部下A


 扉間がなまえを部下に迎えてから数か月が経った。いろいろ教えてやると約束したとおり、扉間は交渉や話し合いの場になまえを同席させ、自らの横で学ばせた。無論、上層部のような重要な役目にないなまえに全てを任せる訳ではない。以前あったように正式な書状をもらう段階になって話をひっくり返そうとする者もいる。そういう時になまえが動じず対応できるよう、少しでも多くの知識と経験を積ませようというのが扉間の考えであった。
 少々過剰にも思えるが、一人でもあらゆる状況に応じられるようにしておきたかった。なまえの単独での身軽さ、足の速さから今後遣いに出す機会も増えるだろう。誰を前にしても恐れない胆力があるため、早いうちから仕込んでおけば活躍の幅も広がるかもしれない。
 それに、うちは一族の者を積極的に外部に見せることで友好関係を外部に示すことができる。千手とうちはが確かに協力しあっているのだということをアピールすることができるのだ。純粋な思いで里に尽くそうとしているなまえを目立たせない手はなかった。
 長きに渡り戦をしていた千手に対して恨みはないのか? そう疑問に思ったこともある。少なくとも扉間は自身や兄である柱間、千手以外の者に対してもなまえが態度を変えるところを見たことがない。表情もうわべだけを取り繕ったものでないことは接していればわかる。性根が穏やかなのだろう。それをまざまざと感じさせる出来事がとある日の昼に起こった。
 頭を悩ませていた問題がようやく片付き、昼を食べに店へ向かっている途中のことだった。扉間は人通りの少ない道のベンチになまえが座っているのを見つけた。
 今日はなまえに当てる任務はなかった。空きの日に一般の受付から任務を受けるかどうかは本人次第である。この時間に里にいるということは受けなかったのだろう。待ち合わせでもしているのかと横目に思いながら扉間は通り過ぎていった。
 一時間ほど後、扉間は店を出た。知り合いと偶然一緒になってつい話し込んでしまったのだ。
 同じ道を通って本部へと戻る。その途中、先程なまえがいたベンチのほうを見た。思わず足を止めたのは、なまえが少し前と全く変わらぬ体勢でそこに座っていたからだ。

「…………」

 扉間は眉をひそめる。なまえはぼんやりと空を見上げるようにしている。約束をすっぽかされたのか? それにしては留まりすぎではないだろうか。きょろきょろと待ち人を探す素振りもない。もしかすると、と扉間は思い、歩みをそちらへ向けた。

「なまえ」

 ある程度近付いたところで呼ぶとなまえはゆっくりとこちらを向いた。扉間を見て目をぱちくりとさせる。本部で会う時とは違い、いささか気の抜けた顔をしていた。

「扉間さん、こんにちは」
「……何をしてる?」

 扉間は直球に問う。するとなまえは一度空のほうに視線をやり、また扉間へと戻して答えた。

「ぼうっとしてました」

 やはりそうなのか、と扉間は内心で呟く。驚くべきことになまえは長い時間何もせずただ座っていたらしい。普段本部で無駄なく仕事をこなす姿しか見たことがないため、扉間からしてみれば意外でしかなかった。
 なまえの顔色を見て、今この瞬間に嫌悪を感じていないことを確かめてから話を続ける。

「あまり家にいたくないタイプか?」
「いえ、そういう訳ではないのですが……」

 なまえは腰を上げ、扉間の向こうに見える往来を眺めながら言う。

「里で過ごす人の気配を感じながらぼんやりしてると気持ちが安らぐんです。戦続きだったあの頃と比べて平和になったのを実感できて……」

 そう話すなまえも、争いを好まず平和な世を願う者の一人なのだ。

「……でも、ずっとそうしていると時々小さな子に変な目で見られるから、そういう時は家に帰ります」

 なまえは眉尻を下げて笑う。そんなふうに笑う顔も扉間は初めて見た。なまえであっても仕事の場とそうでない場では多少異なるのだと思うと、少しばかり面白かった。

「扉間さんは? 今からお昼ですか?」
「昼は今済ませた。これから本部に戻るところだ」
「そうなんですね。何か手伝えることがあるなら私も行きましょうか?」

 そう言われて扉間は「いや」と首を振る。
 なまえには出世しようとか媚びを売ろうとかの考えはない。里のために、という真っ直ぐな志は、扉間も同じく抱いているものである。
 だからこそ手ずから育ててやろうという気にもなったのだ。

