距離の縮め方


 柱間から食事に誘われたなまえはいささか気まずい思いでその席についていた。周りと隔てられた座敷で、他の客の声も届きはするもののはっきりとは聞き取れない。なまえは座布団の上に正座をしたままテーブルに並べられた豪勢な料理を見下ろす。
 柱間のことは嫌いでも苦手でもない。気さくに接してくれるし、マダラのことで困っていないかといつも心配してくれて感謝しているほどだった。
 とはいえ、食事の席で二人きりとなると何を話せばいいかわからない。これでも相手は千手一族の長だ。比べてなまえは一介のうちはの女でしかない。そう考えると、向かいに座る男がとてつもなく大きな存在に見えてくる。

「そう畏まるな、なまえ。マダラも後から来る」

 柱間はそう言って笑みを浮かべた。なまえの緊張を感じ取ったのだろう。なまえは態度に表してしまったことを恥じながらも、マダラの名が出たことによって途端に気持ちが軽くなった。

「今、明らかに安心したな」
「す……すみません」
「謝るな。責めたのではない……。お前にとってマダラは安心できる存在になったのだろう。それがわかって嬉しいんだ」

 柱間は、縮こまるなまえに目元を和らげた。

「だがな、オレはお前とも仲を深めたいと思っている。お前個人としても、大事な友の妻としても……。これから長い付き合いになっていくだろうからな。……どうだ?」
「えっと、そうですね……」
「目指すは、あいつの愚痴を言い合えるくらいの仲ぞ」

 柱間はわずかに身を乗り出してひそひそ話をするように言う。そうして、歯を見せて悪戯っぽく笑った柱間に、なまえは幾分か肩の力が抜けるのを感じた。
 それは柱間の優しさがこもった言葉だった。柱間はなまえがマダラの愚痴など言わないことはわかっている。ただ、上下の隔たりを取り払った対等な関係を望んでいるのだ。
 思えば柱間はすれ違うたびに声をかけてくれた。マダラのことばかりでなく、任務はどうだったかとか、無理はしていないかとか。末端の忍でしかないなまえにも大事なものの一人かのように接してくれた。
 柱間という男は裏表がなく、誰に対してもそうなのだ。もしかすると、こちらから歩み寄っていればもっと早くに打ち解けられていたのかもしれない。にこにこと嬉しそうにしている柱間を前に、なまえはそんなことを考えてしまった。

「とはいえ、そう焦る必要はない。ぼちぼちやっていくとしようぞ。……これでも飲みながら」

 柱間はテーブルにあったそれを掴み、なまえの前にドンと置いた。

「それは……」
「酒だ」

 きっぱりと言われ、なまえは口を引き結んだ。思わず零れそうになった言葉をどうにか飲み込む。徳利から視線をそらしたなまえに対し、柱間は顎を引いてじとりとした目を向けた。

「飲みたいだけじゃないのかと呆れたな?」
「いえ、その……。すみません」

 誤魔化しきれず観念してなまえが謝ると、柱間は大口を開けて笑いだす。

「お前は意外に顔に出るな。素直なのはいいことだ……。オレはいらぬ心配をしていたのかもしれん」

 心配。思わぬその言葉になまえは首を傾げる。

「心配……ですか?」
「ああ。お前もマダラも喋るほうではないだろう。だから今日はこれの力を借りながらお前達の距離を縮めてやるつもりだったんだ」

 そう話しながら酒を注ごうとする柱間に、なまえははっとして手を伸ばす。しかし「いい」と制止されてしまい、浮かしかけた腰を戻した。
 静かに注がれるそれを見つめながらなまえは思う。

「お酒の助けによって縮まる距離もあるのでしょうか……」

 ほとんど独り言のように零した声だったが、柱間の耳には届いていた。

「気が楽になって普段言いにくいことも言えるようになったりするからな。お前達には特に効果があるかもだぞ」
「言いにくいことでも、言えるように……?」
「そうだ」
「あ……あんなことや、そんなことも?」
「あんなことや、そんなこともだ」

 なまえは俯き、微かに頬を赤くする。わずかな逡巡の後、また顔を上げた。

「……少し、いただいてもいいですか?」
「少しと言わず好きなだけ飲め。今日はオレの奢りぞ」

 柱間は笑みを浮かべながら酒を注ぎ、なまえに差し出した。


 それからしばらく経った頃。柱間は、幾分か饒舌になってきたなまえからあれこれと聞き出していた。恥ずかしそうにしながらもマダラへの思いを零すなまえに「そうか、そうか」と頷きを返す。大事な友がこんなにも好かれているのが自分のことのように嬉しく、同時に、いろいろと勇気を出せずにいるというなまえを応援したい気持ちになる。
 今回のこれはやはり妙案だったのではないか。そう思いながら箸を置いた時、座敷の襖が開いた。待ちわびていた男がようやく来たようだ。

