をした。

「何、って?」
「こっちに来た時、ものすごくヘコんでたじゃない。何かあったんでしょ?」

 なまえは記憶を遡るように顎に手を添えた。そしてはっと目を見開いたかと思うと、初めと同じようにしょんぼりと肩をすぼめて暗い表情に戻ってしまった。
 どうやら、少しの間忘れていただけらしい。

「誰かに聞いてもらうだけで気持ちが楽になることって結構あるのよ。ね、他の人には言わないから、話してみて」

 サクラはにこりと微笑んだ。なまえは迷っていたようだが、やがて、昨日あったことをぽつぽつと話し始めた。サクラは途中で運ばれてきた茶を啜りながら相槌を打つ。あんみつに戸惑うなまえには快気祝いだとか適当なことを言って食べるよう勧めた。
 話を聞いていくうちに、なまえはわかっていないらしい事の真相がサクラには見えてきた。すると途端に、こんなに落ち込んでいるなまえと、今、家に一人でいるらしいマダラのことがおかしく思えてくる。笑いを漏らさないようにこらえるのが大変だった。
 しかし一人でさっさと逃げたオビトに対しては、やはり冷たい感情が湧いた。恐らく彼も真相には気付いていたはずだからだ。そうでなければこんな状態のなまえを心配する素振りもなく置いていったりはしないだろう。オビトが日頃からなまえを気にかけているというのはサクラでも知っていることだった。

「なまえさん。それ、きっと怒ったんじゃなくてショックだったのよ」
「……ショック?」
「ええ。っていうか、絶対そう」

 サクラはマダラのことをよく知っている訳ではないが確信をもって言い切った。本来ならそれはなまえが気付くべきことなのだろう。相手の心情を察することができていれば、ここまで苛まれることもなかったはずだ。しかしなまえがそういったことに疎いというのは容易に想像できる。マダラもマダラであれこれ素直に言葉にするタイプではなさそうだ。今の状況も含めて、彼はなまえとのことで結構苦労しているのではないだろうか。そう思ったのがサクラの肩を震わせた原因だった。
 本当に、この二人は面白くて仕方がない。生活の様子を知れば知るほど、遠い存在のように感じていたのが嘘のように、身近なものに思えてくる。

「彼、なまえさんにせまくないかって聞かれても平気だって言っていたのよね?」
「うん……。何回か聞いたけどいつもそう言ってた」
「まずそこだけど。それ、仕方なく我慢してたわけじゃないわ。だって彼も木遁を使えるはずだもの。ベッドを広くしようと思えばいつだってできたのよ」

 マダラも木遁を使えるはず。サクラのその指摘に、言われてみれば、という顔をするなまえ。輪廻眼は六道仙人によって封じられたものの、マダラの体に移植された柱間細胞はそのまま残っている。

「せまくて寝返りも満足にできないくらいだったから、良かれと思って広くしたら不機嫌になった……不思議ね。どうしてかしら」
「断りもなくやったから、それで……」
「そんなのはうわべの理由よ。もう、まどろっこしいから教えてあげる。ベッドがせまいとね、否が応でもくっついて寝なきゃいけなくなるでしょ。彼はそれがよかったのよ」
「く、くっついて……?」
「そう。広くなってゆとりができたら自然と離れちゃうじゃない? せまくても毎日なまえさんの温もりを感じながら眠れるほうがよかったから、そのままにしていたってこと!」
「わ……私の、温もり?」

 サクラが鼻息荒く力説する一方で、思いもよらぬ方向へ進んでいく話に赤面するなまえ。サクラが彼、彼と言っているのは名前を出さないようにしているためだ。周囲には注意を払っているつもりだが、万が一ということもあるので口にしないよう気を付けている。
 サクラが思うに、マダラは自分から近付いていくタイプではない。広くなったベッドで、たとえば「くっついて寝よう」というようなことはどれほど思っても言わないはずだ。そして、この程度で顔を赤くするなまえも積極的でないのは明らかである。
 だから、無理にでもそうなってしまう状況をマダラは残しておきたかった。
 サクラはわずかな情報からそこまで推理していた。十中八九そうだと言い切れる自信もあった。こういった話には詳しいのだ。
 ひと通り話し終えたところでサクラはあんみつを口に運んだ。その味わいに頬を緩ませながらなまえを見ると、赤くなった顔を手で隠すようにしてぶつぶつと何かを言っていた。
 ――付き合い立てのカップルか。サクラは心の中で突っ込みを入れる。
 とはいえ、そんななまえのことを知れば知るほどあのマダラの見え方も変わってくるのだから、なんとも不思議である。

