一等星


 火の国の忍里で女性達を賑わせている男がいた。
 男はとある忍の一族の生まれでつい最近里に移ってきた。忍としての才はそこそこだが見目のよさが群を抜いており、たちまちのうちに里の女性達を虜にしてしまった。それでいて傲慢さはなく、老若男女に分け隔てなく接するため皆から好かれている――と思っているのは本人だけである。というのも、幼少期からもてはやされて育ったためその自覚があるような言動をうっかりしてしまうことがあり、そこそこの実力でありながらそんな振る舞いをするものだから、この里の男性からは結構な勢いで反感を買っていった。
 しかし里の男達は冷静だった。里に移って間もない彼にあれこれ言ってもいいものなのか。ただの妬みだと思われて女性達から冷ややかな視線を向けられるのではないか。皆がそう考えて、口から出そうになるものをぐっと我慢していた。それが男の思い込みを助長させた。
 皆が自分を好意的に受け入れてくれる。これほどの人がいる場所でもやはり自分が一番輝いているのだ。この男にとってそれが当たり前で永劫不変の事実であった。
 ――しかしこの夏、男は人生で初めて困難に直面する。自身の生きてきた世界がいかに狭かったのか、思い知る羽目になるのだ。



 男はイケている忍――略してイケ忍だとか女性達の間で呼ばれていた。昼と夕方の狭間の頃。慌ただしさが落ち着き閑散とする時間帯だ。任務を終えて暇になったイケ忍の男は目的もなく里をぶらぶらと歩いていた。用がなくとも、そうしていれば周りの人から話しかけてもらえる。女性達からは注目される。たまに店の主から菓子を分けてもらったりして気分よく過ごすことができる。まだ発展の途中とはいえ人が多いこの里に移ってきたのは間違いではなかった、と男は喜びを噛み締めるのであった。
 しかしながら、中心部のこの辺りは日差しを遮るものがないためさすがに暑い。歩きながら空を見上げて手をかざした時、男は何かにぶつかった。

「すみません」

 そう声がして咄嗟に顔を向けた時にはすでにぶつかった相手の女は横に避けて通り過ぎようとしていた。
 こちらにも非はあるのに女性にだけ謝らせるなんて。男は反射的に女の腕を掴んだ。手提げ袋と団扇が握られている細い腕を。

「すまない、僕が不注意だった。怪我はないかい?」

 自分のほうが悪いのだと言い、眉尻を下げて相手の心配をする。こうすれば互いに嫌な気持ちは残らない。女性であればこの整った顔に間近で迫られて、ぶつかったことなどどうでもよくなるはずだ。今まではそうだった。
 男は、振り返った女の顔を見る。濡れ羽色の髪に白い肌。派手ではないが美しい顔立ちをしている。髪と同じ黒色の瞳が腕に向けられ、そして男と視線を交えた。

「大丈夫なので離してもらえますか?」

 女は表情を変えずに言う。男が「あ、ああ」とうろたえながら腕を離すと女は何事もなかったかのように歩き出した。
 初めてのことだった。興味を持たれず、にこりともされなかったのは。それどころか早く立ち去りたいという空気さえ感じられた。
 男は、何故そんな態度を取られたのかわからない。今まではあれでうまくいっていた。不快な思いをさせるところはなかったはずだ。ぶつかったのが余程嫌だったのか? 偶然、機嫌が悪かっただけかもしれない。気になって思考がぐるぐると巡る。
 女のほうを見る。魚屋の前で立ち止まっていた。背中には団扇の形の家紋が見える。あれがうちは一族の証であることくらい男は知っていた。うちはだから団扇を持っているのか? 一族への重い愛を感じる。

「待ってくれ!」

 男はうちはの女を追った。わからないままにするのは気持ちが悪く、直接聞いてはっきりさせるしかないと思った。
 ただでさえ人目を引く彼が周囲の視線を引き連れて女に近付く。女はきょとんとした顔で男を見上げた。

「君、何か気に入らないことでもあったのかい?」
「えっと……何の話ですか?」
「さっきぶつかった時、素っ気なかっただろ?」

 女は訳がわからないとでもいうように眉をひそめた。女からしてみれば、気に入らないことがあるらしいのは男のほうである。

「肩が当たって、謝って……それだけではないですか?」
「普通ならもっとこう……あるんだよ。会話とか、微笑みとか……」
「……では、私は普通ではなかったのでしょう。もういいですか?」

