零る泪がささくれを潤す
寝室にしては広すぎる。しかし、世界とするならば狭すぎる。そんな部屋で過ごしていくうちに、私は少しずつ要求するものが増えていった。
最初はただ外の世界に残してしまったみんなの安否が分かればそれでよかったはずなのに……少しずつみんなが心の傷を癒していくうちに私にも余裕が出てしまったのだろう。余裕ができたぶんだけ「そういえば」と思う回数が増えてしまったのだ。
アルバムの次に欲しくなったのはスリッパだった。この部屋の床は少しばかり冷たいのでベッドから降りると足の裏から私の体は冷えてしまうのだ。
私はメモにその旨を書いていた時、スリッパのない不便さには気付いても許可なくベッドから抜け出すことくらいには自由を許されていることに気づけていなかった。
次に欲しくなったのはテレビだった。
あの日、京羅さんが私にニュースを見せるためだけに姿を現し、すぐに泥の中に消えたあの四角い箱。
徐々に慣れてきたこの生活で、私の最大の敵は『退屈』となった。暇を潰すために思いつくのなんて本かテレビを見ることくらい。
しかし、外の世界のことなんてわからない、文字通り箱入りになってしまった私は世間での人気な本なんて何一つ思い当たらない。それに、ベッドの中で本なんて読む習慣は私にはなかった。きっと十数ページ読んだ程度で、寝こけてしまって次の瞬間には朝になっていることだろう。この部屋には昼も夜もないのだから、当然朝もないのだけれど。
それなら、ただつけているだけで勝手に私の退屈を和らげてくれるテレビが最適だろう、と思ったのだ。
スリッパの次に急に家電なんて高価なものを欲しがるのはなんだか申し訳なかったが、その高価なものを「用意してもらえない」という可能性は私の頭にはなかった。きっと、それは「京羅さんがお金持ちだから」という認識のせいだけではなかったのだろう。
テレビというものはすごいもので、すぐに私の退屈というものを打ちのめしてくれた。最初のうちに少し気になって私は適当にニュースなんかを見ていたのだが、その頃には私のニュースなんて一切流れることはなかった。
それは特段不思議なことでもない。私は行方不明ではなく死亡していることになっているのだから、少しだけ珍しい凄惨なことをニュースキャスターはいつまでも話したりしないだろう。毎回もらうアルバムの中のみんなの周りにもうインタビュアーもカメラマンも張り付いてはいなかった。
私が死んだことになってしまった事件のことに未だ傷ついているみんなのことを思うと胸が痛くなるが、それでもみんなは私以外の大切な人達のおかげで、その悲しみを少しずつ和らげることができているようだった。
やはりそのことを寂しく思ってしまうが、私の願い通りあの事件のことは段々と忘れ去られていくのだろう。だから、私だけは忘れないままでいようと思った。みんなが傷ついたこと、そして私がきっかけで理不尽にも命を奪い去られてしまった人がいたことを。
しかし、ずっとニュースを見ていると、どうしても退屈というものは再び私に牙を剥いてくるもので……私はもうニュースなんてつけないでそれからはバラエティ番組やドラマなんかを見続けることにした。
ニュースは外の世界のことしか言わない。外の世界と関係なくなった私には全て無益な情報ばかりなのだろう……変な里心がついてはまずいし、私が外の世界を知るのはアルバムだけで十分だ。
ちなみにあのアルバムは、みんなに笑顔が戻ってきた頃には毎週ではなく、毎月届けてもらうように変更した。私の心は少しずつ安心感を取り戻していっていたから、期間を空けても十分だと思うようになったのだ。
以前の生活なら、毎日見れていた外の世界だったのに。
その次に、私がどうしても欲しくなってしまったのはテレビゲーム機器だった。なんとも俗っぽい代物だろうか、と自分でも思ったけれど欲しくなってしまったのだ。単純にいつも見ているテレビ番組だけでは飽きがきてしまったのだ。いつも見ているバラエティ番組やドラマは毎週楽しみにできるくらいには面白かったけれど、それ以外の番組はただ惰性で見ているだけで段々苦痛になってしまったのだ。
そこで、ふと思い出したのが好きなバラエティ番組で紹介されていたゲーム。あれがやりたくなってしまった。私は日常的にゲームはしていなかったけれど、全くやっていなかったわけでもない。以前は兄が持っていたゲームを少しだけ貸してもらって遊んでいたりはしたのだ。
望んだゲームジャンルはほのぼのとした村で牧場経営をするゲームだった。この手のものはストーリーに終わりがないから長く長く遊べるだろうと踏んだのだ。