「まあ、確かに黙ってやっちゃったのはよくなかったかもしれないけど……それでもね、多分ちょっと拗ねてるだけだから、そんなに気にしなくていいと思うわ」
「そうなのかな……」
「そうよ。彼、なまえさんのことが大好きなのね」

 サクラが微笑むと、なまえはまた恥ずかしそうに下を向いた。その視線の先にある湯呑みの中身は全く減っていない。つられて見てしまったサクラはそれに気が付いた。

「お茶、苦手だった?」
「あ、ううん。少し待ってたの。熱そうだったから……」
「えっ、もしかして猫舌!? なまえさん、かわいい〜!」
「ね、ねこ?」

 サクラはくすくすと笑う。聞き慣れぬ言葉に、なまえは戸惑うばかりだった。


 その後も他愛のない会話をして茶を楽しんだ二人。幾分か表情が明るくなってきたなまえに安心したサクラは、せっかくだからもう少し散策を楽しむことにして里の中を歩き出す。昔、なまえ達の家がどの辺りにあったとか、ここはどんな感じだったとか聞いているだけでも面白かった。
 懐かしみながら話すなまえの顔には時折自然な笑みが零れるようになり、本当に木ノ葉の里が好きなのだと感じさせられる。どうしようもないのはわかっていても、いつかこの二人が里で暮らせたら、と願わずにはいられなかった。

「あれ? サクラちゃんと……サスケの姉ちゃん?」

 道を曲がった先で、見知った顔と遭遇した。サクラは出会ったのが彼でよかったと安堵する。同時に、何故こんな所にいるのかという疑問が湧いた。そう思った時にふわりと鼻腔をくすぐった匂いが答えを教えてくれた。
 いつの間にか彼の行きつけのラーメン屋の近くまで来ていたらしい。

「ナルト君、こんにちは」
「アンタ、今日も授業だったんじゃないの?」
「ああ。イルカ先生、午後から予定があるとかで今日はもう終わっちまったんだ。で、昼飯食って、これからどうすっかなーって考えてたとこ」
「ふうん。つまり暇ってことね。ならアンタも一緒に来る? 里を案内してるだけだけど」
「いいの? てか……姉ちゃんなんか暗くね? 何かあった?」

 サクラは顔を引きつらせた。なまえは普段通りを装っているつもりだったがナルトにはわかったらしい。せっかく気を紛らせていたのに、これではまた思い出させてしまう。

「女にはいろいろあんのよ。ほら、行きましょ」

 案の定、なまえはまたあの不気味な笑みを作ろうとしていた。サクラはその手を引き、ズンズンと歩き出す。ナルトもいれば賑やかになるだろう。彼の明るさからエネルギーをわけてもらえばなまえも前向きな気持ちになれるかもしれない。
 そんなふうに考えた時、遠くから声が聞こえてきた。サクラを呼ぶ声だ。三人は足を止める。

「よかった、見つかった」
「どうしたの?」
「患者さんの具合が急に悪くなって……」

 服装からして看護師のようだった。サクラは声を潜めて事情を聞き出した後、ナルトとなまえを振り返った。

「ごめん二人共、ちょっと行ってくる」

 サクラは申し訳なさそうに両手を合わせる。そしてナルトへ「頼んだわよ」という視線を送ると、看護師と共に病院の方角へ駆けていった。
 大戦の後で、どこも人手が足りない状況が続いている。医療忍術を使える者は多くないため病院では特に顕著であった。こうしてサクラが駆り出されるのも仕方のないことだった。
 残された二人の間に沈黙が流れる。