 女はわずかな間だけ周囲に目を向けると、話を終わらせて背を向けてしまった。
 男は気が付いた。他人の視線があるから恥ずかしがっているだけなのだと。人がいない場所でならこの子も笑みを見せてくれるはずだ。なるほど、そうだったのか。皆が同じというわけではない。そんなこともわからなかったなんて、自分はまだまだだ。男は拳を握り、新たな気付きを得たことに満足していた。
 思考がずれていることを指摘してくれる者は彼の周りにはいない。それどころか、様子を見ていた周囲の男達はその女――うちはなまえを心の内で応援していた。この時ばかりはうちは一族だろうと関係なかった。イケ忍に靡かない女は非常に珍しいのである。
 ――頼む、どうかそいつを止めてくれ。男達の切なる願いがなまえへと託された。


 その後、男はなまえを尾行していた。一人になるタイミングを待っていたのだ。
 中心街から離れた辺りで追い付くように駆け出し、後ろから声をかける。手提げを肩に掛け、団扇で顔をあおいでいたなまえはぎょっとした表情で振り返った。

「……まだ何か?」
「さっきは人がいたから、だろう?」
「何がでしょうか」
「つんとした態度さ。今なら二人きりだ」
「…………」
「ところで、君の名前は?」

 なまえは団扇を動かす手を止めた。言動に驚き、呆れ、二の句が継げずにいることに男は気付かない。なまえは少しの間葛藤をするかのように目を閉じると、やがて、しぶしぶといった様子で答えた。

「……うちはなまえです」
「そうかなまえか。いい名だ」

 爽やかな笑みを浮かべて男は褒める。それなのにやはりなまえは笑わない。何故他とは反応が異なるのか、男はなまえへ興味を抱き始めていた。この暑さの中、なまえが腕の辺りをさすっているのにも気付かぬまま。

「君は、僕を見ても何とも思わないのかい?」
「問いの意図がわかりません」
「かっこいいとか、イケているとか、よく言われるんだけども……」

 語調は弱めながらも、見てみろと言わんばかりに腰に手を当て、最もいい角度になるようさりげなく決める男。なまえはそれに従い、全身を見て、顔を見て、それから目をじいっと見つめた。その瞳に心の内まで全て見透かされるような感じがして、その瞬間、男は緊張を覚えた。やましいことなど何もないというのに。

「すみませんが、そういうことは私にはよくわからないので」
「わからない? 皆は言ってくれるのに?」
「……魚が傷むのでそろそろ帰りたいのですが」

 話に付き合う義理はない。とでも言うかのような態度だ。自分よりも魚を優先されたことに男は混乱を極める。

「まだお互いのことをよく知らないからかな……。今日一日でも一緒に過ごせば僕の魅力に気が付いてくれるはずだ」
「夫がいるのでそういうことはできません」
「なっ、夫だって!? なるほど、それで……」

 なまえに夫がいるという事実を知り、一人納得する男。なまえはどこかほっとしたように、また団扇をぱたぱたと動かし始める。体の向きを変え、立ち去る素振りを見せたなまえを、男は逃がさなかった。

「君の旦那さんは僕よりかっこいいってことか! だから僕に興味がなかったんだなぁ」

 男は心の底から安心したように言った。ぴたりと足を止めたなまえだったが、聞かなかったことにしたらしい。そのまま歩き出した。

「見てみたい! 君の旦那さんに会わせてくれないか?」
「忙しい身なのでご遠慮ください」
「一目見るだけでいいんだ」

 ついて行こうとする男をなまえは振り返る。そして、言いにくそうに、少しばかり顔をしかめて男に告げた。

「わかりませんか? 迷惑だと言ってるんです。もうお引き取りください」

 最後のほうは目も合わせずに言って、なまえはくるりと背を向けた。団扇の風に髪を揺らしながら、日陰になっている道を曲がっていく。男はその場に立ち尽くしていた。

「わ、わからない……」

 わからない。どうしてこんなにも冷たくされるのか。迷惑などと言われるのも初めてだった。この里に住む人々も皆普通に接してくれるのに。何故このうちはなまえという女だけが自分を邪険にするのか。
 わからない。けれどその疑問をどうすれば解くことができるのかもわからない。だから、わかるまで聞くしかなかった。男は駆け出す。

