26


 昼の輝きがたっぷりと里の上空に広がっている。少し早くに仕事を終えたなまえは、夕飯の食材と日用品を含む買い物リストを頭に浮かべながら商店街を歩いていた。それほど規模が大きい訳でもないのだが、ここの通り一つで必要な物を揃えられるのは大変有り難い。まずはそろそろ切れそうだった洗濯用洗剤を探すため、日用品売り場へと足を進めていた時の事だった。

「きゃっ!」

 足に衝撃を受けたかと思うと、悲鳴を上げながら今にも尻もちをつきそうな女の子の姿があってなまえは反射的に手を伸ばした。小さな体躯を支えてやると、女の子はそのままの体勢で空を見上げ「おお〜」と感嘆だか驚嘆だかわからない声を漏らす。ふわっとした感覚が面白かったのかもしれない。
 女の子をしっかり立たせて怪我がないか尋ねると、人懐っこい笑顔が返される。落ちていた本を拾い上げ、砂を払って渡していると八百屋から出てきた女性が慌てたように駆けつけた。

「お母さん!」
「もうっ、すぐどっか行っちゃうんだから!」

 女の子を一喝した後、状況を察したらしい母親が「すみません」と頭を下げる。なまえは大丈夫ですよとだけ言って、親子が手を繋いで去っていくのを見送った。

「お母さん、今日学校でね……」

 去り際に耳に届いた女の子の言葉に、あれは学校の教本だったかと察しをつけたなまえ。この春から、ようやく完成した学び舎で、忍を目指す子供達が勉学に励んでいるのだ。子供達がしっかり学び、遊んで成長していく姿を皆で見守る。それは、里作りを発起した柱間やマダラが最も実現したかった部分に違いない。
 ふと、なまえは女の子が残していった足跡を見つめる。あの子達が生きていたら、今頃学校に通っていて、あの女の子とも友達になっていたかもしれない。などと、今更覆らない結末の「もしも」を脳裏に描く。無意味だとはわかっていても、なまえは夢想せずにはいられなかった。

 洗剤を購入した後、肉屋に向かった。その途中、路地のほうに入っていく、今し方見たような後ろ姿が目に留まる。進行方向だったので、その路地に差し掛かった時、何とはなしに視線を向けると、その女の子の手を引く人物が先程の母親ではない事に気が付いた。男性のようだったので一見すれば父親かと思ったが、なまえはどこか引っかかった。仮にそうだとしても、母親は一体どこへ。
 後をつけるべきかと考えていると、通りのほうから女性の声が響いてくる。それは確かにあの母親の声で、それが女の子の名を呼んでいるのだと悟った瞬間、なまえは買い物袋を捨てて駆け出していた。あの男、父親ではない。直線の道を辿ると二人にはすぐに追いついて、なまえは男の肩を掴んだ。女の子は不思議そうになまえの顔を見上げる。

「すみません、少しいいですか?」
「あっ、さっきのお姉ちゃん。あのね、このおじさんが飴をくれるって――」
「黙ってろ!」
「きゃあ!」

 男は女の子を抱え、取り出したクナイをそのか細い首に向けた。振り解かれた手を下げて、なまえはじっと男を見据える。この眼を以てしても、飴をあげるような雰囲気には到底見えない。

「動くなよ。このガキがどうなっても……」

 じり、と後ずさりしながら、なまえの出方を窺うために目を合わせたのがいけなかった。赤い眼に捉えられ、男は糸が切れたように崩れ落ちる。無論、なまえの写輪眼の幻術に意識を囚われたせいだった。
 解放された女の子に怪我がないか確かめていると、悲鳴を聞き付けたらしい母親が息を切らして迫ってきた。なまえは知る限りの事情を説明して、何度も頭を下げる母親に、事後処理があるからと早々に別れを告げる。口うるさく言わずとも、もうあの子の手を離したりはしないだろう。彼女らと三度目の邂逅があるならば、それはどうか穏やかなものであってほしいとなまえは男を背負いながらそう願った。
 人気のない林へと場所を移し、男を木の根元に座らせる。そのそばに跪き、幻術を解いたなまえは、やがて瞼を上げた男に静かな尋問を始める。

