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 任務の報告に向かう途中、乱れた髪を手櫛で整えているとイチョウの葉が出てきてなまえは小さく後ろを振り返った。幸い自分以外に人の姿はなく、誰からも見られていなかったことにほっとして胸を撫で下ろす。たとえ関わりのない人間に目撃されたとしても、子供みたいだと思われるのは少し恥ずかしいのである。
 開けっ放しにされていた窓からそっと葉を落とし、ヒラヒラと流れていく様を見届けていると、不意に助けを求める声が廊下に響いた。他に人がいないのは今し方確認したところなので、なまえは何事だろうかと首を傾げながら声のした場所へと向かう。すると、奥の部屋からひょっこりと顔を出した男が、なまえを見つけるなり手招きしてそばに呼び寄せた。

「どうしました?」
「荷物を運びたいんだが、少々重たくて」

 困り顔をして言う男に、なまえは快く手伝いを引き受けた。部屋に入ると机の上に段ボールが一つ置かれており、まさしくそれを運び出そうとしていたらしい。中身は書物だと言うそれを抱えようとしたなまえだったが、少し傾けただけでこれは無理だと悟った。
 男性である彼が持ち上げられなかったものに、ただでさえ力の弱いなまえが敵うはずもなかったのだ。男となまえは顔を見合わせた後、静かに荷物を分け始め、半分ずつ持って部屋を出た。
 他の階に移すのなら往復すればいいと考えそうなものだが、どうやら行き先は研究棟らしく、いっぺんに運び出そうとしていたのも納得がいったなまえ。彼の小綺麗な身なりからして自分と同じような下っ端の忍ではないことは明らかに見て取れる。恐らく研究員か何かだろう。あまり人のことは言えないが、段ボール一つ抱えられないのも頷けるようだった。
 歩きながら、そんな失礼な分析をしているなまえの横顔を男はじっと見つめた。視線に気付いたなまえが顔を向けると、男は取り繕ったように微笑みを浮かべる。

「もしかすると、君がうちはなまえかな?」
「はい、そうですけど……」
「ああ、やっぱり。そんな気がしたんだ」

 男は嬉しそうに言った。なまえは訳がわからず、ただ男を見つめ返した。すると男は、不思議に思うのも当然だという様子でその理由を語り始める。
 それは非常に単純で、つい最近、人づてになまえの話を聞いて気になっていただけらしい。扉間の下で仕事に励んでいることや、マダラに嫁いだことなども聞いたと男は話した。よからぬ噂で名前を知られたのではないことがわかり、なまえは内心で安堵を零す。

「マダラ君は元気か?」

 マダラ君。初めて聞いた呼び方になまえは目をぱちくりとさせた。親しい間柄なのだろうか。しばらく勤めていたのだから、柱間以外の知り合いがいてもおかしくはないだろう。なまえはそう思い、特に変わりなく過ごしていることを伝えた。男は「そうか」と薄く微笑み、それ以上はマダラのことに触れてこなかった。
 言葉の割には関心がどこか別のところにあるような感じがして、なまえの胸には違和感が残る。一体何を考えているのだろう。前を向いた男の顔をちらりと一瞥し、自分も視線を戻して研究棟を目指した。

 建物に入り、男に続いて階段を上りきると、丁度そこで扉間と鉢合わせになった。二人の手元を見て事情を察したようだが、一瞬、怪訝そうに目つきが細められたのをなまえは見逃さなかった。

「勝手に借りてすまない、扉間君。偶然近くにいたのが彼女だった」
「構わん。なまえ、後でオレの部屋に来い。報告はそこで聞く」
「わかりました」

 なまえは任務の報告に向かう途中だったのだ。後回しになったことを申し訳なく思いながら頷くと、扉間は横を通り抜けて階段を下りていった。何やら忙しそうだが、それはいつものことだ。男に名を呼ばれ、なまえは小走りに荷物を運んだ。
 その後急いで部屋を訪ね、報告を終えたなまえに扉間は数枚の紙を突きつけた。今日の本題はそちらのほうだったので、なまえが研究棟にいたのは都合が良かったのだ。
 なまえは勢いに押されて一歩後ずさりしながらそれを受け取った。