「うちはなまえ!」

 曲がり角の先。真っ直ぐに伸びる道になまえの姿はなかった。
 男は、己の内で何かが崩壊しそうな感覚がしていた。ドクドクと心臓が強く脈打っている。自分が否定された事実を受け入れられず、通りかかった人に声をかけられるまで、男はずっとそこから動けずにいた。


 その日の晩。一方のなまえは、遅い帰宅をしたマダラに一番に尋ねていた。

「今日、変な人に会いませんでしたか?」
「変? ……どんな奴だ?」
「変……変な人、としか言えないのですが……」

 聞き返すマダラに、なまえは昼間会った変な男のことを話した。

「私達のことを探ろうとしているのかと怪しんでいたのですが、どうやらそうではないみたいで……」

 なまえはあまりにも執拗な様子の男を訝しんでいたのだ。なまえの視点では、あの男はどこからどう見ても普通ではなかった。

「また言ってくるようなら連れてこい」
「いいんですか?」
「そのほうが早い」

 マダラとしては、変だというその男がなまえに付きまとうことのほうが許し難い。なまえは気乗りしない様子だったが、やがて、わかりましたと頷いて話を終えたのであった。



 マダラのその提案が悠長なものであったとわかるのは翌日のことである。
 里本部にて。火の国のとある場所の地図を新しく描き替えたということで、渡されたその紙を眺めていたマダラ。出来がいいとは言えず、地図というよりも何かの暗号のように見えてくる。一体誰が作成したのか。読み取るのを諦めて紙を放りかけた時、部屋の戸が激しい勢いで開けられた。

「マダラ、大変だ」

 そんなふうに入ってくるのは一人しかいなかったが、マダラは一度だけ顔を向けてやった。大仰な口ぶりのわりに面白がっているような顔をしている。マダラはどうせくだらぬことだろうと思い、手元の地図に視線を戻した。

「おい、いいのか? なまえのピンチぞ」
「ニヤけた面を隠してから言え」
「お前も知っているだろう。里で話題のイケ忍のことは」
「知らんな」

 一方的に話し始める柱間と、なまえの名が出たため一応は聞くマダラ。決して不仲という訳ではなく、普段通りの彼らの姿である。

「知らんのか。最近里に来た男なんだが、女子からの人気がすごくてな。オレも先程初めて顔を見たがあれは確かにイケている」
「それがなまえとどう関係あるんだ」
「一緒に飯を食っていた」

 マダラの持っていた地図にしわが入った。柱間は口元の笑みを深める。マダラの反応を面白がっているのだ。

「いや、少し違うな。飯を食っているなまえが奴に絡まれていた……そんな感じだったか」

 柱間はわざとらしく顎に手を添えて思い出すようにしながら言い直す。それを聞いたマダラは、昨夜なまえが言っていた「変な男」のことが頭に浮かんだ。昨日今日と、無関係とは思えない。変な男がそのイケ忍だとすれば自分達に一体何の用があるのか。その疑問はさておき、マダラは柱間へ冷ややかな視線を向けた。

「お前は困っているなまえを見捨ててきたのか?」
「オレの出る幕ではないだろう。お前の役目だ」
「…………」

 マダラは何かを言おうとして、やめた。柱間の思い通りになるのは面白くないが、なまえが関わっているとなれば知らぬふりをする訳にはいかない。地図を半ば握りつぶしたまま腰を上げる。

