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 任務管理室で事の報告を終えたなまえは、夕飯のメニューを考えながら廊下を歩いていた。ぼんやりと窓の外に目をやって、寒くなってきているし鍋にしようかと決まりかけた時、不意に名を呼ばれて足を止める。振り返ると、段ボールを抱えた柱間が小走りに駆け寄ってきた。

「まだ帰ってなくてよかった」
「柱間さん。何かありましたか?」
「これを渡そうと思って」

 そう言って柱間は段ボールを少し持ち上げてみせる。なまえが覗き込むと鮮やかな緑黄色がゴロゴロと顔を覗かせていた。

「野菜ですか?」
「ああ。知り合いに貰ったんだが数が多くてな……お裾分けってやつだ」

 パチッと片目を閉じた柱間は「持って帰ってくれ」と段ボールを差し出す。受け取ったなまえは予想外の重さに慌てて両足を踏ん張った。お裾分けでこの量なら、本来どれほどの数を譲られたのだろうか。

「少々重たかったか?」
「いえ、大丈夫です」
「すまん、マダラに渡すべきだったな。お前にとばかり考えていて気が回らなかった」

 眉尻を下げる柱間に、なまえはもう一度「大丈夫ですよ」と言って口元を綻ばせた。重心を近付けてしっかり抱え直すと仄かに土の匂いが上がってくる。採れたての新鮮さが鼻を通して伝わるようだった。

「こんなにたくさん、ありがとうございます」
「いや、こちらも助かる。マダラとはうまくやってるか?」
「変わりないですよ」
「……お前達、示し合わせたかのように同じ事を言うなあ」

 何を尋ねても素っ気ない返事を寄越す友の姿が過って柱間は苦笑した。首を傾げるなまえになんでもないと頭を左右に振り、自身より幾分か小さな肩をポンと叩く。

「あいつの事で悩んだらいつでも打ち明けてほしい」

 力になるぞ、と柱間は笑った。なまえはきょとんとしたが、すぐに微笑を浮かべて感謝を伝える。きっと柱間にしかわからない事もあるのだろう。何より、自分を気にかけてくれるその優しさが嬉しかった。

 柱間に見送られ、家路についたなまえはようやくといった調子で玄関の庇に駆け込んだ。今朝からぐずつきそうな天気だったのが、とうとう降り始めたのである。段ボールを庇ったせいで髪や背中はびしょ濡れになっており、息を切らした姿は濡れ鼠と呼ぶのに相応しい。
 すぐそばでは大粒の雨が地面を叩き、霧のような飛沫を上げていた。戸を開けて、腕だけを伸ばし野菜達を非難させた後、手袋を外して袖や裾を乱雑に絞り上げた。気温の低さも重なりじわじわと体温が奪われていて、今が任務中ではなくて助かったとなまえは思った。
 家に入り、草履を脱ぐと一目散に脱衣所へ向かった。垂れた水を拭くのは着替えた後。まずはその大元である自分自身をどうにかしなければと、閉じられていた戸に手を伸ばしたが触れる直前で空を切った。丁度風呂を済ませたマダラが内側から戸を引いたのだ。
 マダラは特に驚いた様子もなく、髪の水分を拭いながらなまえを見下ろした。

「あ……ごめんなさい。いいですか?」

 僅かに目を丸くしながら言うと、マダラが体をよけたのでなまえは中に入った。肌に張り付く服をなんとか脱ぎ捨てて体にタオルを巻き、廊下に落とした雫を拭きに出る。するとマダラが膝を付けてその跡を辿っていたのでなまえは慌てて声をかけた。
 顔だけを向けたマダラはなまえの碌に隠せていない下着が視界に映ったが、気に留めることなく口を開く。

「これ以上濡らす前に風呂に入れ」

 そう言われてしまうとなまえは反論の余地がなく、しずしずと脱衣所へ戻った。雨如きで体調を崩すようなひ弱さは持ち合わせていないが、冷えた体がくしゃみを誘う。脱いだ服から小物を外し、下着も洗濯機に放り込んで浴室に入った。全身を洗い流して湯に浸かると自然に溜め息が零れる。しかしその時間も長くは続かず、早々に湯船から上がり、すでに赤らみ始めた体をさっと拭いた。沸かし立てに入る時よりは少しばかりぬるくなっているが、のぼせやすいなまえには五分も耐えられなかったのである。
 浴室を出るとそばに着替えが置いてあった。なまえはそれどころではなかったのでマダラが持ってきてくれたのだろう。袖を通しながら、自分は手のかかる子供のように思われてないかと不安になった。