私は何故か、この部屋で長い期間遊べると思っていた。
こうして私が随分と欲しがりになってしまってから、長い月日が流れていってしまった。
正確な日付は分からずとも、受け取ったアルバムはとっくに十冊以上にもなっているのでかなり時間が経ったことは分かる。
こうして振り返ってみると……私が初めて京羅さんと会話をしたあの日。「人間というのは住んだ場所が都になった頃に、あれこれ欲しくなってしまうものなんだよ」という京羅さんの言葉通りの未来になってしまっている現状に、自分の自制心の弱さを痛感しては少しばかり情けなくなってしまう。
でも、確かに私は想像していたよりもずっとずっと悠々自適な毎日を暮らしていた。最高の毎日と言うほどではないし、息の詰まる瞬間がないと言うと嘘になってしまうが……あの日、突然絶望を突きつけられた時では考えられない程にゆったりとした暮らしができていたのだ。
そんなことを考えていると、ガチャリと扉が開く音がした。音の方に目を向けてみるとそこには天理さんが居た。
彼は聞いた限り京羅さんの息子さんなのだそうだ。京羅さんがアルバムを息子に届けさせよう、と言った次の週から天理さんが私にアルバムを届けにきてくれるのが続いたし、彼も京羅さんのことを「父さん」と呼んでいたので間違いないだろう。
「おい、今月の分だ」
「ああ、いつもありがとうございます」
天理さんはいつも通りにぶっきらぼうに私にアルバムを突き出してきた。このやりとりも何度したことだろう。少し前だったら天理さんは不機嫌そうにそのまま部屋を出て行ったのだが、今ではギィと椅子を引いて私のベッドの横に座ってくれている。
これも私が望んだことだった……私は次に欲しくなったのは「人」だった。
何も京羅さんが私に言ったような、人間一人の所有権を欲しがったわけではない。ただ、少しでいいからお話ができる相手が欲しくなった。
だって、この部屋で一人で過ごし続けるのは、とてもとても寂しくて仕方ないのだ。
できる限り、一人でただ過ぎるだけの時間を食い潰せるようにいろんなものを強請ったがどうしても限界というものは来てしまう。
最初の頃なんて、京羅さんを始め……この部屋に来る人達全員に対して私は恐怖していた。お食事を運んでくる人だって私を殺しに来たのかもと思って怯えていたし、恐怖の根源にいた京羅さんの息子さんである天理さんも勿論例外ではなかった。
けれど、これだけの長い期間が経っても、彼らが私に何かしらの危害を加えることはただの一度もなかった。だから、私はいつの間にかこの部屋にくる人達に対して恐怖を感じる事は無くなっていったし、それどころか一人ぼっちで過ごす私の部屋に来てくれることを少しばかり嬉しいと思うようにもなった。
それでも、会話らしい会話はなかったのでそれを少し残念に思い、ついついメモに「天理さんとお話がしたい」と書いてしまったのだ。その次の日から、天理さんが定期的に部屋に来ては私と他愛のないお話をしてくれるようになった。
最初に交わした言葉は今でも覚えている。天理さんは至極迷惑そうに溜息を吐いて「なんで俺なんだ。わざわざ名指しなんて……」と言っていた。
それを少し申し訳なくなったが、お食事を運んでくる人達はみんな厳つい大人ばかり。
この部屋に来てくれる事は少し嬉しいとは思っても会話となれば話は別。会話どころか言葉を発することすらできる気が一ミリもなかった。その点で言えば、天理さんは私より少しだけ幼いくらいだし、冷たい態度を取られてもどこかあどけなさを感じる顔立ちのおかげであまり怖くはないのだ。それにお名前を知っているのは彼一人だったし。
それから、私はほんの少しだけ天理さんとお話をしては、部屋を去る彼に手を振ることを何度も繰り返した。
律儀な彼は眉を顰めていてもちゃんと私と会話をしてくれる様子で、聞いたことは教えてくれる。お兄さんが二人いることも教えてくれた。
その時に「私にも兄が一人いるんですよ。優しい人でした」と言ったら妙にスンとした表情で「お前のことをこんなに羨ましいと思ったのは初めてだ」と言っていたので兄弟仲はあまりよろしくないようだったけれど。
「今日もお仕事をされたんですか?」
「仕事なら今してるだろ。お前の相手だ」
「あっ……そうでした。ごめんなさい」
「今日は鍛錬以外にやることもないし別にいい。父さんがやれと命じることならやるだけだ」
「た、鍛錬。私には馴染みがない言葉でびっくり……いつも努力されているんですね。京羅さんもこの間、天理さんのことを話してくれましたよ」
「何?」