「どこで見た?」
「川沿いのそば屋だ。青い暖簾の」

 マダラはすぐにわかった。前になまえと行ったことがある店だ。そんな場所で妙な輩に絡まれているなど想像しただけで気分が悪くなる。

「お前、暇ならこの落書きを直させてこい」

 マダラは柱間に地図を突き出した。柱間は地図を受け取り、しげしげと眺める。

「ああ、これか。なまえが描いたものだと扉間が言っていたが……」

 部屋から出ようとしていたマダラは動きを止めた。

「絵を描くのはオレより下手なようだな」

 柱間が笑いを含んだ声で言う。すでに落書きと口にしてしまったマダラ。撤回はできず、少し考えた末にこう返した。

「お前のほうが下手だ」

 せめてもの仕返しである。マダラは何か言い出した柱間を無視して部屋を出た。
 どちらのほうが上手いか、本当のところはわからない。


 なまえの今日の仕事は描きかけの地図を仕上げることだけだった。昼前には終えて扉間に手渡すと、その瞬間彼の表情が消えた。もともと表情豊かな男ではないが、柔らかかったり険しかったりというくらいの変化はあるものだ。しかし出来上がったなまえの地図を見た瞬間、扉間は無をまとった。
 後で回しておく。という一言でその件は終わった。絵や図を描くのが得意ではない自覚はなまえにもある。それでも任務だから、地図職人が出払っていると言うから、仕方なく、一生懸命描いたのだ。
 その頑張りは扉間にも伝わった。だがそれだけではどうにもならない現実があるのを扉間は目の当たりにした。人選を誤った己の責任である。努力の滲むその紙切れの処遇は他の者に任せることにしてとりあえず預かった。何も言わなかったのは、彼にも優しさというものがあるからだろう。
 ――扉間の反応が気になるが、突き返されなかったのならきっと大丈夫だ。なまえはそれくらいの気持ちでそば屋へ行き、注文が来るのを待っていた。作業中にふと食べたくなったのである。
 そうして、なまえはすぐに運ばれてきたざるそばを食べながらマダラのことを考えていた。数日前、本部で偶然会ったマダラを誘ってこの店に来た。今日も一緒にどうかと思ったが、同じ店だし、暇じゃないかもしれないし、お腹も空いてないかもしれないしなどと悩んだ末に一人で行くことにした。
 たまに誘えば一緒に来てくれるが、マダラは昼を食べる習慣があるのだろうか。朝は食べないのは知っている。それで昼もいらないとしたら腹は減らないのか? 夜だけの食事であの体格と強さを維持できるものなのか? 自分はたくさん食べても強くなれないし、絵も下手だ。きっとマダラは絵も上手いのだろう。今度、犬の太郎の絵を描いてもらおうか。と、事情を知らなかったとはいえマダラに地図を「落書き」と言われてしまうのも知らず、呑気ななまえであった。
 もう少しで食べ終えるという頃に、嵐のような男がやってくる。一人席の隣に誰かが座り、なまえは横を見た。

「やあなまえ。こんな所で奇遇だね」

 そう言って額の汗を拭い、爽やかな笑みを浮かべる男。どうしてか息切れの様子もある。実は奇遇でも何でもなく、炎天下の中なまえの姿を探し回りようやく見つけたのであった。

「また会えるなんて運命を感じずにはいられないな」

 なまえは急激にざるそばの味がわからなくなった。心が冷めていき、感情が失われていく。不可解な現実が突如として目の前に現れ、理解するのを頭が拒絶しているかのような、そんな感覚に陥った。
 そういえば、地図を渡した時の扉間の様子もこんな感じだった気がする。そうか、彼はあの時こんな状態になっていたのか。ぺらぺらと何かを話している男の声など耳に入れようともせず、なまえは真実に辿り着いていた。

「夫に会いたいのでしたら……」
「旦那さんはもういいんだ。昨日、別れてからもずっと君のことが頭から離れなくてね。友人に相談してみたらそれは恋じゃないかって」

 なまえは最後の一口を喉に詰まらせそうになった。

「恋だなんて……こんな気持ちになるのは初めてだよ」
「勘違いだと思います」
「君のことをもっと聞かせてほしい」

 なまえは相手にせず、店主にごちそうさまでしたと声をかけて店を出た。勘定は先に済ませている。
 男は店内の女の熱い視線を浴びながら後を追ってくる。あまり目立ちたくないなまえは近くにいるのさえ勘弁してほしいほどであった。

