視線


 任務を終えて帰宅したなまえは、洗濯物を畳んでいる最中、懐に仕舞っていた桐の手鏡が裾から転がり落ちてきたことによってその手を止めた。外で落とさなくて良かったなとそれを拾い上げ、傷が入ってないか確かめる。見たところ大丈夫そうだったが、砂埃が鏡面に広がっていたので畳んだばかりの手拭いを一枚手に取り磨き始めた。風の国へ行ったせいだということは考えずともわかる。
 ついでに反対側も拭いておくかと思い裏返しにすると、鮮やかな桃の花の絵が覗いてつい彼女は顔を綻ばせてしまうのだ。鏡面よりもそちらを眺めるほうが多く、身だしなみを整えるためと言うよりはお守りのような感覚で持ち歩いていた。
 なまえは磨き残しがないか確認するため自分の顔を映し出した。右、左と鏡を傾けていると前髪が妙なところで分かれていることに気付く。さっさっと梳かしてみるがなかなか思うようにいかず、いつもどう分けていたっけと軽く混乱し始めた時、マダラが寝室の前を通りかかった。廊下側を向いて座っていたなまえはその存在にもすぐに気が付き、髪をいじっているところを目撃されて少し恥ずかしそうに鏡を持った手を隠そうとする。
 足を止めたマダラはなまえ、畳と順に見て再び彼女へと視線を戻した。するとゆったりとした歩みでそちらに向かい、なまえの前まで来ると僅かに腰を屈めて頭へ手を伸ばす。反射的に目を閉じてしまうなまえだったが、次に訪れたのは髪を撫でられるような感覚で、その優しい手つきに安心してそろりと瞼を上げた。
 目が合うなりマダラはふっと微笑み、畳まれたタオルを拾い上げて踵を返した。思わず見惚れていたなまえはハッとして我に返り慌ててその背中に言葉をかける。

「あ……ありがとう」

 マダラは特に返事をしなかった。なまえは彼が去っていったほうをぼんやりと見つめていたが、自分も片付けて夕飯の支度をしなければと腰を上げた直後、手鏡でもう一度だけ顔を映してみると前髪が見事にいつも通りの位置で分けられており、よく覚えているものだなあと感心せざるを得なかった。



 翌日、なまえはある計画を胸にマダラを商店街へと連れ出していた。彼は当たり前だと思ってやっていることに感謝されるのがあまり好きではないらしいので、それなら代わりに、喜んだり嬉しく感じたりすることをして「お返し」するのはどうかと考えついたのだ。例えば、マダラから貰った手鏡のように、眺めただけで微笑みが零れるような心に残る贈り物をするとか。
 直球に尋ねたところで何もいらないと言われるのはわかりきっているので、色々と見て回り興味のありそうなものを探るのが今回の目的だった。なまえはマダラの趣味や好きなものを知らないのでこのような手段を取るしかなかったのである。しかし今のところ目ぼしいものは見当たらないのか反応を示しておらず、品物よりもなまえに目を向ける回数のほうが多いのではないかと疑うくらいだった。

「向こうのお店も見ていいですか?」
「ああ」

 家を出る前、なまえに声をかけられて食材の買い出しだろうと思い何気なくついてきたマダラだったが、彼女は「先に見たいものがある」と言って雑貨が並ぶ通りへ向かったのだ。余計なものを欲しがらないなまえが珍しいなと思いつつ、マダラもマダラで彼女に買ってやろうかと考えていたのである。互いに相手の欲しがるものを探すという何とも滑稽な事態に陥っていた。
 そんなことだからどれほど店を回っても成果は得られなかった。マダラはなまえの視線に気付いたものの、その意図がいまいち掴めなかったので放っておくことにした。相手が普通の女であれば買ってほしいことを訴えているのだと読み取れるが、なまえはそれらとは大分ずれているし、様子を見てもそうでないことは明らかだったのだ。

「何か探しているのか」
「……探すものを探しているというか……」

 試しに聞いてみるとやはり要領を得ない回答が返される。彼女の目的が何か別にあるらしいことを悟ったマダラは、果たしてこの店巡りにどんな意味があるのかと思案を巡らせようとしたが、なまえが妙な態度を取る時は思いもよらぬことをしでかす前兆のようなものなので、考えるだけ無駄かと判断し思考を放棄した。

