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 床に就くまでの間、なまえは居間で読書に耽っていた。夢中になっているのか、団扇を動かす手が時々ピタッと止まるのをぼんやりとマダラが眺めている。
 なまえもそう喋るほうではないので、二人でいてもこうして静かな時間を過ごすことが多かった。だが、その沈黙は決して苦痛を感じさせるものではなく、穏やかで心地いい空間を作り出していた。
 なまえはふと顔を上げ、ぼうっと視線を送ってくるマダラを見つめ返した。二、三度瞬きをした後、本と団扇を置いてのそりと立ち上がり、マダラのそばに寄って再び腰を下ろす。そして、一連の動作を追ってくる優しげな瞳を見上げ、更にその奥を覗き込むような深い眼差しを向けた。
 初めて見つめた時と変わらない瞳がそこにある。何故これほどまでに自分を大切にしてくれるのか聞き出す勇気はなまえにはなく、また、それを暴こうとするなど無粋であるように思えた。
 きっと、死を迎えるその時までマダラは変わらずにこの瞳を向けて愛してくれるのだろう。根拠などないが、なまえはそんな気がしてならなかった。
 なまえはマダラの前髪に手を伸ばし、梳くようにして横によけた。すると覆われていた右目が露になり、両方の目からぱっちりと捉えられる。なまえは何だかときめいてしまって、空いたほうの手を思わず握り締めた。こんなに素敵なのに、隠しているなんて勿体ないと思ってしまった。
 しかし、意図して隠そうとしている訳ではないことは無造作に伸ばされた髪を見れば明らかである。髪形がどうだとか気にもしていないのだろう。なまえは膝立ちの体勢になり、ツンツンと跳ねる頭に指を触れた。
 まだ完全には乾いておらず、少ししっとりとしている。高いところをそっと撫でつけてみたが、手を離すとぴょんと跳ねた。何度か梳いても、跳ねた。なまえはふふと笑いを零し、髪ごと包み込むようにしてマダラの頭を抱き締めた。愛しさが途端に溢れてきたのだ。

「あっ、えっ? マダラさん?」

 それまで好きにさせていたマダラだったが、突然、なまえを抱えて立ち上がった。
 なまえに触れられるのはマダラとしても嬉しくはある。その指先から、なまえの思いも十分に感じられる。なまえがもっとそれを表現してくれるように、一つ一つ丁寧に受け止めてじっくりと育んでやらなければならない。
 そう考えてはいたものの、なまえの仕草がいちいちかわいらしくて我慢ができなくなったのだ。

「本、片付けないと……」
「明日でいい」

 この後の展開を察してささやかな抵抗を示したなまえだったが、マダラはさらりと流して寝室へと移っていった。
 マダラにとって、今や唯一の心の拠り所となったなまえ。そんななまえを傷付けようとする者など、たとえ里の人間であっても許しはしない。なまえが直感し、扉間が推測した通り、例の二人の男を手に掛けたのはマダラだった。


 あの件以降、なまえは時々マダラを買い物へ誘うようになった。それは、またあんな目に遭わないためにというのももちろんあるが、家にばかりいるようなので気分転換になればという思いもあった。
 マダラもなまえが心配なので声をかけられると断らずに付き添った。なまえと歩く里は、また一段と違う景色が見えて悪いものではなかった。

「通りで待ってる人、旦那さんかい?」

 勘定の際、なまえは店番をしていた女性に尋ねられた。

「はい、そうですが……」
「ずっとあんたのこと見つめてるよ。よっぽど大好きなんだろうねえ」

 そんなふうに言われて、なまえは恐る恐る後ろを振り向いた。すると、腕を組み、確かにこちらを見ているマダラと目が合って、ぱっと顔の向きを戻した。

「ぼ……ぼんやりしているだけかと……」
「ふうん。そういうことにしておくから、さっさと戻ってやりなよ」

 なまえは顔に熱が集まるのを感じながら、ニヤニヤしている女から釣り銭を受け取って店を後にした。他人の口から聞かされると妙に照れ臭かった。

 帰路の途中、散歩している太郎を見かけて、なまえは飼い主の老夫婦に会釈をした。太郎は尾を振っていたが、荷物を持ってくれているマダラを待たせてはいけないと思い、撫でたい衝動をぐっと抑え込んだ。
 角を曲がると、少し先の道端で子供達が遊んでおり、なまえは無意識に足を止めた。マダラもそれに気付いて、一歩進んだところで止まる。
 カガミのように一人で現れるならともかく、数人で楽しそうにしている光景は未だに直視し難い。視線を落としたなまえに、道を変えるべきかとマダラが思案した時、不意に手を握られる感触があった。

