明け方、なまえはぱちりと瞼を開き、部屋の天井を見つめた。まだ起きる時間ではなかったが、かつてないほどのすっきりとした目の覚め具合である。
ゆっくりと息を吸えば肺に取り込まれる清らかに澄んだ空気。布団を這い出て静かに障子を開けると黎明の薄明るい空が見え、自然が深呼吸したかのようなそよ風が前髪を揺らした。夏の終わりを肌に感じ、なまえの胸は僅かに疼く。これから少しずつ涼しくなっていくのだ。
しばし空を眺めた後、なまえは障子を閉めてそそくさと身支度を整え始めた。任務に行くまでの時間、里の外まで散歩に行こうと思い立った。これほど爽やかな朝に森を歩けば、きっと心が洗われるような清々しい気分になるだろう。
布団を畳みに寝室へ戻った時、ごそごそと寝返りを打つマダラを見て足を止めたなまえ。考えるのは、少し出てくることを伝えるべきか、ではなく、一緒にどうかと誘ってみようかな、ということ。
しかしそう悩んでいる間にも時間は過ぎており、注がれる視線を当然感じ取るマダラは目を閉じたまま何か用かと尋ねた。こうなってしまえば後には引けず、なまえはその隣に正座をして遠慮がちに口を開く。
「あの……散歩に行きませんか? 一緒に……」
近頃、なまえは買い物以外にも何かとマダラを誘うようになっていた。以前なら外に出る用事など一人で行っていたものだが、ここ最近の出来事を受けて考え方を改めさせられたのである。
愛する人のそばで過ごす平穏な日々がどれほど貴重で大切なものなのか。それに気付いた時、なまえは迷惑だろうからと思い込み二人で過ごせたはずの時間を捨てていた自分が恨めしくて仕方がなかった。それからは「二人でする」ということを意識して、積極的にとまではいかないが、このように一度は声をかけてみるようになったのだ。
そして、普段一人で行動しがちなマダラでも、なまえの誘いは快く受け入れていた。なまえが望むならそうしてやりたいと思っているし、近くにいたほうが何か起きた時も守ってやれるので安心だった。
覚醒しきっていない頭のまま起き上がり、寝室を出たマダラ。一緒に来てくれるのだとわかったなまえはじわりと嬉しさが胸に滲む。きっと楽しいひと時になるだろう。二人分の布団を片付けた後、支度を終えたマダラと共に里の外へひっそりと抜け出した。
秋の色に染まり始めた森の中を気の向くままになまえは歩いていた。時折、少し後ろから付いてくるマダラを振り返ってニコニコと笑顔を浮かべる。嬉しそうななまえの様子にはマダラも穏やかな気持ちにさせられたが、その一方で、家を出た時からずっと後を付けられているのを感じていた。
誰が差し向けたかなど考えずともわかることで、それがなまえではなく自分を見張るためのものだということもマダラは理解できていた。監視など好きにしてくれて構わないが、いちいち気配を感知してしまって鬱陶しいので他の適任者に当たってもらいたいところではある。
そんなふうに思いながらマダラが小さく欠伸を零すと、先を歩いていたなまえが隣に並んで顔を見上げてきた。
「眠たいですか?」
なまえは感知が得意ではない上に、里の外とはいえ任務中ほど気を張ってはいないため全く気が付いていなかった。マダラは少し心配になり、やはり自分が守ってやらねばならないのだと再認識させられる。
そして、そんな呑気な質問をするなまえにふっと口元を綻ばせてこう返した。
「起きるには少し早かったな」
「ご……ごめんなさい。でも、一緒に散歩できて嬉しいです」
そう言って、なまえはマダラの手を握った。恥ずかしそうに顔を俯けながらも、繋いだ手はしっかりと離さない。あまりのいじらしさに口付けの一つでもしてやりたくなったが、ここは外なのでぐっと堪える。最近のなまえは愛らしさを増してきているようにマダラの目には映っていた。それはなまえの努力の成果でもあった。