「お前に結界術の実験を手伝ってもらう。まずはそれに目を通せ」
「結界術ですか?」

 聞き返しながらも、言われた通り手元の紙に目を落としたなまえ。さっと読んでみるとその結界術とやらの説明をしているらしいことはわかったが、文字だけで記されてもあまりイメージが湧いてこない。少しずつなまえの表情が曇り始めるのを見て、扉間は「安心しろ」と言葉をかけた。
 手伝いと言っても、なまえは予め用意された術式にチャクラを流すだけなのだ。ただ、何となくでも仕組みを知っていたほうがいいだろうということで、とりあえず一度読ませているのである。
 術を習得しなくていいとわかった途端、なまえの気持ちは晴れやかになった。扉間は、相変わらず扱いやすいなと思いながら大まかな流れを説明した。

「先程お前と仲良く荷物を運んでいた男がいるだろう」
「はい」
「今回の実験は彼が中心となって行う。あれは結界術に精通している珍しい忍だ。里の上役の一人でもある」
「えっ、上役の方だったんですか?」

 ぎょっとしたなまえに扉間は頷いてみせた。研究員ではないかという推測は見事に外れてしまったらしい。
 早速始めるぞと言って扉間が立ち上がったので、なまえは説明書を手に持ったままその後をついて行った。

 案内された部屋にはなまえの他にも数人の忍が集められていた。聞いていた通り、先程の男が現れて場を仕切り始める。術式の上にそれぞれ配置され、一斉にチャクラを流して展開、その後維持しなければならないそうで、扉間が言ったほど簡単ではないことをなまえは即座に察した。言葉に間違いはなかったが、上手く乗せられてしまった気分になる。
 男の口から注意事項が伝えられた後、まずは術の発動に慣れるための練習から始まった。
 一方、少し離れた位置でその様子を眺める扉間は、なまえ達に指示を出す男を密かに観察していた。彼は偶然なまえと会ったかのように話していたが、あれは間違いなく意図的な接触だろう。今回の件でなまえの名を挙げた時、彼はあまりいい顔をしなかったのだ。それが今日になって彼女の前に姿を現すなど、偶然であるはずがない。
 渋面を作る理由も扉間にはわかっていた。それはなまえが、今や何を考えているかわからぬあの男の妻だからだ。里の守りに関する情報が彼に伝えられてしまうのではないかと危惧しているのである。
 だが、なまえはマダラが相手であっても安易に話すような女ではないことを扉間は知っている。他にはもう適任がいないことを指摘した上で、何かあれば自分が責任を取ると重ねて言えばようやく首を縦に振った。扉間がそこまでしなければなまえを信用してもらえなかったのだ。それもこれもマダラが原因である。
 扉間も、なまえのことは部下として大事に思い、手塩にかけて育ててきた。いずれは自分の右腕として働かせるのも悪くないと考えていたが、残念ながらそれは潰えてしまった。因縁がある自分のそばに置くなど、あの男は許さないだろう。
 なまえとマダラ。里の希望と脅威が一つになったのは何の因果によるものだろうか。初めこそ、マダラの潜める危うさを緩和させられるのではと期待していたが、それどころかなまえのためなら手段を選ばないほどの恐ろしさを覗かせるようになってしまった。
 しかし、なまえがマダラをこの里に繋ぎ止めているのは事実だ。恐らく火影の件で柱間に見切りをつけた彼には、最早なまえしか残っていないだろう。彼女の存在がなければ、今頃は里さえも捨てていたかもしれない。

「うわっ!」

 誰かが声を上げ、バチッとチャクラの弾ける音がした。術の展開に難航しているようである。衝撃でひっくり返ったなまえが体を起こし、心底申し訳ないという顔をして皆に謝罪を繰り返した。

