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 荷造りしながらなまえは何度目となるかわからない溜め息をつく。繰り返し記憶を辿ってみても、幻術にかけられているのではと疑うほどに実感が湧いてこない。
 結婚することになった。それはいい。しかし相手はうちはの長だ。何の因果でそうなったのだろうか。
 お前次第だと言われてなまえは受け入れた。勢いだけで決断した訳ではない。マダラの言葉を、思いを感じ取ってその選択をした。そして一晩経った今も後悔の念はない。だが、胸の内で渦を巻くような感覚がするのは何だと言うのだろう。

「…………」

 服を畳む手を止めて心臓の辺りを押さえてみる。静かに脈打つ鼓動を感じ、なまえは自分が不安に囚われているのだとわかった。らしくないと苦笑すると同時に、この状況では仕方がないと心の内で言い聞かせる。そして体を投げ出すように横たわり、カーテンの隙間から覗く夜空に目をやった。音もなく瞬く星々に全てを投げ出したくなる。けれどそれが叶わぬことは十分理解していて、今度は溜め息ではない空気をゆっくりと吐き出して作業を再開した。
 家を移るのに必要な物などわからないなまえだったが、足りなければ取りに戻ればいいと割り切って最低限の荷物をまとめた。しかし流石に色気がないかと飾り物の一つでも探してみたが、そんなものがこの部屋に存在しないのは本人が一番わかっている。それに、マダラの前でそういう類は無用であるように思った。
 柱間はあのように言っていたが、マダラと心を通わせるなど本当にできるのだろうか。
 自身の指に視線を落としたなまえの目には不安の色が浮かんでいた。



 翌日、思うように寝付けなかったなまえは手伝いを頼まれたという者達を部屋に残し、自身はその内の一人と共にマダラの家を目指していた。
 それというのも、聞ける身内もおらずさっぱりであると伝えたところ、目尻にしわを作った女が「後は自分達に任せてくれ」と風呂敷のみを持たせてなまえを部屋から追い出したのだ。
 横で案内をしている若い女はなまえの荷物を半分持ち、気さくに言葉をかけてくれるのでなまえの足取りも少しばかり軽くなっていた。
 目的の場所までそう遠くはないらしい。抜けるような青空の下、穏やかな風が吹き抜けて「今日は良い一日になりますよ」と女が微笑んだ。なまえは頷くことでそれに返事をして、間もなく到着した門の前でマダラに出迎えられた。
 前に立つ女が小さく頭を下げたのを見てなまえも口を開く。

「今日から、よろしくお願いします」
「ああ。オレは少し出るが……夕方には戻る。中の物は自由に使っていい」
「わかりました」

 マダラはそう言い残して去って行った。
 二日前と何ら変わりのない様子を目の当たりにしたなまえはどうやら深く考えすぎていたのかもしれないと自覚した。あの瞳を見ると不思議と心が落ち着いてくる。写輪眼とは別の、何か特別な力があるように思えてならない。
 なまえは自身を呼ぶ女の後を追って玄関を跨いだ。

「よかったのですか? いってらっしゃいって仰ってあげなくて」
「えっ?」

 予想だにしていない質問になまえは素っ頓狂な声を上げた。女はくすくすと笑いを零しながら脱いだ草履を端に揃える。

「きっと嬉しいとお思いになるはずですよ」

 柱間と同じ太陽の側の人間だと、微笑をたたえる女を見つめたなまえ。彼女のような女性のいる家はきっと華やかに煌めいているに違いない。
 では、自分はどうだろうか。すでに新たな道程を歩み始めているが、それを共にするマダラへなまえは何を与えられるだろう。太陽のような煌めきも、花のような笑顔も持たない自分が、果たして。
 それを考えるにはマダラについて知らない事が多すぎる。いや、考えたところで見つけられるものではないのかもしれない。マダラがなまえを受け入れた時点ですでに範疇を超えているため、彼が自身に望むものなど思い至るはずもないのだ。
 となれば時間を割いても勿体ないと判断してなまえは頭を切り替えた。普段そうしているように、気付きを得たらその時々で対応していけばいい。女の助言を忘れずに受け取って感謝を伝えた。

 やがてなまえの部屋を任せていた手伝いの者も合流し、所々整理しながらなまえの荷を移していった。皆の協力と元々の物の少なさが相まって時間は長くかからなかった。
 途中、休憩を挟んでいる時に一族の者が数名訪れ祝いの品を持ってきた。なまえは一つ一つ丁寧に貰い受けたが、その中の誰の名も知らないことを申し訳なく思った。
 なまえを気に入ったらしい女が「疲れているだろうから」と夕飯の支度まで一緒にしてくれたのを最後に見送った後、なまえは大きく伸びをして居間に腰を下ろした。皆良い人だった。こんな状況にでもならなければ関わることもなかっただろう。近い内に改めて礼をしに行こうと決めて時計を見上げた時、玄関の戸が開く音がした。マダラが帰ってきたのだ。
 ――こういう時って出迎えに行くべきなのだろうか。
 なまえは頭を捻らせた。両親はどうしていたっけと記憶の糸を手繰り寄せるが、随分昔の事なのでなかなか見つからない。そうしている間に廊下を歩いてきたマダラが顔を覗かせてなまえの姿を捉えた。

