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 今日は学校が休みなのか、道端に子供達が集まって遊んでいる。ここ数日は天気のいい日が続いており、今が冬であることを忘れそうなくらい暖かい日差しが木ノ葉の里に降り注いでいた。
 もっとも、寒さなど彼らにはあまり関係ないのかもしれないが。次は何をしようかと相談している子供達の横をなまえは通り過ぎていく。
 そして、歩きながらふと思った。他国の里でも子供達が学んだり遊んだりできる環境が整っているのだろうか、と。
 国が違っても子を思う気持ちは同じはず。守るべき存在を戦場に立たせることなど本当は誰も望んでいなかっただろう。
 里ができたことによって争いの数は確実に減ってきているのだ。この調子で平和な世へ変わっていけば、戦乱の時代も幕を下ろすことになる。子供達のためにも、そんな未来が実現することをなまえは強く願うのだ。
 だから、以前のように働けないことがもどかしかった。今日も扉間の手伝いをするだけで帰されてしまった。彼は助かると言ってくれるが、なまえは少し物足りなさを感じているのである。
 いつまでこれが続くのだろうか。溜め息をつきたい気分になりながら家の戸を開ける。玄関にはマダラの草履がなく、どこかに出掛けているようだった。
 彼は少し前からこうして家を空けることが多くなっていた。いや、もしかすると自分が知らなかっただけで、いつもそうだったのかもしれない。
 家でじっとしているのも退屈になったのだろう。初めは、そう思っていた。

「…………」

 大事な手鏡を仕舞っている箪笥の引き出しを開けた。いつもそこにあった額当てがなくなっている。それは彼女のものではなく、今まで一度も使わなかったであろう、マダラのもの。
 彼が今更それを着けるとは思えず、処分でもしたのだろうかとなまえは考えた。それでも、何故突然そんなことを、という疑問が残る。
 知らないところで何かをしているのはわかっていた。最近体を動かさないせいか寝付きが悪く、夜中に目を覚ますことも何度かあった。そんな時、体を横に向けると、隣の布団がもぬけの殻となっていることに気付いたのだ。
 しばらく待っても戻ってくる気配がなく、もしやと思い玄関を見に行くとやはり草履がない。急を要することでもあったのだろうかとなまえは不安になったが、それはその日の晩に限ったことではなかったため、次第に察しがついてしまった。
 なまえは静かに引き出しを閉じ、庭に出た。足元に目を落とした後、天を仰いで雲一つない空をその瞳に映す。
 今、どこにいて何をしているのだろう。遠くにいても同じこの空を見上げているだろうか。心で思うだけでは、その答えを知ることはできないのである。



 それから数日が経ったある日のこと。散らかっていた扉間の仕事部屋も大分片付いてきて、そろそろお役御免になるのではないかとなまえが内心で焦りを感じ始めていた時、まるでそれを読んだかのように新たな仕事を言い付けられた。
 忍術を研究している女の手伝い。以前よくなまえを呼び出していた女が、ぜひまた手を貸してほしいと名指しで要請してきたのだ。扉間から一度訪ねてみるように言われ、なまえは研究棟に向かった。
 しかし、女の姿が見当たらない。近くにいた研究員に聞いてみると、少し前に慌てた様子で部屋を飛び出していったらしい。うっかりしているところがあるから、何か用事でも思い出したのだろうなとその研究員は笑った。
 それなら仕方がない。なまえは女が戻ったら自分が来たことを伝えてもらうように頼み、研究棟を後にした。念のため扉間にも報告しておくべきだと判断し、再び彼の部屋へ向かう。
 部屋の前に着き戸を叩こうとした時、僅かに開いた隙間から話し声が漏れてきた。取り込み中かと思い手を引っ込めたが、その内容が明瞭に聞こえてきてつい耳をそばだててしまう。

「……奴はもともと尾獣を分配することにも反対していた。同盟などもっての外だろう」
「だが、その使者が来ることをあいつが知るはずも……」
「調べる方法は幾らでもある。問題はそこではない」

 中にいるのは柱間のようだ。難しい話をしていることがわかり、その場を離れようとしたなまえ。爪先の向きを変えた直後、入口の戸が突然開かれた。
 目を丸くする彼女の前に現れたのは扉間だった。そこに人の気配があることに気付いていたのだろう。彼は眉一つ動かさず、当然の疑問を口にする。

「なまえか。実験はどうした」
「何か、急用で出て行かれたそうで……」

 そう答えると、扉間は「あの女」と呟いて露骨に眉間を歪めた。そしてなまえに中へ入るよう促し、しっかりと戸を閉じる。そのあまりの勢いになまえと柱間は同時に身を竦めた。