「ごめんなさい……やっぱり、別の人を探したほうが……」

 なまえはコツを掴むまでに少々時間がかかるのだ。足を引っ張っている自覚はしっかりあるらしく、耐えきれないのかそんな提案をし始めた。
 その、うちはらしからぬ態度を目の当たりにした他の忍達は、互いに顔を見合わせた後、次々に口を開いていく。

「始めたばかりだし、すぐには上手くいかないよ」
「今のはオレも失敗してた」
「実は、自分も……」

 そう言ってなまえをフォローした。もう少しやってみようと励まされ、なまえは眉尻を下げながら小さく頷いた。
 うちは一族というだけで敬遠されがちだが、なまえは意外にも素直で、本来人に好かれやすい性格をしているのだろう。その上不出来な様を見せられると、世話を焼きたくなるような思いに駆られてしまう。今ここで接してみて彼らはそれに気が付いたのだ。場の空気も幾分か和らいだものに変わり、皆で声をかけ合いながら練習を再開した。
 こんなふうになまえはこの里で上手くやっていけたはずなのだ。それなのに、マダラのお陰でなまえも上層部から疑われるようになってしまった。今までの貢献など碌に考慮されず、ただマダラの妻というだけで疎まれて、今後、今回のような仕事を頼むのは難しくなってくるだろう。
 不憫な女だ。あんな男と一緒になったばかりに。などと、誰かに聞かれたら刺されてしまいそうなことをぼんやりと扉間は考えていた。



 家に着いた頃には、なまえはへとへとになっていた。後ろ手に玄関の戸を閉め、草履を脱ぐために腰を下ろすと、どっと疲れが押し寄せる。
 今日は結局、術の発動すらできないまま解散となった。これから皆の時間が合う時に少しずつ練習していくらしい。他のメンバーは優しく声をかけてくれたが、最も足を引っ張っているのが自分だということはなまえ自身が一番よくわかっていた。
 やはり別の人を推薦するべきだったのではないだろうか。力不足な自分が情けなくて、少し悔しい。なまえは疲労と自責の念に苛まれ、そこでじっと瞼を閉ざした。

「なまえ」

 いつまで待っても上がってこないのを疑問に思ったマダラが項垂れているなまえを見つけて声をかけた。何やら沈んでいるらしいことは一目にわかったので、その隣に膝を着いて顔を覗き込む。

「何かあったのか?」

 わざわざ目線を合わせて尋ねるマダラをなまえはじっと見つめ返した。何故だろう。いつもと変わらないはずなのに、その顔がキラキラと輝いて見える。
 脱いだ草履を揃えもせず、なまえはふわりとマダラに抱き着いた。無性にそうしたくなったのだ。少し間を置いてそっと腕を回されると、それだけで嬉しくなって頬が緩んだ。次第に心が癒されていく感じがして、モヤモヤしていた頭もすっきりと晴れてくる。何だか元気まで湧いてくるようになって、つい笑い声を漏らすと、流石におかしいと思ったのか体を離された。
 しかし、マダラの目に映るのは溢れるような笑みを浮かべるなまえで、先程の沈んだ空気は何だったのかと思わされるほどだった。

「少し疲れて休憩してたんです。でも、もう……」

 なまえは口元に手を添えてふふと笑った。何がそんなに楽しいのかとマダラは思ったが、その訳のわからなさはいつものなまえであることを示しているようなものなので、心配はいらないらしいと冷静に考えていた。
 すっかり疲れが癒されたなまえは、目の前の愛しい男を優しく見つめた。少しの間体を寄せるだけでこんなに元気を貰えるのだ。めげずにまた明日から頑張ろうと前向きな気持ちにさせられる。どれほど困難なことでも、不思議とやり遂げられそうな気がしてくるのだ。
 術の実験に関しては口止めされているので話せなかったが、そばで支えてくれる人がいることの有り難さを実感したなまえは、その日ずっとにこにことして笑顔を絶やさなかった。