「あー……じゃあ、公園でも行く?」

 ナルトは頬を掻きながら隣を見た。
 気を遣われているのがわかって、なまえは首を横に振る。

「私、一人でも大丈夫だよ。ごめんね、ありがとう」
「……いや、オレも姉ちゃんと話したかったんだ。行こうぜ」

 ナルトは少し考える素振りをしてそう返した。後方を指さしながら向けられる真っ直ぐな視線に、なまえはきょとんとしながらも頷いた。


 公園の隅に設置されたベンチにナルトとなまえは並んで座った。砂場やブランコで遊ぶ子供達の笑い声が平和を感じさせ、心を穏やかにさせる。しばらくの間それを眺めた後、ナルトはおもむろに立ち上がった。

「姉ちゃん。オビトのこと、助けてくれてありがとう」

 そう言って下げられる頭。なまえは二、三度まばたきをしてから状況を理解すると、慌てたように立ち上がり、わたわたと両手を振った。

「な、なんで……顔上げてナルト君。どうして?」
「ずっと言いそびれてたけど、姉ちゃんが助けてくれなかったらオビトは今ここにいなかった。あいつが生きてるのがオレすっげー嬉しいんだ。だから、ありがとう」

 なまえが困り果てる一方で、ナルトは真剣だった。

「そんな……そんなきれいな思いで助けたんじゃないよ。だからお礼なんて……」
「それでもだ」

 顔を上げたナルトの瞳は強い光を宿していた。なまえはそれ以上何も言えなくなり、一度、口を閉ざした。

「でも……オビトが戻ってこられたのは、手を差し伸べてくれる人がいたからだよ。私は命を救うことしかできなかったから」
「んなことねーって。あいつの心の中には姉ちゃんもいた。姉ちゃんもあいつのこと、ただのマダラの身代わりじゃなくて、一人の、うちはオビトとして見てきたんだろ。それ、本人にもちゃんと伝わってっから」

 あの時オビトと対話をしたナルトは、彼の胸にあるものを知っている。思い出の中に生きる少女。カカシや同期の仲間達。尊敬していた師。そこに連なるように、なまえの存在も確かにあったのだ。
 今のオビトにとってなまえは間違いなくかけがえのない存在となっている。それはナルトだけでなく、今のオビトを見ている者は皆気付いていることであった。

「だってあいつ、姉ちゃんちにしょっちゅう通ったり、姉ちゃんの分まで自分がやるっつって任務に行ったりしてんだろ? もう、わかりやすいのなんの……」
「確かに、うちにはよく来てるけど……私の分までって、どういうこと?」

 ナルトは笑みを浮かべたまま硬直する。しまった。言ってはならないことまで口走ってしまったらしい。冷や汗が額ににじむ。

「あ、あー……それは、えーっと……。あ! そういやあの時さ! すごかったよな姉ちゃん、カグヤの攻撃をパッと弾いてさ! 何が起きたかよくわかんなかったけど、あの時はマジで助かったよ。あれも写輪眼の力なの? 実は姉ちゃんめちゃくちゃ強かったりすんじゃねーのかなーなんて! ハハ……」

 サッとベンチに座り、苦し紛れに思い付いたことを身振り手振りを交えてペラペラと喋り出すナルト。なまえは怪訝そうな顔をしていたが、それでもナルトの疑問には真面目に答えようとした。

「あの時のことは、私も必死だったからよく覚えてないけど……。私なんて全然強くないよ。できることも少ないし……。今の子達のほうが多才で、ずっと強いんじゃないかな」

 同じよう座りながらなまえは話す。その顔に影がかかったのを見て、ナルトはまただ、と思った。ナルトがなまえをここに連れてきたのはオビトのことで礼を言うためでもあったが、気になっていたのはむしろそちらのほうだった。

「あのさ、姉ちゃん……じゃなくて。何だっけ、名前?」
「なまえだよ。うちはなまえ」
「そうだった、なまえ……なまえはさ、なんつーか……オレ達に対していつも遠慮してるっていうか、申し訳ない、みたいに思ってる感じがすんだけど……違う?」