「あの子を攫ってどうするつもりだったんですか?」
「…………」
「どこかに売るつもりでしたか? それとも、単に子供が欲しかっただけですか?」

 言わないなら無理矢理吐かせても構わない。なまえが再び赤い眼を向けると、男は観念したように「前者だ」と答えた。

「この里のガキは高く売れるって噂があったんだ……優秀なやつらの血を引いてるからだろうな」

 苦虫を噛み潰したように吐き捨てる。物事の判別がつかぬうちに染め上げて、忍として育てて戦力に加えるという訳だろう。どこの国か一族かなど考えたくもないが、子供を道具としか見ていない、あるまじき連中である。目の前の、この男も含めて。

「オレは忍の才能がねえから碌に仕事もできねえ。だが、生きていくには金がいる……」
「自分が生きるためなら、子供を地獄に落としても構わないと?」

 なまえの冷ややかな視線が男を射抜く。男はたじろぎながらも、皮肉めいた笑みを浮かべる。

「その眼……うちは一族のあんたには理解できねえだろう。オレのような底辺の苦しみなんざ」
「ええ、そうかもしれません。ですが、子を失う痛みはあなたより知っています」

 その言葉に、男は僅かに目を見開いた。なまえは無表情に捲し立てながら腰の白鞘を抜く。

「あなたがまだその気ならここで殺します。地獄には、どうぞ一人で落ちてください」

 言葉に抑揚はなくとも、その眼の文様が変わった事がなまえの心情を表している。
 切っ先を特に狙いも定めず突き出した。男は反射的に目を閉じて身を捩ったが、躱しきれず腕に衝撃が走る。鋭い痛みではなく、拳をぶつけられたような、衝撃が。

「…………?」

 男が恐る恐る目を開くと、どういう訳か、その短刀はなまえ本人の腕に刺さっていた。腕に当たった手は確かに短刀を握っていた形をしていて、まるで、刃が当たる直前にそれだけが瞬間的に移動したようだった。
 愕然とする男を余所に、なまえは痛みを堪えながら言葉を絞り出す。

「今すぐ里から出ていってください。そして二度と立ち入らないでください。もし見かけるような事があれば、次は確実に、この刀で心臓を貫きます」

 なまえはわかっていた。自分が冷静ではなかった事を。だからこそその眼で自身に刃を突き立てたのだ。
 腰が抜けたようにぐしゃぐしゃと駆け出した男を見送り、些か落ち着きを取り戻した頭でなまえは短刀を引き抜いた。

「……結構痛い……」

 ぼやいてはみても、自業自得なのである。元より殺すつもりなどなく、少し話を聞き出したかっただけなのに、つい気が立ってこんな事態になってしまった。十分に脅したとはいえ、彼を見逃すような事をしてしまったのだ。今後、もし彼がこの里で事件を起こしたら、それは自分の責任になる。
 袖を破り、傷口に巻き付けてなまえは立ち上がる。やってしまった事は仕方がない。今はその後の対処をするほうが先決だ。


 病院で適当な理由をつけて治療してもらった後、なまえは重い足取りで扉間の元を訪ねた。誘拐未遂があった時点で事件には間違いないので、とにもかくにも彼に報告すべきだと判断したのである。男を逃した己の失態も隠さずに全て。
 扉間は忙しそうにしていたが、なまえの深刻な表情と一悶着あったような有り様に、ただ事ではないと察して場所を移してくれた。そして一通り把握すると、盛大な溜め息と共に一度項垂れて、呆れを含んだ眼差しをなまえに向ける。

「いつか仕出かすと思っていたがな」
「ごめんなさい……」

 なまえは肩を窄めた。非難は全て受け止めるつもりだった。これほど複雑な気分でこの男の前に立つのも初めてである。
 一方の扉間は、神妙ななまえの態度から深く自省しているのを感じ取ってそれ以上の追及はしなかった。聡い彼女だから、こちらの言わんとしている事もわかるだろう。それよりも、なまえには優先させなければならない事がある。