「今日は団扇を持っていないのかい? あれを持っている君はとてつもなくキュートだったよ」
「きゅうと……?」

 女性ならばときめくような台詞もなまえには通用しない。しかし男はなまえがそういう女だということを理解し始めていた。もう、素っ気ない反応に戸惑うこともない。

「ついてこないでもらえますか」
「いいじゃないか。一人なんだろう? どこへでも一緒に行くよ」
「……昨日も言いましたが迷惑なんです」

 そう言いながらなまえは男のほうを振り返った。はっきりと言葉にしても効果がないらしく、これ以上どうやって拒絶の意を示せばいいのかわからなくなってくる。

「じゃあ、君が笑顔を見せてくれたら帰ることにするよ。今日のところはね」

 男は寂しげに微笑んだ。普通ならどきりとしそうな表情であったが、やはりなまえには効かない。それどころか胸のあたりがざわざわして、嫌な感情が湧き上がってくるのを感じていた。

「僕が眩しすぎるのかな。慣れてきたら僕の魅力も見えてくると思うんだけど……」

 ――眩しい? なまえは首を傾げて目の前の男を見る。
 なまえにその輝きはわからなかった。この男と他の者との違いなど感じられない。しかし、なるほどと理解はした。
 昨日からのこの男の言動。どうやら自分にかなり自信があるらしい。それで、興味を抱いてこない女が珍しく、これほどまでに執着してくるのだ。
 なら、どうすれば諦めてくれるのだろう。無視を続けるにも周囲の目がある。鋼の精神を持っているらしいこの男はいつまでも付きまとってくるに違いない。言っても聞かないならば、なまえに取れる手段は他にないように思えた。
 ひとまず店の前から離れようかと、歩き出した時。

「あ……」

 男の肩越しに、なまえは見た。陰りを帯びていた表情がその瞬間に一変する。いっとう輝く星を見つけたかのように、丸く開いた瞳をきらきらとさせて、その一点を見つめる。
 男にとってはそれこそが自分に向けられるべきものだった。しかしなまえの視線は男ではなく、後方へと注がれている。
 男の前で一度も笑わなかったなまえが初めて笑みを浮かべた。あまりにも純粋で、きれいな笑みだった。なまえの目に映っているものが何なのか、さすがの男にも予想ができた。

「マダラさん」

 弾むような声でそう口にしたなまえは、男の存在などなかったかのようにそちらへ駆け出す。
 マダラ。火の国でその名を知らぬ者はいないだろう。
 男の前でにこりともしなかったなまえがとびきりの笑みを向ける、心を許した存在。うちはなまえとうちはマダラ。男の頭の中で二つの名が結びつく。彼が、なまえの夫だというのか――。


 駆け寄ってきたなまえに足を止めるマダラ。嬉しくてたまらないというようななまえの様子にわずかに口元が緩む。
 マダラは二人の姿が見えた所で少し立ち止まっていたのだが、存外なまえが気付くのが早かった。見上げてくるなまえに手を伸ばし、眉間にそっと触れる。なまえはぎゅっと目を閉じたが、そろりとまた開いた。
 険しい顔はなまえには似合わない。なまえがあんなふうに他人を嫌がるのは珍しいことだろう。マダラはなまえから手を離し、立ち尽くしてこちらを見ている男へ目を向けた。

「あいつか?」
「はい。ですが、マダラさんのことはもういいのだとか……」

 なんだそれは。マダラが零すと、なまえも困り顔になる。ふざけた男だ。じろじろと不躾な視線も。
 いずれにせよマダラは一言言っておくつもりだったため、ここで見つけられたのは都合がよかった。

「少し話をしてくる。お前は先に帰れ」
「え? でも……」
「……あとで地図の描き方を教えてやる」

 わずかな躊躇を残してそう言うと、なまえは目を見開いた。そしてばつが悪そうに縮こまり、「はい」とか細い声で言って背を向けた。
 胸が痛んだが、ここからなまえを離れさせるためにいい方法が思い付かなかった。とぼとぼと歩いていくなまえを後目に、早々に片を付けるべくマダラも歩き出す。
 柔らかかった空気が肌を刺すような鋭いものへと変わる。マダラが近付いていくと男は後ずさりした。その威圧感と、比べずともわかる力の差に恐れを抱いているのだ。
 ――しかし男は退かなかった。
 マダラは今後一切なまえに近付くなと警告するつもりだった。イケ忍だろうと何だろうと、なまえに害をなす存在をマダラが見逃すはずがない。抗うならば手段を選ばぬつもりでいたが、事態は予想外の方向へと進む。
 男は必死の表情で、震える足を一歩前へと踏み出した。

