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 なまえは早朝から浮かない顔で自身の体を見下ろしていた。正確に言うとその体に纏った服を、である。いつもは脛から下と顔くらいしか見えない肌色が今は多く目に付いた。仕事着は仕事着なのだが、普段のゆったりした衣装ではない。袖は取り払われ、窮屈ではない程度に肌に添う布は女性らしい体の線を強調しているようだ。軽い素材が使われているためか少し風を受けただけで舞い上がりそうな裾が些か心許ない。直に外気が触れる腕を擦り、なまえはやはりやめておくべきだったかと溜め息をついた。
 それは、以前任務で護送した仕立屋が、夏服にどうかとなまえに贈った物だった。昨日、偶然町で出会ったところ、時間があるならと店に招かれて唐突に手渡されたのだ。少し遅くなってしまったが、あの日の礼をしたかったのだと言われ、なまえはそんなのいいと返そうとしたが仕立屋の女は譲らなかった。せめて代金だけでもと素直に受け取らないなまえを、女は「気に入ったらまた作るから、その時はよろしく」と言葉巧みに躱したのである。
 広げてみると、背中にはしっかりうちはの紋が刻まれており、採寸などされた覚えもないのに丈は合っていて、彼女は仕立屋として写輪眼にも引けを取らない良い目を持っているようだった。しかし、となまえは眉根を寄せておずおずと尋ねる。

「この服、袖は……」
「若いんだから少しくらい肌を見せないと。いつもそんな暑苦しい服着てるんだもの。きっと旦那さんも喜ぶわ」
「確かにちょっと暑いですけど……帰ったらすぐ脱いでしまいますから」
「あら……そうよね、その……お盛んな頃だものね。私ったら、お節介だったみたい」
「さかん……? あっ、今のは着替えるって意味で……!」

 慌てて言葉を直すなまえに、わかっているのかいないのか、女は「いいのよ」と頬に手を当てた。居たたまれなくなったなまえはまた来ますと服を抱えて逃げるように家へ帰ったのであった。

 そうして余計に袖の通しづらくなった服を、袖はないのだが、やはり礼儀として一度くらいは着なければと、今日一日は我慢して過ごす事にしたのである。
 髪を整えて布団を畳みに向かうと、丁度起きたらしいマダラと廊下で鉢合わせになった。物言いたげな目を向けられて、なまえは苦笑いを浮かべながら事の経緯を話す。そして、寝起きのためか特に反応を示さないマダラを気にも留めず通り過ぎようとすると、不意に腕を引かれて抱き締められた。一度ぎゅっと力を込められてすぐに解放されたが、露出した素肌と服の薄い生地越しに、布団の温もりが残る彼の体温をはっきり感じてしまって赤面した。
 すでに脱衣所へ消えた背中を振り返り、なまえはじわりと熱を帯びたような腕に触れる。もし、この服がマダラにそうさせたのならば、着てみて良かったのかもしれない、と単純にも心を浮き立たせたなまえなのであった。



 妙に風の通りがいいものの、特に支障を来す事もなく、いつも通りに任務を終えたなまえは任務管理室でその報告をしていた。扉間は最初に腕の辺りに目をやっただけで、別段何かを言ってはこなかった。そして、それよりも、と机に広げた紙を指先でトントンと叩く。

「これは?」
「任務報告書の雛形だ」

 覗き込むなまえへ扉間は簡潔にそう答えた。里も徐々に規模を大きくしてきており、この先任務も働き手も増えていく事を考えると、今までのように管理者側が記録をするのは些か大変になってくる。そのため任務に当たった各自に報告書をまとめさせるよう今の内から移行する事に決まったのだ。

「今朝言いそびれたからな。今日の分は明日にでも持ってこい」
「わかりました」

 なまえは頷いて、参考にするため雛形を眺め始める。前屈みになると、余分な隙間のない服になまえの胸元が一層強調され、つい視線が奪われてしまうのも無理はない。扉間は気まずそうに首ごと余所の方向へ逸らしたが、いつまでも雑念に囚われる男ではないので、直後には自身のやるべき事に取り掛かった。
 管理室を後にしたなまえは、任務の事を振り返りながら帰路につく。簡単にまとめてくれればいいと言われたが、任務自体が簡単だったのでどうしたものかと頭を悩ませていた。一方で、夕飯のメニューは魚屋の鰆が目に留まった事で即決される。勘定の際に服装がどうだと突っ込まれて、なまえは宣伝になるだろうかと仕立屋から貰った事を話してみると、「旦那からじゃないのか」とつまらなさそうに言われるだけだった。
 なまえがマダラから贈られた物と言えば桃の花が描かれた桐の手鏡だが、あれから肌身離さず持ち歩いている。花の絵ももちろん気に入っているが、マダラが選んでくれたという事実が眺める度に思い出されて、なまえは心がぽっと温かくなるのだ。

