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 なまえは里の古書店を訪れていた。任務が早く終わり、特に予定のない時間をどう過ごすか考えていると、久しぶりに読書に耽るのもいいかもしれないと思い付いたからだ。
 前回から少し間が空いてしまったが、店主はしっかりなまえを覚えていたらしくほんの僅かだけ目尻に皺を寄せて歓迎した。相変わらずの寡黙な態度になまえも安心感を覚えながら、こんにちはとだけ挨拶を返す。店主は満足げに頷いて、すぐに手元の本へと目を落とした。必要以上に接客をしないところが何とも彼らしいとなまえはよく知りもしないのにそう思えてしまった。
 ぎっしりと本の詰められた棚の前に立つと、なまえは薦められた本があったのを思い出してまずはそれを探した。名前は確か「注文の多い忍具店」。端のほうから辿っていくと案外すぐに見つかった。少し窮屈な隙間から本を抜き取り、表紙を確認して手に抱えた。
 あともう一冊選ぼうかと目に付くものがないか視線を巡らせる。しかしなかなかピンとくるものが見当たらず、不躾に本棚の間を徘徊していると店主から声をかけられてなまえは心臓をどきつかせながら振り返った。

「怪談集とか、どう?」
「怪談集……?」
「背筋がすうっと涼しくなるような話さ」

 咎めるのかと思いきや、店主は本を一冊なまえに差し出した。気まぐれに現れるなまえの事を店主は少なからず気に入っており、何やら迷っているらしい彼女の様子についカウンターから出てきてしまったのだ。
 おどろおどろしい表紙の本を受け取ったなまえは、物珍しいようにそれを見つめ、意味もなくページをパラパラと流してみる。これまでそういった類のものに触れる機会がなかったので、怪談がどういうものなのか詳しく知らなかったのだ。
 少々暑がりな傾向にあるなまえには、「涼しくなる」という店主の言葉だけでそれが随分と価値のある物のように感じられて、薦められるがまま購入を決意した。夏の風物詩とも言われるその涼しさを、存分に味わう羽目になるとは知りもせずに。

「じゃあ、勘定お願いします」

 包みは不要だと先に断り、なまえは告げられた金額をぴったりに支払った。店主は「またよろしく」と花柄のしおりを渡して店を出るなまえを見送った。


 片付けを済ませて部屋着に着替えた後、最早書庫となりつつある書斎でなまえは本を並べていた。使っていいと言われた棚もまだ一段すら埋められていない。他の棚にはマダラの所有する本が何冊も詰められているが、なまえがそれに触れることはなかった。集落から移る際に持ち込んだものなのだろうか。どれも分厚くて、きっと難しい内容が記されているに違いない。
 そして、今し方買ってきた本のどちらを読むかなまえは悩んだが、やはり怪談のほうが気になっており、手に取るとついその場で表紙を開いてしまった。
 怪談といえども導入部は普通の感じである。これからどう涼しくなるのだろうかとなまえは好奇心を抑えきれずにそのまま読み進めた。やがて物語は核心へと迫り、振り向いたらそこに――という手前でなまえはごくりと喉を鳴らす。すっかり夢中になって、本の世界へ入り込んでいるのだ。ページを捲り、主人公に怪奇が襲い掛かったその瞬間。ガタっと書斎の襖が音を立て、なまえは恐らくこれまでの人生で最も間抜けな声を漏らして畳の上に転がった。

「……なまえ」

 先日からマダラが早めに帰っていることを失念しており、また、帰宅したのにも気付かないほどなまえは没頭してしまっていたのだ。そして普段使わない書斎が中途半端に開けられていて、そこにいるのかとマダラが覗いたところ、この有り様である。こんな反応をされるとは予想だにしておらず、なまえの突飛さにも慣れてきたように思えたマダラでも流石にこれには戸惑いを隠しきれなかった。

「驚いただけです……大丈夫……」

 半ば自分に言い聞かせるようにしてなまえは言った。悲しいことに、偶然のマダラの登場によって怪談とは酷く恐ろしいものだと認識させられたのである。涼しくなるどころか今は興奮して変な汗まで滲むほどに体が熱い。なまえはしばらくこれを読むのはよそうと思いながらそそくさと本を片付けると、訝しむマダラの背中を押して書斎を後にした。



 一度意識すると似たような出来事が立て続けに降りかかるのはどういう因果によるものなのだろう。任務で調査に訪れた物々しい屋敷の中でなまえはそう小さく息を吐いた。
 この屋敷は入ったら出られないという噂が近辺に広まっており、実際戻らなくなった者が数名いるらしく、放置しておく訳にもいかないため実態を暴いてこいと遣わされたのである。
 確かに、壁からクナイが飛んできたり吊り天井が落ちてきたりと侵入者を排除するような仕掛けは多く見られた。しかし突然扉が閉まり箪笥が倒れてきたりするのは今のなまえには非常に不気味なように感じられて、不必要に写輪眼を使い探索を進めていった。そして、ついに最上階で屋敷の主が潜んでいるのを発見する。
 屋敷の主は人嫌いの男だった。無断で入られるのに腹が立ち、侵入される度に出向くのは面倒なので術と絡繰りを組み合わせた仕掛けを施しているのだと語った。こんな目立つ所に住んでいるから人が来るのではないかとなまえが指摘すれば、男は屋敷を捨てることはできないと首を振る。それどころか、丁度いいので入らないように周知してくれないかと頼まれてしまい、なまえは泥棒するような者は耳を貸さないだろうと思ったが、口には出さずそのように取り計らうとだけ返して帰還した。