「遅かったな、マダラ」

 声をかけたが、マダラはなまえを見て動きを止めている。

「オレが呼んだんだ」
「そういうことは先に言え」

 マダラは柱間をひと睨みした。実は、マダラは柱間と飯に行くということをなまえに伝え忘れていたため一度家に帰っていた。しかし家になまえの姿はなく、急な任務だろうかと首を傾げながら店まで来たのである。まさかここにいるとは思わず、そしてそれを知っていればもっと早くに仕事を切り上げていたはずだった。

「ごめんなさい、何も言わずに……」

 なまえがどこかぎこちない様子で言う。マダラは後ろ手に襖を閉め、なまえの横に向かった。

「謝るのはお前じゃなくて柱間だ」

 そう言いながら腰を下ろす。しかし、何かを妙に感じたのかもう一度なまえを見た。

「…………」

 すると、なまえは不自然に余所を向いた。どうしてか視線を合わせようとしないのだ。一体何なのだとテーブルを見た時、マダラはその理由に気が付く。そして、静かに肩を震わせている柱間にわずかな怒りを抱いた。

「なまえに飲ませたな」
「勧めただけだ。無理やりじゃない」
「お前に勧められてなまえが断れるか。なまえ、大丈夫か?」

 その時のやり取りをマダラは知らない。ただでさえ飲み慣れていないなまえのことを、柱間のペースに付き合わされて気分が悪くなっているのではないかと心配する。

「はい」

 なまえは本当に一瞬だけ目を合わせて短く答えた。それから食事を再開したなまえにマダラが困惑したように眉を寄せると、とうとう柱間が噴き出した。

「ほら、お前も食え。冷めるぞ……」

 余程おかしいらしい。柱間は目尻を拭いながらマダラに言う。マダラはなまえの様子を気にしながらもしぶしぶと箸を持った。

 なまえが喋らなくなってしまったためその後は柱間とマダラがほとんど話していた。なまえは直前までその心の内を吐露していたせいか、本人を前にして急に恥ずかしくなったようだ。柱間にはそれがわかるから笑っていられるがマダラは困りきっていた。ちらちらとなまえの様子を気にしている友の姿が気の毒に思えてきて、柱間は一旦席を外してやることにした。
 しんと静まり返った室内。マダラはなまえへと顔を向けた。気付けばなまえはテーブルの端まで移動しており、体も心なしか壁側へと向けられている。
 酒を飲んだらしいなまえ。それだけでこんなにも態度が変わるものだろうか。なまえに避けられるようなことは何もしていないはずだと直近の記憶を辿ってマダラは思う。
 考えてもわからないなら直接確かめるしかない。ずっとおかしそうに笑っていた柱間は何か知っているようだが、あいつにだけは頼りたくないという妙な意地がマダラにはあった。

「……なまえ」

 名を呼ぶだけで少し緊張する。しかし、それに反してなまえはあっさりとマダラのほうを向いた。
 顔の火照りは酒のせいか。奇妙な距離を保ったまま、なまえはじっとマダラを見つめる。その瞳から嫌悪のようなものは感じられず、その逆であるかのようにしか見えない。それが余計にマダラを困惑させる。

「柱間に何か言われたのか?」

 なまえは首を横に振る。マダラは迷った末、腰を上げてなまえの真横に座った。離れようとするなまえを呼び止め、そこに留めさせる。

「調子が悪いなら無理せず言え」

 なまえが遠慮しがちな性格なのはわかっているが、今はここに二人しかいない。自分にだけは気兼ねする必要はないのだと、そういう思いを込めてマダラは言った。

「……そうじゃなくて、その……」

 なまえは背中を丸めて目線を泳がせる。マダラは手を伸ばし、なまえをなだめようとした。

「さ、触らないでください……」

 なまえは膝の上で手を強く握り、瞼もぎゅっと閉じて言った。
 静寂が訪れる。他の部屋からの喧騒は聞こえるのに、この空間だけ時が止まったかのようだった。
 マダラの手から力が抜ける。呆然としていると背後で襖が開いた。戻ってきた柱間は、マダラの顔を見るなり抱腹絶倒した。


 何故なまえがマダラを拒絶したのか。その理由は簡単だ。
 店の前で柱間と別れ、帰路につくなまえとマダラ。別れる直前、なまえは柱間から「頑張れよ」とマダラに聞こえぬように背中を押された。その時に、かなりへこんでいるようだとも教えてもらった。
 なまえとてマダラを傷付けたかったわけではない。しかし、あの場ではああ言うしかなかったのだ。
 それでいながらもマダラはなまえの歩調に合わせて歩いている。なまえはどこかふわふわとした感覚のまま、少し前を歩くマダラを見た。申し訳なく思いながらも胸がぎゅっと締めつけられる。
 そんな、どうしようもないほど優しいところが――