 なまえは微かに目を見開いた。その反応を見てナルトは「やっぱりな」と呟く。
 下を向き、膝に置いた両手を握り締めるなまえ。苦しくも悲しげな表情で、その心の内を少しだけ明かす。

「……その通りだよ。ナルト君やサクラさんは私に優しくしてくれるけど、大勢の人を傷付けた私達が何食わぬ顔で生きてるのは……やっぱり許されないことだと思う」

 なまえは遠くで遊ぶ子供達に目を向けた。
 それは大戦のことだけを言っているのではない。九尾事件に始まり、オビトが裏で操っていた暁が起こした数々の事件。それらも含めると被害に遭った人の数は計り知れない。
 何度「お前が責任を感じることではない」と言われようとも、彼らのそばにいたなまえには、そうやって他人事のように切り離して考えることはどうしてもできないのである。
 なまえの言っていることは間違いではない。本来であれば、過ちを犯した者はそうあるべきなのだろう。それでも、なまえがそこまで思い悩むのは違うような気がするのだ。ナルトは腕を組み、頭を捻る。

「気持ちは、なんとなくわかる。けどよ、それはカカシ先生達と話して、これからどうしていくかもう決めてるんだろ? なら、それでいいじゃねーか」

 ナルトはこちらを見るなまえに笑いかけて続けた。

「やっちまったもんは仕方ないし、なかったことにはできねェ。だからそっちはそっちで真面目にやればいい。それ以上のことは、あれこれ考える必要ないんじゃないの?」
「でも……」
「火影がそれでいいって言ってんだ。だから、いいんだよ」

 ナルトはごく自然に、それが当然かのように言って、ニカッと笑う。それを見たなまえは少し呆気に取られたような顔をした。

「それにさ、いつまでもそんな調子だとサクラちゃんやオビトも心配するだろ。姉ちゃんは笑ってたほうがいいよ。たぶん……マダラもそう思ってるんじゃねーかな」

 最後は自信なげになったが、ナルトは、きっとそうだと胸の内で思った。そして、また姉ちゃんと呼んでしまったことに気付いて「ごめん」と眉尻を下げる。なまえは首を振った。
 考えてみれば、マダラも六道仙人の息子の転生者だった。陰で糸を引く存在にも気付かず、黒ゼツの思惑通りに動いてしまった。これまでのこと全てマダラだけが悪いのかと言われると、そうとも限らないのである。

「……うん、そうだ。ゼツがいなくなって、テンセーシャとかいうのからも解放されて……マダラはやっと本来の自分に戻れたんだ」
「本来の自分? ……マダラさんが?」

 なまえが今日一番の反応を示す。ナルトはこれだと閃き、前のめりになって続けた。

「これまでどんなことがあったか、オレ、全部は知らねーけどさ。マダラはずっとなまえのことが大事でいろいろやってきたんだろ。だったら今度はさ、なまえがマダラに、なんかこう……してあげるってのはどう?」

 何なのかはパッと思い付かないけど。ナルトはその時だけ苦笑を浮かべる。

「なあ、やりたかったこととかないの? 今まで我慢してたこと、やりたくてもできなかったこと、今なら何だってできるんだ。マダラもその……もしかすると苦しかった時もあるかもしれねェしさ、ちょっとくらい幸せになったってバチが当たることはないと思うんだよな」
「…………」
「じっとしててももったいねーよ。なんにも思い浮かばないならサクラちゃんとかも呼んで一緒に考えればいいじゃん」

 敵対していたはずのマダラにさえ、ナルトは憐れみの心をみせる。それほど関わりのなかったなまえのために、こんなにも一生懸命に言葉をかけてくれる。
 その優しさを前に、なまえの心が動かないはずがなかった。

「……いろいろあったけど、みんな前見て乗り越えようとしてる。姉ちゃん達も生きてんだ。生きてんなら嫌でも前に進んでかなきゃなんねェ。そうだろ?」
「……うん……」

 なまえは素直に頷いた。まだ考え込んでいるようだが、こちらの思いが伝わっているのはわかる。ナルトはもう一度笑みを浮かべた。
 ナルトがなまえに対して抱いている印象は初めて会った時から変わっていない。どこか踏み込んではいけないようなものを感じさせながらも、自分達に向ける瞳は温かく、優しさを感じさせた。木ノ葉の里や、そこに住む人々のことが好きなのだと気が付くのに時間はかからなかった。だからこそ、これまでのことになまえが心を痛めているのも何となく感じ取ることができたのだ。
 ナルトは、なまえがそれほどまでに里を想っているのがわかって嬉しかった。