「う、うちはマダラっ……! いや、マダラ様!」

 そして、人目も憚らず、凄まじい勢いで地に額をつける。

「どうか僕を――」

 こんな展開になるなど、誰が予想できただろうか。



「また地図ができたと渡されたが……」

 数日後。里本部にて、眉をひそめた柱間が紙を広げながら部屋に入ってきた。

「本当になまえが描いたものなのか? 別人が描いたように見える」

 窓辺に佇んでいたマダラは、ぶつぶつと零す柱間のもとに近寄った。そして手元の地図を覗き込み、ひと通り眺めると満足げに鼻を鳴らして笑った。

「お前より上手いな」

 思わず得意になってしまうマダラ。長年の付き合いがある柱間はそれだけで勘付いた。口をへの字に曲げて隣を見る。

「なまえに教えたな、マダラ」
「なまえの今後のためだ」
「ズルぞ。オレにも教えなければ不公平だ」
「何がズルだ。なまえと張り合おうとするな。お前は自分でどうにかしろ」

 マダラが心底嫌そうな顔をして突き放すと、柱間は「何故オレにだけ冷たいんだ」と落ち込み始めた。これもまた、二人にとってはいつもの光景である。
 マダラは柱間から地図を受け取り、その出来を眺めた。たった一度教えただけで随分と上達したものだと改めて感心する。これならば資料にすることができそうだ。

「そういえば……この頃イケ忍の姿が見えないそうだな」

 早々に立ち直った柱間が脈絡もなく話し出す。マダラは反応を示さず地図を丸めようとしていた。

「マダラ、お前何かしたか?」

 柱間は、時折鼻が利いた。それは幼少期よりマダラを知っているからこそなのだろう。だが、今回ばかりは的外れであった。

「オレは何もしてない」
「嘘をつくな。お前が会いに行ったあの日からだと聞いている」
「嘘じゃねェ。弟子にしろとせがまれたから断っただけだ」
「弟子だと? お、お前にか?」

 怪訝そうだった柱間が途端に笑いを滲ませ始めた。マダラはこうなるのがわかっていたからあの日のことを話さずにいたのだが、あらぬ疑いをかけられそうになったため仕方なく打ち明ける。

「どういう流れでそんな話になったんだ」
「知るか。いきなり土下座しやがった」

 柱間はとうとう噴き出した。理解は追い付かないが、想像しただけで面白いらしい。マダラはうんざりした様子で溜め息をついた。弟子を取るなどあの男でなくとも御免である。

「なら、山に籠っているという噂は本当なのだろう」

 柱間はひとしきり笑った後、目尻を拭いながら言った。
 つまり柱間はその噂を耳にしていながらマダラに疑いをかけたのだ。けれどもそれはあの時のことを黙っていた自身にも非があるため、マダラは腹を立てることはしなかった。

「ともあれ、なまえを諦めたならよかったな」
「…………」

 そう言ながら席に着いた柱間に、マダラは沈黙を返した。
 何故なら、あの男はなまえを諦めてなどいない。あの日マダラに弟子入りを断られた男は「何故僕がここまでしているのに断るんだ」というようなことを呟き、わなわなと全身を震わせてこう告げた。
 ――こうなったら、自分の力だけでお前よりも強くなってみせる。そうすれば彼女もきっと――。
 そして、マダラの前から去ったのだ。
 マダラは宣戦布告として受け取った。負けるつもりも、なまえを渡すつもりもないが、挑んでくるならば受けて立つほかにない。そうして完膚なきまでに叩きのめしてやれば、今度こそ諦めるだろう。ただその日を待つのみである。
 それにしても、とマダラは口の端を上げた。里の人間には甘いなまえがあれほど嫌悪を露わにするとは、余程嫌だったのだろう。そんな男に絡まれてかわいそうだと思うものの、自分を見つけた時の表情の変わりようを思い出すとどうしても笑いがこみ上げてくる。
 もう、なまえがあんな顔をしなくていいように自分が守ってやらねばならない。そう思う心の底で、なまえがあの男に微塵も興味を示さなかったことに、マダラは少しだけ安心していた――。