 二人は結局夕飯の食材のみを手にして帰宅した。荷物を片付けた後、マダラが庭で忍具の手入れを始めたので、なまえは縁側に腰を下ろしてそれを眺めることにした。
 天辺を通り過ぎた午後の日差しが丁寧に磨かれた刃物をキラキラと輝かせていた。なまえは懐に手を差し込み、例の如くそれを取り出して手の平に乗せる。その鏡面もツヤツヤと光っており、手前に傾けるとどこか物憂げな表情をしている彼女の顔が映し出された。
 もしかして、ああいったもののほうが良いのだろうか。小さく項垂れたなまえだったが、その心の内では薄々、彼は本当に欲しがっていないのだということを察しつつあった。贈り物が駄目なら、他にどうすれば喜んでもらえるのだろうか。
 無意識に視線が移っていたらしくマダラが振り向いたのでなまえは咄嗟に自身の足元へ目を落とした。あからさまだっただろうかと不安になりながら顔を戻したが、何事もなかったように手入れを再開している姿が見えただけだった。


 眠る前、マダラが戸締りをしに回っている間、なまえはだらしなく布団の上に寝そべり枕に顔を埋めていた。あの後も頭を悩ませていたのだが良い案は一つも浮かばなかったのだ。
 もうすぐで今日という一日が終わりを迎える。日をかけて考えればいいものをなまえは何故だか今日中にやり遂げなければならない思いに駆られていた。
 マダラが戻り、布団に入ってしまえばもうおしまいだ。何も為すことができないまま迎える朝はきっともやもやしてたまらないのだろう。そう考えた時、なまえは一つだけできることが残っているのに気が付いた。いや、頭の片隅に潜めていたが、あまり考えないようにしていたのだ。それは彼女にとってすごく勇気のいる、最終手段のようなものだった。
 でも、と自分で自分に言い訳をしているうちにマダラが寝室へ戻ってきた。彼は伸びているなまえを一瞥し、「切るぞ」とだけ言って明かりを消す。それから布団へ入っていく彼のほうをなまえは首だけを向けてじっと見ていた。横になったマダラも、布団に入ろうとしない彼女へ体を向けて暗闇の中でしばし見つめ合う。
 そろそろ事情を尋ねてみるかと口を開きかけたマダラだったが、ほとんど同じ時にのそりとなまえが起き上がった。
 なまえは膝を擦り、衣擦れの音を立てながら隣の布団へ接近した。焦燥感に駆られ、ついに決心したのである。今更恥ずかしがることもないのだからと自らを励まして。

「……もう、寝ますか?」

 マダラの腕の辺りに触れながら、なまえは頼りない声音でそう零した。まるで眠ってほしくないかのような言い方である。
 マダラは布団を半分捲り、何やら構ってほしいらしいなまえの手を掴んで引き寄せた。体勢を崩してマダラの上に倒れかかったなまえは、目と鼻の先にある彼の顔に息を飲む。こんな急展開、想定していない。体を起こそうとしたが、それよりも先に腰を抱かれて離れられなくなってしまう。
 だが、そうさせたのはなまえなのだ。自ら声をかけておきながら離せと言うのも妙な話である。そう考えると抵抗を示すのは憚られた。

「今日は何を企んでいたんだ?」

 昼間からの妙な視線についてマダラは率直に尋ねた。なまえは悟られていたことにぎょっとしたが、聞かれたからには答えるしかないので簡単に事情を打ち明けた。
 マダラはなまえの予想した通り何もいらないし感謝されることはしてないと言った。なまえのほうが余程働いているのでそれに比べたら些細なものなのだと。
 しかしマダラは、彼女が自分を思って悩んでいたのだと思うと少し嬉しくなり、同時に、ある一つの事実を改めて胸に感じるのである。

「オレはお前がいればいい」

 きっぱりとそう告げられてなまえは目を見開いた。まさかそんなことを言われるとは予想だにしていなかったのだ。マダラはいつもそういうことは言葉にせず態度に含んだり触れることで示しているので、声に乗せて言われるとまた違う響きがなまえの胸に広がった。
 マダラはなまえの頭に手を添え、自分のほうに寄せて口付けをした。そう、彼はいつもこんなふうにして愛情を伝えてくるのだ。それなのに、それなのにと嬉しくて仕方がないなまえは、自らも唇を重ね、その思いに応えようとする。
 そうしているうちに体勢をひっくり返され、マダラに見下ろされるとなまえは何だか安心した。そして腕を伸ばしてめいっぱい抱き着き、彼女もまた、心のままに囁くのだ。

「ずっと、一緒にいたいです」

 その一言は、どんなものを贈るよりもマダラを嬉しくさせたに違いない。マダラは誰にも見せたことがないような穏やかな表情を浮かべ、ああ、とだけ返した。それから、なまえをもっと深く愛すべくその体をかわいがり始めたのだが、堰を切ったように好きだの何だのと口にし出したので柄にもなく参ってしまい、思うように行為を進められなくなったのであった。