「話は聞いていたか?」
「……少し……」
「マダラのことだ」

 扉間は躊躇なくその名を口にした。なまえは眉をひそめ、柱間は制止の声を上げる。なまえに聞かせるべきではない。彼女のことを思い、そう咎めるのだ。
 だが、扉間は強い口調で反論した。マダラのことをなまえが知らずにいてどうするのだと。ただでさえ責められやすい状況にあるのだから、この件が広まることも想定して備えさせたほうが余程ためになる。
 なまえが何も知らないことを前提として話しているのは、マダラがそういった行動を逐一明かすような男ではないと柱間も扉間もわかっているからだ。
 そして、扉間はその詳細を改めてなまえに伝えた。火の国・木ノ葉隠れの里と同盟を結びたいと申し出た土の国から、本日、話をするためにこちらに訪れる予定だった二人の忍をマダラが襲ったのだと言う。その後木ノ葉の忍が倒れている二人を見つけ、事情を聞き出したらしい。

「オレの部下に現場を見に行かせた。話の通り争った痕跡が残っていたそうだ」
「…………」
「念のため確認しておく。なまえ、この件について知っていることはあるか?」

 そう尋ねられ、なまえは首を横に振って否定を示した。その神妙な面持ちからも、それが嘘ではないことが見て取れる。だろうな、と扉間は胸の内で呟き、静かに目を伏せる。
 よくもやってくれた。この話はやがて他国にも伝わり、同盟を結ぶのは非常に難しくなるだろう。和平への道は決して容易いものではないとわかっていたつもりだが、このような形で妨害されるとは扉間でさえも予期していなかったのである。
 今はなまえのことがあるから目立つ行為はしないだろう。それがどれほど甘い考えであったか思い知らされたのだ。浅はかだった己を扉間は強く恨んだ。

「なまえ、マダラは家にいるのか?」

 不意に柱間が尋ねた。俯いていたなまえは顔を上げ、その双眸を見つめ返す。

「朝……家を出る時にはいました」

 その問いはマダラの動向を探るためではなく、なまえを心配して発せられたものなのだろう。柱間は「そうか」と呟き、ゆっくりとなまえに近付いて彼女の肩に優しく手を乗せた。

「オレも扉間も、それにミトもいる。一人で抱え込むんじゃないぞ」

 そうやって彼はいつも二人のことを気にかけていた。友人として、この先も見守っていきたいと思っていた。自分との間に垣根ができようとも、二人がこの里で睦まじく暮らしていけるならそれでよかったのだ。それなのに――。
 恐らくなまえはまだ知らないのだろう。だが、それを自身の口から伝えることもできず、不安げな彼女を曖昧な言葉で励ますのが精一杯だった。

「兄者、そろそろ行くぞ」

 彼の様子にただならぬものを感じてなまえが口を開きかけた時、扉間が床を軋ませて歩き出した。重みを増していた手がさっと離れ、なまえはもう一度柱間を見上げる。
 すると、彼はその一瞬だけ表情を和らげた。寂しさをこらえたような微笑みだった。ここにいてもいいと言われ、二人が去った後、なまえはしばらくそこに立ち尽くしていた。
 何もかもが変わっていく。変わらないと信じていたものさえも。目を逸らし続けているうちに、いつの間にか戻れないところまで来てしまったのだ。



 買い物の帰りはわざと遠回りをして、いつもと違う道を歩き、いろいろなものを見つけて家に帰っていた。この里のことをもっと知りたくて、あの人の愛するものに自分も触れたくて、心の向くままに歩き回っていると、また、こんなふうに夕刻が迫ってしまうのだ。
 この里は、この淡い朱色に染められた時が最も美しいと思う。そう彼に話した時は嬉しそうに同意をしてくれて、そして何故だか髪のこともよく褒められた。
 土手沿いを歩いていると、その先にある腰掛けに見覚えのある姿を見つけてミトは足を止めた。辺りに人の気配はなく、ただ一人ぼんやりと景色を眺めているようだった。
 どうしてこんな所にいるのだろう。そんなごく普通の疑問を頭に浮かべながら、ミトはその腰掛けへと歩いていく。

「……なまえさん?」

 声をかけると、なまえは少し驚いたような顔をして振り向いた。こちらの気配に気が付かないほど物思いに耽っていたらしい。里の中とはいえ少々無防備なのではないかとミトは心配になる。