「今日は頼めそうなこともない。また明日にでも来てくれ」
「わかりました」

 なまえは頷いた。

「じゃあ、私はこれで」
「ああ」

 扉間が返すと、なまえは軽く会釈をして背を向けた。
 揺れる髪と背中の家紋が目に入る。もし声をかけなければ、なまえはここでずっとああしていたのだろうか。しばし考えて、恐らくそうだろうな、という答えが出た時、扉間も踵を返した。


 その翌日のことだった。なまえの心に深い傷を残す事件が起こったのは。
 里から連れ去られた子どもを偶然見つけたなまえが一人で対処に当たろうとして悲惨な事態を招いてしまったのだ。
 判断を誤ってしまうことは誰にでもある。しかしなまえの場合その代償があまりにも大きすぎた。
 発見した時点で里に戻り誰かに相談する。それだけのことができていれば数人の子ども達を死なせずに済んだかもしれない。それは本人が最もわかっているだろう。扉間は一度たりともなまえを責めることはしなかった。自分自身も傷付きながら必死に事後の対応に当たろうとする姿が見ていられず、最低限の聞き取りだけして後はこちらでやると引き取った。なまえには後のことは心配せず、落ち着くまでしばらく休養するよう言って家に帰した。
 こういう時に支えになってくれる親族や友人がなまえにいるのかはわからない。それを知るほどまでに親しい間柄ではなかった。里の子どもを失ったのも当然悲しむべきことではあったが、この時の扉間はなまえが潰れてしまわないかということのほうが気にかかっていた。
 これからというところで何故壁が塞ぎ立つのだろう。真面目に努力する者にこそ試練が降りかかるのかもしれない。扉間は自らが支えになってやることも考えたが、彼女にとって上司でしかない自分が行ったところでさらに追い詰めることになるだけかと思い、動けずにいた。
 なまえが持ち直すのをただ待つしかできないのが歯痒かった。

 それらの心配を余所に、しばらくするとなまえは復帰した。本部の、扉間が主に使用している部屋で柱間と話している最中、戸が叩かれてそっと開いたのだ。二人して振り向くとなまえが恐る恐る顔を覗かせた。
 なまえ、と兄弟の声が重なる。

「またここで仕事をいただけますか?」

 いつまでも家でじっとしていても仕方がない。塞ぎ込むくらいならその時間を里のために使うほうがいいと考えたのだそうだ。
 柱間は「少しやつれたか」「飯は食っているか」などと声をかけている。この場に柱間がいたのは扉間にとって救いだったかもしれない。安堵のあまり言葉がうまく出てこなかったからだ。
 それから、時とともに少しずつ以前のなまえに戻っていった。しかし、里のベンチに座るなまえを見かけることは二度となかった。


 とある交渉になまえを同席させた後のこと。難航すると予想されていた話し合いがなまえの存在により思わぬ展開を見せた。扉間はそのチャンスを逃さず話を運び、里の利になるようにまとめ上げた。
 なまえをうちはで若い女だからと見くびってかかれば意外な豪胆さと鋭さに相手は目を剥く。どうやらなまえは人の真意や腹の内など扉間が見えているのと同じくらい読めているらしかった。それを会話の中でうまく利用できるようになればこういう場にも一人で出向かせられるかもしれないが、恐らく本人は望まないだろう。

「それにしても、あの顔は傑作だった。よく言い返したな、なまえ」
「いえ……事実を言っただけです」

 訪れていた集落を後にして、扉間は横を歩くなまえに言った。するとなまえは首を横に振り、肩をすぼめた。話し合いの場では堂々と振る舞っていたのに褒めると途端にこれである。自分は未熟であるという思いが強いため、お前の手柄だと言われても素直に受け取ることができないのだ。
 そんななまえに、扉間は呆れたように笑みを零す。

「この近くの宿場町に火の国一だという飯屋がある。そこに寄るぞ」
「はい」

 まさかそこで飯を食って帰るとは思ってもない様子でなまえは頷いた。今回の交渉がうまくまとまったのは、なまえが思っているよりもずっと喜ばしいことだったのだ。