「す、……」

 ――危うく出かけた言葉を慌てて両手で押さえ込む。それに気付いたマダラも少し慌てた様子でなまえを振り返った。

「戻しそうか?」

 吐き気を催したと思われたらしい。なまえは首を勢いよく左右に振る。マダラは何かを言おうとしたが、伸ばしかけた手とともに引っ込めた。先程のなまえの言葉を気にしているのだ。
 なまえは、再び前を向いたマダラをちらりと見る。本当はすぐにでも誤解を解きたい。だが、ここでは駄目だ。駄目なのだ。どうにか抑え込んでいるものをこんな場所で溢れさせてはならない。その一心でなまえは己を保っていた。
 静かな夜道を言葉もなく歩く。ようやく家が見えて安堵を零したのはどちらだっただろう。なまえは玄関に入ると框に腰を下ろして草履を脱いだ。
 座ったまま一息つく。外で醜態をさらすことなく無事に帰宅できたことに安心していた。
 そのままじっとしていると、先に上がって明かりをつけていたマダラが戻ってくる。横に屈んだマダラを見てなまえはぼんやりと思った。
 ――もう我慢しなくてもいいんだ。
 なまえはマダラのほうに体を向ける。その前に、まずは謝らなくてはならない。

「……さっきはごめんなさい。触らないでっていうのは、マダラさんのことが嫌だったんじゃなくて……」

 なまえは膝の上で両手を結び、瞼を閉ざす。心の内を吐き出すのにも普段よりすらすらと言葉が出てくるようだった。

「あんまり近くにいたら、我慢ができそうになくて……」
「……我慢?」

 マダラが聞き返した。なまえはそっと目を開き、マダラへ向けて両手を差し出す。あれこれと説明する時間ももう惜しくなってしまった。

「抱き締めて、マダラさん……」

 恥ずかしいと思うのに、ためらいはなかった。じっと見つめて待っているとマダラが動いた。伸びてくる腕に身を委ねる。いつもより強く抱き竦められ、不安にさせていたらしいことをなまえは感じた。
 閉じ込められた腕の中で深く息を吸う。においにまでマダラに包まれているのだと思うと頭がくらくらしそうだった。

「好き……」

 マダラの背中に腕を回しながらなまえは零す。考えるよりも先に声に出てしまう。素直になれると柱間が言っていたのはこういうことなのだろうか。

「……オレは何かしたかとずっと考えていた」
「私に触れようとしました」
「…………」

 なまえは黙ってしまったマダラに小さく笑う。

「私、マダラさんに見つめられただけで嬉しくなってしまうのに、触れられるなんて絶対だめです。だって、お店で、柱間さんの前でぎゅっとするわけにはいかないでしょう」

 マダラの胸元に頬をすり寄せる。そうしているだけでも幸せで、夢見心地のようだった。

「今後はオレ以外の男の前で飲むな。たとえ柱間でも……」
「柱間さんは、私が一歩踏み出せるように助言してくれてるんです」
「面白がってるだけだ、あれは」

 ひたすら笑い転げていた柱間の姿をなまえはあまり覚えていなかった。爆発しそうな己の欲と戦うのに必死でそれどころではなかったからだ。

「お酒を飲めば普段言えないことも言えるようになると教えてくれました」
「あいつの教えなど聞くな」
「でも、私、マダラさんに伝えられてないことがたくさんあって……」

 腕の中でなまえは目を伏せる。密着した体から、短く息が吐かれるのがわかった。

「言わなくても……十分伝わってる」

 柱間も言っていたようになまえは案外顔に出やすいのだ。そうでなかったとしても、機微に聡いマダラであればなまえの考えなど容易に感じ取れるだろう。

「じゃあ、これも……?」

 なまえはマダラの肩を押して隙間から見上げた。マダラも見下ろし、数秒見つめ合う。
 やがて、片方の腕を離したマダラがなまえの髪を耳にかけた。そして耳から首筋へと触れながら身を屈める。なまえの顔に影が落ちて短い口づけがされた。

「……当たりか?」

 マダラが離れると、なまえは口元を押さえて心底感心しながら頷いた。
 なまえが言葉にしないこともマダラにはわかるのだ。けれども、できることならやはり自らの言葉で伝えられるようになりたいとなまえは思う。

「マダラさん大好き……」

 これは、その練習だ。
 いつか後悔なんてする時が来ないように、今のうちからたくさん伝えていこう。酒はそのための手段の一つであるということを、この日なまえは学んだのであった。