小径を進んだ先でなまえはピタリと立ち止まった。視線の先には石段と小さな鳥居があり、神社へ通じる入口であることが一目にわかる。
でも、こんな所にあるなんて、散々外を飛び回っているなまえでも知らなかった。
「行ってみるか?」
ぽかんとして眺めているなまえにマダラが言った。二人で見つけたのだから、きっと素敵な場所に違いない。そう思い込んだなまえは目を輝かせながら小さく頷いた。
参道に入ると、その先の景色は一変するようだった。一段一段はそう高くない階段が、土の道を挟みながら視界の奥まで長く続いている。その両脇には苔の生えた灯籠が幾基も立ち並んでおり、森の深さも相まって幻想的な世界が作り出されていた。
壮観さに圧倒されて言葉なく進むなまえにマダラは付き添った。空気はしっとりと冷えていて少々肌寒い。ひたすらに石段を登っていくと再び鳥居に迎えられ、やがて小さな神殿へと辿り着いた。
境内に足を踏み入れると、ふわりと風が舞い込んで梛の木を小さく揺らした。しんとした空間に囁くような葉音が立ち、まるで歓迎を受けているようだとなまえは思った。
「お参りって、これを鳴らせばいいんですか?」
真っ先に鈴が目に付く姿はさながら子供のようである。なまえが物を知らないのは今に始まったことではないのでマダラももう驚きはしなかった。
簡単に、拝んで願い事をするとだけ教えると、なまえは「願い事?」と首を傾げていた。正しい参拝の作法など知りはしなかったが、人が見ている訳でもないので気にすることはない。いや、鼠が一匹覗いているが、あんなのはどうだっていいだろう。
マダラは麻縄を掴んで鈴を揺らした。ガラガラと鳴り響く音になまえは思わず身を縮める。そして、両手を合わせて目を閉じたが、願い事など急に言われても思い付かなかった。困ったように隣を盗み見ると、意外にもマダラは真面目に拝んでいるようで、慌てて背筋を正したなまえは咄嗟に頭に浮かんだことを口にする。
「えっと……うちはの皆が、怪我のないように……」
ぼそぼそと呟き、お願いしますとなまえは強く念じた。ありきたりだがなまえらしい願いだなとマダラは思った。そういう彼が祈った事も似たようなものではあるのだが。
「……流石に里の皆っていうのは欲張りですよね」
両手を下ろしたなまえがマダラを振り向いて言った。もっと具体的なもののほうが良かっただろうかと考えて、ふと顔を上げる。その表情から言わんとしていることを察したマダラは上空へと目を逸らした。
「口にしないほうがいいらしい」
「えっ?」
「言い忘れていた」
「私、普通に……どうしよう」
なまえは狼狽えた様子で口元を覆った。神社の中をおずおずと見上げ、今のは聞かなかったことに、と頭の中でお願いする。恐らく意味を為さないであろうことはうっすらと感じていながらも。
しかし、なまえの真摯な思いは天に届いているだろう。一族の安寧を祈る姿に弟の影が重なり、マダラは少し切ない気持ちになった。
朝日が差し始め、そろそろ戻ろうかとなまえがマダラの手を引いた時、神社の裏のほうで落ち葉を踏む音がした。小動物が通ったような軽い音ではないそれに二人は顔を見合わせる。神殿の横に回って確認してみると、男が斜面に倒れ込もうとしているところだった。
警戒はしたものの、転がり落ちる背中に同族の証が見えてなまえは駆け出した。マダラも周囲に目を走らせながら歩み寄る。
「大丈夫ですか?」
なまえが体を反転させてやると、男は呻きを漏らして側頭部を押さえた。目尻の辺りから傷が一本走っており、今尚溢れる血が直近に負ったものであることを示している。
「……眼を、奪おうと……」
マダラに視線を向けて男が言った。それが写輪眼を指しているのは容易にわかることで、マダラは僅かに眉間を歪める。ついにはそんな目的でうちはを狙う輩が現れたのか、と。
「一人か?」