 荷物を片付けた後、座敷の机に紙と筆を用意したなまえは、ひとまず雛形にあった通り日付や名前を記していく。任務名は「金が掘れるという洞窟の調査」。そこまで書くと、雫の落ちたような音が耳に届いて庭先を覗いた。

「雨……」

 夏の前には梅雨が来る。春の季節はもう終わってしまったのだと残念な気持ちになりながらなまえは洗濯物を取り込んだ。次第に本降りになってきて、そういえば、と思い立ち玄関に回る。傘立てにはきっちり二本の傘が収まっており、時刻を確認すると丁度よさそうな頃だったのでなまえは二本とも掴んで再び外へ出た。無論、マダラを迎えに行くためだ。
 彼の事だから濡れたところで気にはしないのだろうが、なまえはそうしたい気分だった。しかし、道中で雨宿りをしている幼い兄弟を見かけて傘を譲ってしまったため手元に残ったのは一本だけである。出入り口のそばで雨の落ちる様子をぼんやり観察していると、近くで止められた足音に顔を上げた。

「あっ、マダラさん」
「どうした、こんな所で」
「その……傘を持ってきました」

 そう言って、なまえは開いたままの傘を渡そうとする。そして当然向けられる「お前の傘は」という視線にもすぐに訳を明かした。するとマダラはなまえの手から傘を受け取り、自分は濡れようとしているなまえの腰を引き寄せて中に入れてやった。こういう時は少々強引にしたほうがなまえは大人しく従うのだ。
 窮屈な空間に雨粒を弾く音だけが響く。こんな展開になるとは予想だにしておらず、なまえは顔を俯けていたが、寄り添って歩いているのが少し嬉しくて自然と口元が緩んだ。途中で傘を売っている店が見えたが、このままでいたかったので見なかった事にする。そんななまえの様子にも当然気付いていたマダラは、彼女がそうしたいならと同じく口を噤んでいた。
 家に着くと、なまえは先に入るよう言われて玄関の戸を開けた。タオルを取ってきて足を軽く拭い、外で傘の水を落としているマダラの分も靴棚の上に置いておく。部屋着に着替えて、報告書の続きを書くため再び座敷に入った。後は任務の内容を書き込むだけなので、早々に仕上げてしまおうと筆を走らせていると、廊下から顔を覗かせたマダラに何事かと尋ねられ、簡単に事情を説明した。

「こういうのって……意外と手間ですね」
「難しい事ではないだろう」

 憂いを帯びたような表情でなまえは零した。そもそも毛筆というのがあまり好きではないのだ。だが、これも仕事のうちなのだからと気を取り直して作業を再開する。
 一方、マダラの関心は珍しく不満を口にしたなまえのほうにあり、仕事熱心な彼女でもストレスに感じる事があるんだなと、襖の縁にもたれかかりながらその姿をしげしげと眺める。不意になまえが髪を耳にかけて、湿気でややしっとりとしたそれは濡れ烏のように艶めいていた。姿勢や所作が美しいのは厳しく躾けられたせいだろうかと尚も見つめていると、手を止めたなまえが些か困ったように見上げてくる。しかし何かを言う訳でもなく、すぐに書き物へ顔を戻した。
 なまえはマダラの視線によく気付き、そこに含まれたものを聡く感じ取っているようだった。そして、それに対していちいち多様な反応を示すのも面白く、マダラはそれを見るのが好きだった。今の彼女の心情は、見られていてやりづらいが、「見るな」とは言えずに諦めてしまったというところだろう。

「あっ、洗濯物……」

 思い出したように手を止めたなまえを制し、自身のせいで難航しているらしい彼女のためにもマダラは放り捨てられている服を片付けに向かうのであった。

 翌日、報告書を提出したなまえが「子供の日記のほうがまだまともに読めるぞ」と呆れられたのは、言うまでもなく、熱心な視線に晒されてそわそわしながら書き上げたせいである。