「……なまえ」

 顔を上げたなまえは儚げに微笑み、そのまま歩き出した。それにつられてマダラも歩みを再開する。
 なまえは、マダラがいれば大丈夫だと思った。一緒に歩いて、一緒に立ち止まってくれる。この手が一歩を踏み出す勇気をくれる。この先もマダラがいてくれるなら、いつかきっと乗り越えられるだろう。
 ぎゅっと握り締めたまま、子供達の横を通り過ぎる。そして、今日みたいな穏やかな日々がずっと続けばいいと、心の内でそう願った。



 任務の報告を終えるなり、柱間の元へ行くように言われたなまえはその足で執務室へと向かっていた。
 扉間も、例の事件についてああは言ったものの、あれ以来なまえに何かを尋ねることはしなかった。調査を進めているのか、もし本当にマダラがやっていたとしたらどのように取り扱われるのかなどもなまえには一切伝えられない。扉間がどういう思惑でいるのかは知らないが、自分はこれ以上関与しないほうが望ましいのだろうと思った。
 執務室の戸を叩き、入室を促されてなまえは中へ入った。そして、想像していたよりもごちゃついている部屋の有り様にうっすらと冷や汗を浮かべる。

「すまん、少し散らかっているが……。何か用事か?」
「その、扉間さんが片付けを手伝ってやってほしいと」
「……そうか。お前を寄越されたら、やるしかないな……」

 扉間め、と盛大な溜め息をついた柱間。あまり気乗りがしないらしい。
 床には書物や巻物、丸められた半紙が転がっており、机にも物が散乱していて仕事もままならないのではという状態だ。窓は開いているが何だか埃っぽくて空気が淀んでいる。よくこの中で平然と過ごせるものだなとなまえは違う意味で感心してしまった。

「仕事が忙しいんですか?」
「まあ、それもあるが……いつもはあいつがいたからな」

 それが誰を指すかなど聞かなくてもわかる。散らかす柱間へ冷ややかな目を向けるマダラの姿が容易に想像できてしまい、なまえは内心で苦笑を零した。そうやってマダラが牽制していたお陰で綺麗な部屋が保たれていたのだろう。
 なまえは、大きく伸びをして「よし、やるか」と気合いを入れた柱間と共に片付けを始めた。

 床を掃除しながら、整理整頓するのが余程得意ではないのだろうなとなまえは思った。寝坊した彼を起こしに家を訪ねた時も、随分と部屋の中が荒れていた。でも、それも不思議と柱間らしいなと感じてしまう。おおらかで、細かいことをあまり気にしないようなところが。

「なまえ、あいつは……元気にしているか?」

 本を棚に収めながら柱間が尋ねた。その一言でなまえはマダラが家にいることの多くなった理由をそれとなく察してしまう。

「はい。最近は買い物に付き添ってくれています」
「それはいいな」

 柱間は、心の底から微笑ましく感じた。二人が睦まじくやっているなら何よりだった。
 少々強引に引き合わせたものの、思った以上に相性が良かったようで、すっかり馴染んでしまったなまえとマダラ。着々と深められた愛情が心を結び、しっかりと繋ぎ止めている。
 もう、マダラのことはなまえに任せて大丈夫だろう。自分の前には姿を見せなくなったし、なまえのほうがそばにいることを望まれている。それに柱間自身も、今までのようにはマダラを気に掛けてやれなくなるかもしれないのだ。
 柱間はなまえに向き直り、胸の奥が痛むのを感じながら口を開く。

「なまえ……これからもマダラを支えてやってくれ。あいつには、お前が必要だ」

 なまえは、手を止めて柱間を見上げた。いつもの優しい微笑みを浮かべているように思えたが、一瞬、僅かにその瞳が切なげに揺れて、並みならぬ思いが秘められているのを感じ取った。
 見えないところで一体何が起きていると言うのだろう。これほど近くにいるのに、それがわからずにいる自分がなまえは歯痒かった。
 でも、それが何だろうと柱間の言葉に対する答えは変わらない。なまえはすっと立ち上がり、初めて柱間からマダラのことを頼まれた時のように、「はい」と返事をした。
 平穏な日々が続く世界などありはしないのだと、心のどこかでそう気付きながら。