「なんでも漣家で史上最年少で……えと、トウ?になったんですよね?強い人だけがなれるっていう。自慢の息子だって言っていました」
「……ふん」
あっ嬉しそう……私はついつい微笑ましくなってしまう。天理さんは父である京羅さんのことを相当慕っているようで、京羅さんのことを話すと他の話題に比べてよく耳を傾けてくれた。
「……父さんとはいつもどんな話をするんだ?」
「京羅さん、と?ええと、やっぱり天理さんの話かな……共通の話題は天理さんくらいしかないですし」
「そうか……」
私の言葉で天理さんはいつも通り雫を一滴溢すように小さく、しかし確かに嬉しそうに口角を緩める。実子であるらしい彼のこういった表情から本当に京羅さんは家族に慕われているのだな、と言うのがよく分かってしまう。
京羅さんが私の部屋に訪れるようになったのは、天理さんとお話をするようになってからだった。初めてアルバムを届けに来てくれた以降、一度も姿を現すことがなかったのに……いきなりのことだったのでとても驚いたのをよく覚えている。
数ヶ月ぶりに見た京羅さんは相変わらず優雅な立ち振る舞いで私を恐怖に突き落としたあの日と全く変わらない姿だった。しかし、意外なことに私は彼に対して恐怖心を抱いてはいなかった。
きっと、天理さんから聞く京羅さんの話のおかげなのだろう。彼はいつも素っ気ない態度なのに、お父さんのお話をする時だけは嬉しそうにはにかんでいた。きっと無意識だったのだろう……そんな天理さんを見るのを私は密かに楽しみにしているので、そのことは本人には絶対言わないと決めている。それを指摘してしまえば、プライドの高そうな天理さんはきっともうその表情を見せてくれないだろうから。
とにかく、天理さんと会話していくうちに、私の中の京羅さんのイメージは随分と優しいものに矯正されていったのだ。
今では京羅さんと二週間のうちに一回ほどお茶をするようになっている。いつもお忙しい様子だけど、それでも時間を見つけて来てくれるらしい。その時に天理くんのお話をよく聞かせてくれるのだ。他のお兄さん二人のことは全く語ってはくれないのが少し気になるところなのだが……。
「そういえば、上のお兄さん二人のことは全く聞かないですね。少しだけ聞いたことあるけど、お名前だけ教えてくれただけでそれ以上は……」
「まあ、話さないだろうな。出来損ないと変態の話なんか……父さんの面目を潰すような奴らだ」
「……へ、へえ」
視線を左上にやっては辟易した様子でお兄さん二人を酷評する天理さん。さっきまで柔らかい表情だったのに、その眉間には渓谷のような皺が刻まれている。
彼の様子からなんだか……京羅さんが私の元へアルバムを届けるようにと白羽の矢を立てたのが、何故天理さんだったのか。その理由が少しだけ分かった気がした。
出来損ないっていう言い方はエリート妖術師家系の中ってだけなのではないのかなんてことを思ってしまうが……実の弟に変態と評されるお兄さんは一体。
ちょっとだけ怖いかもしれない。お兄さん二人とはお会いしたことがないものだから、私からは何をどう言う資格はないけれど……。
「あいつらの話はいいだろ、もう。今日はお前は何をしていたんだ」
「私は春の季節になったのでイチゴの種蒔きをしてました」
「は?」
「あっすみません。えっと、ゲームで……」
「またか。少しは運動しろ」
「し、してますよ!ベッドの上でストレッチとか……」
「その程度で運動と言うな」
「で、でもずっと寝たきりで部屋を歩くのも一苦労だった頃よりはマシになったでしょ……!」
「自業自得だろ。閉じ込められていても筋トレとかできるんだから」
「でも、全然誰かとお喋りしてなかったせいで喉が衰えて何か言葉を出せなかった頃と比べて……」
「喉だけじゃなくて全身鍛えろ」
「うぅ……」
そんなこと言われたって。
エリート妖術師家系の天理さんと違って、私は運動が少し苦手な普通の女子高生だったのだから筋トレの習慣がなくてもいいじゃないか。
でも流石にベッドから出ないでゲームばかりして、歩けなくなった時は正直焦ったしへこんだけれど……それに関してはぐうの音も出ない。私よりも四、五歳ほど年下の男の子に叱られるとはなんと情けないことだろうか。
何だか気まずくなった私は、天理さんから受け取ったアルバムをパラパラと開いた。いつもなら一人で見るのだが……どうにかして話題を逸らそうとネタ探しをしようとみんなの写真を眺め始める。
「え」
「……?どうした」
私はとあるページで捲るその手を止めてしまった。
そこに写っていたのは兄とその恋人の姿……いや、正確に言えば違うのだろう。
「結、納……?」
「……なんだ、お前の兄の結納写真か」