「あ……お帰りなさい」

 結局腰も上げずに言ったなまえにマダラは「ああ」とだけ返してそのまま通り過ぎて行った。
 気が付いたら行くようにすればいいかとなまえは心の内で決めて、夕食の用意をするため台所に向かう。配膳を進めながら、誰かと食事するのは何年振りだろうと考えていた。
 マダラが座り、箸を持ったのを見てなまえも両手を合わせる。黙々と食べながら窓の向こうの景色を眺めていたなまえはふと我に返った。しばらく一人での食事が続いていたので会話するのを忘れてしまっていた。

「これ、手伝いの人と一緒に作ったんですがどうですか?」
「……悪くない」

 思い出したようになまえが尋ねるとマダラは目線だけを向けて言った。それなら良かったとなまえは小さく呟く。
 なまえもマダラも「食べられればいい」という共通した観念を持っていた。味など余程ではない限り濃くても薄くても気にしない。だが次の質問に対しては、マダラは少しばかり苦い表情を浮かべた。

「食べられないものってありますか?」

 料理を提供する側の人間には必須の情報だ。マダラは手を止めてやや間を空けた後、どうにか聞き取ることのできる程度の声で「白子」と答えた。
 白子。なまえは反芻してその食べ物を思い浮かべる。今まで買ったことがなかったがこの先もないだろうなと一人頷いた。

 食事が済むとマダラが食器を下げようとしたのでなまえは自分がやるからいいと制止した。台所で皿を洗いながら、こうしている間に風呂を沸かすべきだったなと思った。
 零した水滴を拭き上げて浴室へ向かえばすでに釜に湯が注がれ始めていた。マダラに尋ねると自分がやったと言うのでなまえは面食らいつつ礼を述べた。

「自分の家のことだ」

 マダラは何でもないように言った。世話を焼かれるのが好きではない、というよりは「当たり前にやってきたからしているだけ」といった様子だ。だから感謝されることでもないのだと暗に伝えている。なるほど、と心得たなまえはこれ以上しつこく聞く必要もないので話を切り替えた。

「昼にお祝いを頂いたんですけど見てみませんか?」
「いや……オレはいい。お前が使ってやれ」
「お酒とかありましたよ」
「家では飲まん」
「……そうですか……」

 私も飲まない、となまえは呟いた。家じゃなくとも一滴も口にしたことはないが。
 では置いてあっても仕方がないし酒は処分するかと思案していると、そんななまえの雰囲気を察知したのかマダラが口を開いた。

「どこにある?」
「座敷に置きました」

 マダラはあまり他人に関心を示さないが、同族の人間の厚意を無下に扱うほど野暮ではない。襖を引くなまえの背中を眺め、自身とは異なる無関心さにどこか彼女らしいなと感じながら立ち上がる。
 なまえは熨斗の当てられた品物の中から二つを手に取ってマダラに渡した。確かに酒であると確認したマダラは「料理にでも使え」と台所へ運んで戸棚の中に仕舞い込んだ。中には似たような酒瓶が他にもあり、貰ったからとりあえず取っておくというマダラの性質がそこに表れている。そして座敷にいたなまえに伝えて自身は居間に戻った。
 一連の様子になまえはしばし考え込み、見解を改める。マダラが人の思いを大事にする男だとわかったからだ。
 丁度扱いに悩んでいた花束を見下ろして早速行動に移した。その柔軟な心はなまえの取り柄と言えるだろう。適当に数本選んだ花を切り揃えてコップに生ける。咎められることはないだろうが一応確認を取って、玄関の靴棚に載せた。すると少し明るくなったような感覚がしてなまえは今度花瓶を探してこようと思った。

 先に入るよう勧められて風呂を済ませたなまえは交代で浴室に向かうマダラを見送った。その後寝室に入って後ろ手に襖を閉じ、明かりを点けたところで、ある違和感に眉根を寄せる。
 なまえはその一点を見つめて、手伝いの者が晩の支度もしたとどこかのタイミングで告げていたのを思い出した。そして今になってわかったその意味に「普通、そうだろうな」と他人事のように納得する。ぜひ今夜着けてほしいと渡されたこの襦袢も恐らくそのためのものだ。
 辻褄が合った現状を前に、湯にのぼせたなまえの頭も落ち着いてくる。そこでようやく自身の辺りに自然のものではない香りが漂っていることに気が付いた。この襦袢からだ。
 思わず顔をしかめたなまえはすぐに自分の寝巻に着替えた。匂いの強いものは気分が悪くなるから昔から苦手だった。
 意識すればするほど香りが強くなってくるようで、なまえは縁側に繋がる障子を開き外の空気を取り込んだ。そして丸めた襦袢を少し離れた所に置いて膝を抱え込む。精神的な疲れと寝不足なことも重なったせいかズキズキと頭が痛み始めた。なまえはその痛みと情けなさを感じながら膝に顔を埋めて静かに目を閉じた。

 やがて風呂を済ませたマダラに呼ばれてなまえは顔を上げた。その顔色の悪さにマダラは何事かと尋ね、襦袢を指差すなまえから事情を聞く。するとマダラもこの時ばかりは「余計な事を」と心の内で非難した。
 なまえを布団に運んで寝かせてやると謝ってきたので、マダラは気にするなとだけ返して眠りにつくのを待った。
 縁側に転がっていた襦袢を袋に詰めて処分した後、自身も布団を敷いて横になる。かすかな寝息を立てるなまえにとんだ災難だったなと同情を寄せてそっと瞼を閉ざした。