 その日の夜。体を洗い流し、湯船に首元まで浸かったなまえはどっと疲れたような気分に陥った。髪を洗っている最中、何かに見られているような感じがするのもあの怪談を読んだ影響だろう。磨りガラスの窓がきちんと閉じられているのを確認し、自分の妄想にびくつくのも妙な話だと自嘲を始めた時、ふっと辺りが暗闇に包まれた。

「…………」

 なまえは、冷静に考えてみて、これは停電だと判断した。怪奇などでは決してない。このままではのぼせるからと誰に向けてでもなく前置きをして風呂を上がり、体の水滴をさっとタオルで拭う。
 明かりなどなくても忍であるなまえには大した弊害にはならないのだ。それなのに、焦燥に駆られてしまうのは少なからず不安を感じているからだろう。なまえは自分の事ながらそう察しをつけ、真っ暗な脱衣所で服を身に着けていると入口の戸が僅かに開けられた。

「なまえ」
「あ……大丈夫です。もう出ます……」

 マダラはなまえが戻ってくるのを待っていたが、どうにも気になって様子を見に来たのだ。なまえは些かほっとしながらタオルを握り、脱衣所を出てマダラと共に居間へ入った。

「外も真っ暗ですね」
「そのうち戻るだろう」

 窓から一帯を見渡した後、なまえはマダラのそばに腰を下ろした。髪を拭い始めると静寂に衣擦れの音だけが聞こえてくる。
 妙に距離を詰めてくるなまえの様子はこの状況を怖がっているかのように感じさせたが、果たして彼女はそんな玉だっただろうかとマダラは内心で首を捻った。しかし先日、書斎を開けた際に飛び上がるように驚いていたのを思い出し、そういう事もあるのかもしれないと隣の顔を眺める。そしてマダラはそちらへと向き直り、なまえの手からタオルを取ってその髪を拭い始めた。
 なまえは突然の事に戸惑ったが、やがて向かい合うようにしてそれを受け入れる。小恥ずかしいのも暗がりでは少し誤魔化されるらしい。マダラの手つきは優しく、なまえの不安ごと拭い去ってくれるようだった。
 しばらくそうしていると、やがてチカチカと光を戻した電球を二人で見上げた。顔を戻すと思いの外マダラの存在が近くにあって、なまえはぱっと視線を下のほうに伏せる。するとマダラはタオルをなまえの肩に掛け、自身も風呂に入るためのっそりと立ち上がった。

「…………」
「お前も来るか?」

 もう行くのかというような目で見上げたなまえにそう問えば、ぎょっとした様子でぶんぶんと首を振った。今更恥じらうことなどないと言うのに、とマダラは些かおかしく思いながらも、寂しいらしいなまえのためにいつもより手短に風呂を済ませることにした。

 月明かりの差す寝室は照明を灯さなくても十分に明るかった。障子を閉じると当然光が遮られて暗くなったが、どうせもう眠るから構わない。戸締りをして戻ったマダラに、なまえは膝を付いた体勢でこんなことを申し出る。

「あの、マダラさん……」
「何だ?」
「……布団を寄せてもいいですか?」

 遠慮がちになまえは言った。マダラが構わないと答えると、なまえはすぐさま敷いてある布団をずらしてぴったりとくっ付けた。遠回しではあるが、何やら今日は甘えたいらしいなと察しながらマダラは自身の布団に入り込んだ。
 なまえは間の切れ目が境界であるかのように、そのギリギリまで体を近付けて横になった。そして肌掛けを頭まで被り、マダラの布団に手を滑り込ませてひんやりとした感触を探す。
 ごそごそと蠢く様子に、その意図を感じ取ったマダラは自ら手を伸ばしてなまえの手を握ってやった。一瞬、その手が強張った感覚がしたが、すぐにもう一つ重ねられてマダラの手は挟まれた。なまえは、布団の中で手を繋ぎたいらしかった。
 嬉しいのかなまえは肌掛けの中で忍び笑いを零した。そしてマダラの手をぎゅっと握ったり、指の付け根を撫でたりする。そうするだけでなまえは近頃の恐怖体験で憔悴した心が癒えるようだった。
 マダラは、どうしてこう胸をくすぐるようなことを思い付くのかと不思議でならず、どうしようもなく愛おしく感じた。いっそ布団に招き入れようかとも思ったが、珍しいなまえの甘える様を味わいたくて好きなようにさせていた。包まれた手がじわりと温かくなっていくのを感じながら、いつかは布団に入れてくれと言うようになるのだろうかと期待を抱かずにはいられなかった。