そこには兄夫婦の写真があったのだ。
確か、兄が恋人の女性……今となってはお義姉さんを連れてきたのは私が漣家に囚われる数ヶ月前のことだった。ただその時にはまだ入籍をいつにするか、とか式を挙げるかはまだ決まっていない、と言っていたのに。
見出しには『薄雲夫妻 結納式』と書かれており、正装を着込んだ両親と紋付袴の兄に華やかな着物のお義姉さんが幸せそうに微笑んでいる。
そんな、私だけがいない……家族の幸せそうな写真がそこにあった。
「偽りの事件だとしても、妹が惨殺されて一年と経たずに結婚か。幸せなのは結構だが、少し薄情じゃないのか」
「……きっと、お義姉さんの方が色々仕切ってくれたんだ」
その写真にお義姉さん側の家族がいらっしゃらないのは、彼女が天涯孤独の身だから。兄から聞いた話では、彼女は私ぐらいの年代の頃にご両親を事故で亡くしてしまっていると聞いていた。
それはそれは大変な生活だっただろう。それでもしっかり自立して生きてきたお義姉さんのことを私は尊敬していたし、そんな人が優しくて自慢の兄をパートナーに選んでくれて嬉しく思ったのは今でも覚えている。
彼女も義妹になる存在の私の死に酷く心を傷めていたはずだったが……
「正式に家族となって支え合うなら、早い方がいいと思ったのかも。お義姉さんは……突然、家族を失ってしまうことの哀しさを知っていたでしょうし」
「ふーん、災難だな。お前も、お前の家族も」
天理さんは「まあ、俺の知った話ではないがな」と冷たく言い放つ。
そりゃあ、そうだろう。彼は京羅さんの命で私の相手をしてくれているのだから、私の気持ちに必要以上に心を傾けてくれたりはしない。
いつもだったら、私は一人でこの気持ちを押し留めていたのだろう。ほぼほぼ関心のない人間の激情ほど鬱陶しいものはないんじゃないか、と思うから。
しかし、今回は……今回ばかりは……。
「……おい、メソメソするな」
私は激流のような気持ちに押し出されるように、ぼたぼたと目から涙を溢れさせてしまう。グズグスッと鼻を鳴らして泣いていると、天理さんが至極面倒そうな顔でそう言った。
ああ、そんな顔をしないでほしい。仕方ないじゃないか。もう二度と会えない、私以外の家族全員の……こんな幸せな笑顔の写真を見て泣くなという方が無理な話だろう。
「泣いたところでお前をこの場所から出したりはしない。以前に父さんからも聞いただろうが「家族のもとに帰りたい」なんて少しでも口にしたものならお前の家族の命は……」
「良かった……!」
「……は?」
私は両手で顔を覆いながら、その本心を口にした。
「私のことで、結婚の話が拗れちゃったらどうしようと思ってた……!」
ああ、本当に本当に良かった。私の兄はちゃんと、お義姉さんとこれから苦楽を共にして支え合いながら生きることができるのだ。
これからはきっと、みんなは仲良く同じ時を過ごして……お正月にはお節をつついたり、子供が生まれたら両親に助けてもらいながら毎日忙しくても楽しく生きていくのだ。みんなにそんな未来がやってくるのだと思ったら、私は本当に心の底から安心したのだ。
「家族みんなの仲がぐちゃぐちゃになってご破算になったりでもしたらって……私、気が気じゃなくて……」
「……」
「本当に、本当に良かった……!」
止めどなく泣き続ける私に呆れたのか、天理さんが無言のままハンドタオルを渡してきた。手で涙を拭うのは限界があったので正直ありがたい。私はそのまま受け取って顔を覆った。
でも、これ天理さんの私物なのではないだろうか。私は衣類とかのお洗濯もお世話係の人にお願いしてしまっているので自分では洗えない。かといって、私の涙で汚れたハンドタオルをそのまま返すのは忍びない。
水道は使えるのだから、今度は京羅さんに洗濯板と洗剤をほしいと要求してみようか。借りたものなら、きちんと自分で洗いたいものだ。
そんなことを考えながら、タオルに涙を飲ませていると……。
「……父さんがお前に入れ込む理由が、ほんの少しだけ分かったよ」
天理さんが突然、そんな言葉を私に投げた。
彼が京羅さん以外に……私にそんな柔らかい声色で話しかけてくれるのは初めてだったので、私は少しだけ驚いてチラリと天理さんの方へと視線を向けた。
「お前は、本当に……実直すぎるくらいに、大切な人の幸福を喜べる奴なんだな」
天理さんは少し目を伏せながら、京羅さんに向けていたものと似た無意識の表情を……何かを愛おしむような、微笑みを浮かべていた。
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