「ミトさん」
「いい眺めね。私も座っていい?」

 そう尋ねるミトになまえは頷きを返して横にずれた。ミトは荷物を脇に置いてその隣に腰を下ろす。着物越しに冷たい木の温度が伝わってきて、思わず身震いしそうになる。
 なまえは寒くないのだろうか。手の甲を擦りながら隣に顔を向けると、彼女はそんなことを気にした様子もなく穏やかな表情で空を見上げていた。ただそれだけなのにミトは妙な違和感を覚え、その横顔をじっと見つめてしまう。

「……マダラさんと初めて話した時のことを思い出していました。あの日も、こんな綺麗な夕焼け空が広がっていて……」

 ぽつりと独り言のようになまえが零す。そして、ミトの視線に気付いて柔らかく微笑んでみせたが、その表情がとても儚げに見えるのは、眩しい夕日に照らされているせいだろうか。

「なまえさん……何かあったの?」

 だが、思い過ごしであったとしても聞かずにはいられなかった。今、なまえが大変な状況に置かれていることは知っている。だから、もし困っているならどれほど些細なことでも力になりたかった。ミトは心からなまえといい関係を築いていきたいと思っているのである。
 それに対してなまえは少しの間口を噤み、土手の下へと視線を移した。その先では、空の色を取り込んだ川が黄金色にきらきらと輝いている。
 やはり自分には打ち明けてくれないのだろうか。ミトが肩を落としかけた時、なまえはようやく静かな声音で語り始めた。

「少し前、マダラさんが花の種を買ってきてくれたんです」

 それから二人で庭に植え、毎日世話をしたこと。途中で枯れてしまうものもあったが、ほとんどは立派に茎を伸ばして蕾を付けたこと。今朝ようやく花が開き、白の花弁が雪のように美しかったことを話した。
 それはどこにでもある光景、ありふれた日常の話。けれども、なまえは本当に嬉しそうに笑っている。ミトはマダラのことをよく知らないが、彼女が大事に愛されていることは十分に伝わってきた。
 だが、違う、と思った。なまえが胸の内に秘めているのはそれではない。もっと別の思いを抱えてここに佇んでいたのだ。そうでなければ、どうしてこれほど切なさに胸を締め付けられるのだろう。

「素敵ね。そのお花、私も見てみたいわ」
「もっとたくさん咲いたら、ぜひ」
「ええ。きっとよ」

 自然な形で念押しするミトに、なまえは目を細めながら頷いた。本心ではあったのだが、そうやって先の約束を取り付けて彼女を繋ぎ止めておかなければ、ある日突然いなくなってしまうような、そんな不安をミトは胸の奥底で感じていた。



 昼過ぎになまえが帰宅した時、家にマダラの姿はなかった。朝、彼女が家を出た後に彼も出掛けているのだろう。その行き先については一度も尋ねたことはない。
 家で改めて考えてみても、何故土の国の使者を襲ったのかはわからなかった。今回ばかりはなまえにも心当たりがないのである。かの国の非道さを垣間見る事件はあったが、あれから日も過ぎているし、それだけを理由に行動を起こすとは考えにくい。
 わからないのだ。何を思ってそうしたのかが。そこに怒りがあったのか、嘆きがあったのか。絶望があったのか、願いがあったのか。なまえには、マダラの心情がわからなかった。
 でも、と両の手を握り締める。今まではそれでも構わなかったのだ。一つのところで思いが通じ合っていればそれだけで十分なのだと。そう思っていたのに、どうしてか今はわからないことがもどかしい。
 だったら、知ればいい。今からでも彼の心にあるものを一つずつ知っていけばいい。多くを語らないからこそ、想像できないほどの様々な思いがそこにはあるはずだ。たとえ手遅れだったとしても、それを知ることはきっと無意味ではない。
 静寂の広がる夜空に星々が煌めいている。普段なら明日に備えて布団に入る頃だろう。寝室へ行くのを待っているマダラに、なまえは小さな勇気を振り絞る。どれほど思いを募らせようとも、そこに触れるのは少しだけ怖かった。

「……マダラさん」

 囁くような声だった。それでも二人しかいない空間では十分に響き、マダラは静かに顔を向けてそれに応ずる。

「何だ」
「…………」

 すぐに続きを言おうとしないなまえを、マダラは急かすことなく待った。彼女が言葉に淀むのは珍しいことではない。
 なまえは机の下で何度か指先を擦り合わせ、十分に間を置いた後、ゆっくりと口を開いた。

「マダラさんの……兄弟の話を聞いてもいいですか?」

 何かに繋がらなくてもいい。なまえはただの一人の女として、その男の心に触れることを望んだのだ。