「もう上がったのか」

 居間の襖を引くと、ストーブの調節をしていたマダラが振り返る。火を入れたばかりのようで、石油のにおいが鼻を突いた。

「はい。着替えまでありがとうございます」
「風呂くらいゆっくりしろ」
「すぐのぼせるんです」

 なまえは少し離れた場所に腰を下ろし、タオルで髪を拭い始める。火の加減を見ていたマダラは、だからいつも早いのかと納得がいった。

「昔からあついのが苦手で」
「……布団を蹴飛ばしてたのもそのせいか」
「いっ……いつですか?」

 本人の知り得ない醜態を暴露され、恥ずかしさを覚えたなまえは畳に両手をついて詰め寄ったが、「覚えてない」と素知らぬ顔をされる。そんなはしたない姿を見られていたなんて。羞恥に苛まれたなまえは静かに項垂れた。

「……子供だなって思いますか?」

 やがて消え入るような声で言ったなまえに、マダラは意外そうな顔をする。軽い気持ちで発した言葉は思いの外刺さってしまったらしい。強かに見えてこんなところにかわいげがあったのかと笑いを零すと、いよいよ居たたまれないという表情をしてなまえが見上げてくる。湯上りだけではない上気した頬に、僅かに瞳を潤ませて口元をきゅっと結ぶ。時々見せるそういう反応こそ「子供っぽい」と感じる部分なのだが、当の本人は気付いていない。

「そうは思わないが……」

 元々長子として兄弟の面倒を見てきたマダラは人にあれこれ世話を焼くのも慣れている。今日の分も含めてマダラには些細な事でしかなく、なまえが気に病むほど意識して行動に移している訳ではない。蹴飛ばされた布団を戻してやるのだって何ら特別な事ではなかった。
 しかし何においても自分でできるようにと育てられ、世話を焼かれるのに慣れていないなまえは恥ずかしさと申し訳なさで頭がいっぱいになっている。その様子に、流石に少々後ろめたい気分になったマダラは、どうにか宥めてあげようと口を開いた。

「嫌だったか?」
「……嫌、っていうよりは……」

 くすぐったい感覚、となまえは自身の胸に手を当てる。嫌ではないのだが、胸の辺りがむずむずして落ち着かない。未知の感覚をどう対処すればいいかわからず、なまえは縋るようにマダラを見上げる。すると柔らかい眼差しがこちらを見つめているのに気付き、思わず呼吸を止めた。見れば見るほど、騒めいていた心が静まって安心感に包まれる。
 まただ、となまえは思った。つい引き寄せられそうになったのを、視線を落とすことで誤魔化した。そして静かに息を吸い込むと、途端に周りの音が蘇ってくる。窓を打ち付ける雨粒に目をやって、玄関に置いたままにしていた存在を思い出した。

「忘れてた……」

 徐に立ち上がって居間を出たなまえ。取り残されたマダラは、「忙しいやつだな」と心の内で零したが、調子が戻ったならそれでいいかと小さく息を吐いた。
 湿気で些か柔らかくなった段ボールを、底が抜けないよう下から抱えて台所に運んだなまえ。改めて中を確認すると旬のものばかり詰められていた。ひとまず邪魔にならない場所に置こうかとゴソゴソしていると、マダラが顔を覗かせる。

「どうした?」
「柱間さんに野菜を頂いたんです」

 そばに来たマダラに、なまえは体をよけて中身を見せた。するとマダラは怪訝な表情を浮かべてそれを見下ろす。こんなに詰めたものをなまえに持たせたのかと、僅かな憤りを瞳の奥に滲ませていた。

「……オレからも礼を言っておく」

 そう言ってマダラは居間のほうへ戻っていった。その一言にただならぬものを感じ取ったなまえは柱間を案じたが、しかし大事には至らないだろうと踏んで忘れることにした。
 段ボールから幾つか野菜を取り出して並べる。それらを眺めて、夕飯のメニューは根菜鍋に決めた。