「こうなっては最早隠し通せんぞ、なまえ」
「…………」
「いい機会だ。これ以上拗らせる前にしっかり向き合え」

 目を伏せて逡巡するなまえに「今日中だ」と釘を刺す扉間。こうでも言っておかなければ、またぐずぐずと引き延ばすに違いない。なまえが取り乱すほどの弊害を及ぼす事が今回証明されたのだ。扉間としても、いつまでも心の闇として抱えていてほしくはないので、多少強引にでも乗り越えさせたいのである。

「必ず話せ。そして明日は来なくていい」
「いえ、そこまでは……」
「来ても仕事は与えん。心身共に養生しろ」

 わかったな、と鋭い目つきで念を押されると、なまえは頷くほかなかった。明日の手配までされて、完璧なお膳立てを整えられてしまったのである。忙しいところに手間をかけさせた事を詫びたが、じろりと目を向けられるだけで、なまえはそれにさえも尻を叩かれたかのように思えた。

 とぼとぼと帰路につき、そういえば買い物の途中だったのだと思い出してなまえは再び商店街に立ち寄った。肉屋の店員が買い物袋を拾ってくれていたようで、洗剤しか入ってないのが些か恥ずかしかったが、無事に戻ってきてほっとする。礼を兼ねていつもより多めに肉を買い、他の店にも幾つか寄った後、今度こそ家に帰った。
 荷物を片付けて、なまえは脱衣所で上の服を脱ぎ捨てた。傷口の塞がった腕を何度か擦り、包帯を解いていく。疼きが落ち着いたら外して構わないと医者が話していたからだ。鏡に映してじっくり見てみても、まるで怪我など初めからなかったかのように綺麗に治っている。
 けれど、となまえは自身の腕をぎゅっと掴む。心の傷、この胸の痛みは簡単には治せない。事実、なまえはそれを想起させられて冷静ではいられなかった。扉間の言う通りだ。これ以上問題を起こす前に向き合って、乗り越えなければならない。この手を取ってくれたマダラと共に前へ進むためにも、きちんと話さなければならない。この傷に触れずにいてくれる彼の優しさに甘えては駄目なのだ。
 そうなまえが腹を括った時、ガラッと玄関の戸が開く音がした。何てタイミングだ、と驚愕すると同時に今の自身の格好を思い出す。着替えは持ち込んでおらず、床に捨てていた服を前に当て、いつも通りに脱衣所へ入ってくるであろう彼を止めるために顔だけを出した。
 案の定、廊下を一直線に向かって来ているマダラへとなまえは慌てて言葉を紡ぐ。

「おかえ……あっ待って、あの、少しだけ――」

 言いながらも、止まる様子のない彼になまえは思わず戸を閉めた。しかし待たせたところでできる事もなく、もう一度これを着るしかないかと悩んでいると、容赦なく目の前の戸が開かれた。ビクッと肩を跳ねさせたなまえは、その拍子に服を落としてしまう。だが、下着を晒した姿などに構わずマダラはなまえの腕を掴んだ。

「傷は」
「えっ、ああ、大丈夫です。綺麗に治してもらって……」

 何故知っているのかなんて、扉間が人伝にでも知らせたからに違いなかった。どこまでも徹底的に追い立てようとするあの男が、なまえは少しばかり恐ろしく思えた。
 どちらの腕かまでは聞いていないのか、右、左と入念に確かめてくるマダラ。なまえの頭には様々な感情が交錯していたが、それよりも、決意が揺るがぬうちに伝えなければならない事がある。大して酷くもない怪我を、これほど心配してくれる彼に。

「あの……マダラさん、聞いてほしいお話があるんですが……」
「何だ」
「長くなるからご飯の……いえ、お風呂の後にでも」
「今でいい」

 食い気味にそう言われてなまえはたじろいだが、時間をくれると言っているのだ。すぐに気を取り直して「じゃあ」とその顔を見上げる。

「先に着替えてきます。外で話したいので」

 腕を解放されたなまえは足元の服を拾い上げ、急いで寝室へ向かった。箪笥から新しい服を出して袖を通す。心のどこかで来るなと願っていたような日が、ついにやってきてしまったのだ。