「だから元気出せよ。何かあったらオレ達が話聞くし、困った時は助けてやる。姉ちゃん、頼れる奴あんまりいねェだろ? ……あ、別に友達いなそうってワケじゃなくて、その、立場的にって意味で……」
「うん、わかってるよ」

 その時、なまえはようやく笑みを零した。必死に弁解しようとしていたナルトは動きを止め、「へへ」と一緒になって笑う。なまえの表情が緩んだことに安心したのだ。
 なまえはそんなナルトの顔を覗き込むようにして、そっと頬に手を伸ばした。

「ナルト君って、なんだか柱間さんに似てるね……」

 その手の温かさと慈しむような眼差しを間近から受けて、ナルトは思わずドキリとする。

「柱間って、初代火影の……?」

 緊張が声に乗らないよう、腹に力を入れた。「うん」と頷いて離れるなまえ。ナルトは内心で安堵を零す。

「そばにいるだけで心が温かくなる……太陽みたいな人」

 そう言ってなまえは微笑んだ。その顔はどこか晴れやかで、迷いが断ち切れたかのようであった。
 そうして立ち上がったなまえをナルトは見上げる。

「ありがとう、ナルト君。ナルト君が言ってくれたこと、もう一度よく考えてみようと思う」
「うん」
「ナルト君は、火影になるために勉強してるんでしょ? オビトから聞いてるよ。大変だろうけど頑張ってね」
「うん。ありがとう、姉ちゃん」

 ナルトは、またやってしまった、と口元を覆う。なまえは眉を下げながら笑った。

「もう、姉ちゃんでいいよ」
「ごめん……」
「ううん。でも、サスケの前ではやめてね。嫌がるかもしれないから」

 ナルトは「そうだな」と笑った後、はたと気付く。

「じゃあ、私戻るね。今日は本当にありがとう」

 なまえは小さく手を振り、来た道のほうに歩いていく。その足取りは軽やかで、またな、と遅れて返したナルトの声が届いたかわからない。

「…………」

 その背中が見えなくなった頃。ナルトは空を見上げ、眩しい日差しに目を細めた。
 旅に出るというサスケを見送ってからしばらくが経つ。それ以来、ナルトはサスケと会っていなかった。
 しかし、なまえの口ぶりからはサスケが身近な存在であるかのように感じられた。もしかするとサスケはなまえとはよく会っているのだろうか。なまえを慕っているのであればそれは微笑ましいことだが、だとすれば何故自分達の所には来ないのかという不満が生じる。

「ま、別にいーけどよ……」

 唇を尖らせて呟いた。ポケットに手を突っ込み、足元に転がっていた小石を蹴飛ばして歩き出す。
 なまえもサスケも同じうちは一族だ。それになまえはイタチとも関わりがあったと言う。そこに、他とは違う特別なものを感じていても不思議ではない。一度は全てを断ち切ろうとしていたサスケが己の意思で誰かと関わりを持とうとしているのなら、友として喜ぶべきことである。
 なまえの前でサスケはどんな顔をするのだろう。先程のような慈愛に満ちた瞳を彼も向けられているのだろうか。これまで苦しみ続けた分、たくさん愛情をわけてもらえばいいと思った。淀みないなまえの愛情であれば、サスケも真っ直ぐに受け止められるかもしれない。
 今頃どこにいるかもわからぬ友に思いを馳せる。そこに暗い気持ちはなく、ナルトの口元は自然と緩んでいた。
 ――そばにいるだけで心が温かくなる、太陽みたいな人。
 なまえの言葉が頭の中で繰り返される。
 はたしてそうなのだろうか。自分のことは、自分ではよくわからない。
 けれども、この澄みきった空のように、皆の心も晴れやかであればいいと、穏やかな気持ちで願った。