「仲間はやられた……追手が二人いたはずだが……」
男は苦しそうにむせ込んだ。他にも怪我があるのだろう。なまえは服を破り、目元の傷を応急的に止血する。先程のことがあるので自分のせいであるように感じてしまっていた。
「なまえ、抱えられそうか」
マダラは森の奥を見つめた後、平時と変わらぬ声音でなまえに尋ねた。背負えたら大丈夫だとなまえが答えると、マダラは男の体を起こしてその背中にもたれさせた。少々重たそうだがなまえはしっかりと立ち上がってみせた。
そして、上方から黒い影が飛び出してくる。なまえは駆け出し、石段を戻らずに里の方角へ一直線に向かった。少々道が悪いが背負ったまま木に上がるのは厳しいので致し方ない。躓かないよう注意しながらなまえは草木の間を抜けていった。
林道へと出た直後、頭上のほうに火遁が飛んできた。炎を纏って崩れ落ちる木々になまえは冷や汗を滲ませる。間違いなくマダラが吹いたものだろう。自分に向けられたものではないとわかっていても、その圧倒的な破壊力は恐ろしく感じた。
行く手を阻むように現れた追手が、せめて道連れにと言わんばかりに襲いかかってくる。なまえは膝を曲げて跳び退こうとしたが、マダラが敵を捕らえるほうが速かった。
地面に倒し、その男が落としたクナイを拾って容赦なく喉元へ突き立てる。男は血を噴き零して数秒もしないうちに息絶えた。写輪眼を奪うのが目的と知って、マダラが手ぬるい仕打ちをするはずもなかった。
追手はもういない。なまえが背負っていた男を今度はマダラが担ぎ、荒れてしまった林道には目もくれずに里へ戻った。
病院に運ばれた男はすぐさま治療を受け、数日の入院を言い渡された。最も重症なのは目元の傷だったが、眼球には影響がないので心配はいらないとのことだった。
話を聞くと、彼は三人での任務の帰還中に突然襲われたらしい。木ノ葉に所属していない忍か他国の忍なのかはわからないが、任務はただの害獣駆除で、領土も侵しておらず、いずれからも襲われる心当たりはないそうだ。
「あれは恐らく土の国の忍です。任務で向こうへ行った時、同じような服装を何度か見かけました」
なまえが言うなら確かだろうとマダラは思った。それに、この男達が任務で訪れたという村の位置も土の国からは近い。あちらの内情など興味もないが、よくもまあこのような愚行を企てたものだと内心で嘲笑を零した。
そして、今頃あの男もこの件を知らされているに違いない。しかしどんな対応を取ろうと知ったことではなく、自分は自分のやり方でうちはを守るだけである。ベッドに座る男と話すなまえを一瞥し、マダラは静かに目を伏せた。
礼を言う男に見送られ、二人は病室を後にする。時間的には大遅刻だが、事情を話せばわかってもらえるだろうと信じてなまえは開き直っていた。
「……やっぱり、安易に口にしないほうが良かったのでしょうか」
遡って考えると参拝するより前から男が襲われていたことはわかるのに、状況やタイミングからなまえはそう思わざるを得なかった。あれからずっと自責の念に苛まれているのだ。
マダラは呆れたような気分になりながらも、自分が少しいじめたせいでもあったので、慰めの気持ちも込めて真っ当な意見を返す。
「オレ達があの場にいなければあの男を助けることはできなかった。……むしろ幸運だったと考えるべきだろう」
第一、なまえが散歩に行こうと言い出さなければ何もかも見つけられなかったのだ。マダラには、なまえが彼の元まで導いてくれたようにしか思えなかった。
なまえは納得がいかないような顔をしていたが、やがて「幸運……」とマダラの言葉を反芻するように小さく呟いた。確かに、そう考えたほうがいいのかもしれない。でも、それよりも、マダラがそんなふうに言ってくれたことが嬉しかった。
単純なようだが、その一言でなまえは前向きな気持ちになり、すっかり笑顔を取り戻していた。