『可愛い』が生まれた瞬間を見た


 あ、こいつ。また伯理を殴ったんだな。
 私は上機嫌で鼻歌交じりに手洗い場へと向かう漣宗也とすれ違い、それを悟った。
「……あ?」
「それ、また伯理ですよね」
 私はすぐに後ろにいる男の腕をパシッと取る。外傷なんて見られないのにその拳からは血が滴り落ちている。乾いていない血を見るに、ついさっきの出来事なのだろう。
「どうしてそう伯理を痛めつけるのか……理解に苦しみます」
「そりゃ伯理がいっちばん可愛いからに決まってんだろ」
「ますます分からない」
 この人が漣家の次期当主であることが本気で納得できない。
 そりゃあ、能力自体は素晴らしいものかもしれないが、名家の長男のくせに品格がドブすぎる……コレが当主になった後の漣家が心配でならない。
 今からでも京羅様は天理を次期当主に据え置くべきではないのだろうか。そうなってくれるのであれば、私だって少しは……。
「全く嘆かわしい……」
「……」
 私が額を抑えながら、そうぼやくと……宗也の目が据わり始めた。ああ、またこのパターンか、なんて考えると同時に彼は私の胸ぐらを力強く掴んだ。
「……何ですか」
「折角のいい気分を台無しにしやがって」
「本当に品性を疑いますね」
「ちっ……」
 私は彼の「来い」という言葉と共に近くの部屋へと引き摺り込まれる。

 *

 この漣家で日常的に暴力を振るわれている人間は二人。
 一人は伯理。彼は漣家当主の次男でありながらこの家の落ちこぼれである。故に漣家の人間達から事あるごとに殴られ蹴られる毎日だ。実の兄には愛情表現として拷問紛いの扱いまで受けている始末。
 そしてもう一人はこの私だ。私はこの家で特筆して強いわけではないものの、決して弱いわけではない。女にしてはかなりの腕を持っている。だからこそ、他の人間達にちょっかいをかけられることはない。
 じゃあ、何で暴力を振るわれるのかと言えば……。
「――ぐぁッ!」
「……その目。やっぱり全く可愛くねえよなぁお前は」
「嗚呼、嬉しいお言葉です……ガァッ!」
 それは私が伯理を愛する宗也にくとあるごとに苦言を呈し、彼の機嫌を損なわせるからだ……私はこうしてよく宗也に殴られ蹴られている。
 彼が伯理を殴る理由は伯理を愛しているから。でも、彼が私を殴るのはその愛し方に口出しをする私への苛立ちをぶつけるために……宗也から向けられる冷たい視線を下から浴びることで、それがよく分かる。
 初めてこうして痛めつけられたのはいつだったか忘れたが、きっかけは覚えている。宗也が伯理を殴っていたのを初めて見かけた私が、彼らの間に割り入ったのだ。あの時は彼の拳が私の頬にめり込んで吹っ飛んでしまったんだっけか……それには宗也も伯理も驚いていたな。
 無様に吹っ飛んだ私はそれはそれは情けない姿だったろう。宗也はキュートアグレッション精神の塊だということを理解してしまった私としては……その時の私は自分の頬の赤黒い痣よりも、その気持ち悪い感情が私に向けられるのではという可能性の方が心配だった。しかし、私は宗也に愛を向けられることはなかった。
 何故なら、私は伯理のように弱くなかったからだ。伯理は嵐が過ぎ去るのを待つように蹲るだけだったが、私は殴られて地に伏せても宗也から視線を外さずに睨み続けたのだ。それからどんなに酷い仕打ちを受けても、私は絶対に彼を睨み続けるのをやめなかった。そんな不遜な態度が気に入らないのだろう。
 それから私は度々、伯理を庇ってはこんなふうに痛めつけられている。私も、宗也も……何一つ全く楽しくない。ただ、部屋が汚れるだけで何の生産性もない行為だった。
「……おい、」
「は……? 痛ッ! ちょっと、何!?」
 いつも宗也は私を一頻り殴った後は無言で部屋を出る……しかし、今日は違った。
 彼は床と仲良くしている私に視線を合わせるように膝を折っては、私の髪を掴み上げさらに顔を近付けさせる。
 そして、耳を疑うような信じられない言葉を私に吐いたのだ。
「今まで、俺に殴ってもらえてよかったな」
 と。
「……は?」
 本気で頭がおかしいと思った。
 まさか、こいつは私がマゾヒストだとでも思っているのだろうか。確かに私は止せばいいのに彼に突っかかるが、彼から与えられる痛みに対して悦楽を覚えたことなど一度たりともないというのに。
「……海馬でもトチ狂いましたか? いや、元からでしたね。言っておきますけど、私は貴方のことなんて大嫌いですからね?」
「知ってるよ」
「嗚呼、安心しました。そこまで勘違いされているわけではないみたいですね。ちなみに私がこうして貴方に物申しているのは、普通に貴方の行いが目に余るものだから」
「嘘つくなよ。天理のことが好きだからだろ」
「――ッ」
 ヒュ、と息が止まった。私は初めて宗也を睨むでもなく驚愕の視線を向けてしまう……そこには愚者を見下すような呆れた表情があった。
「はぁ? 分かりやす過ぎるだろ。もうちょい何とかならなかったのかよ、反応とか」
「な、何で、そこで、天理が」
「最初から分かってたよ。一番初めに庇った時のことは知らねえけど……お前、別に伯理のこと心配してるわけでもねえだろ」
「ますます、言っていること、わかんないんだけど。伯理のこと心配してなくて、どうしてこんなことをしていると」
「だって、お前。さっきは殴られた後の伯理の応急処置よりも、殴った俺の叱責の方を優先したろ。俺にこんな風に殴られると分かってる上で」
「っ」
 私は全身からじっとりと汗が吹き出すのが分かる。本当に、宗也は最初から私の気持ちが分かっていたというのだろうか。
 私と天理は同い年で同じく漣家で鍛錬を受け続けていた。共に励みあい、切磋琢磨しあうような関係……最初の頃は本当にそうだった。
 初めは私と彼の実力には然程、差はなかったのだ。いつも私は彼に一歩劣る程度で「嗚呼、今日こそは勝てそうだったのに」と悔しがる日々だった。
「天理は、もうお前に構わなくなったもんな」
「な、」
「いや、別にお前のことが嫌いになったわけじゃねえだろうがよ? 濤に選ばれて、忙しくなったってだけで」
 しかし、月日が経ち、私達の身体が大きくなれば、当然のようにその一歩の差は広がっていった。彼の一歩は、私の何歩も先を行くばかり。
 どんどんと頭角を現していく天理は、気づけば私には全力で走っても追いつけぬ存在になっていった。
 ……次期当主が宗也じゃなければよかったのに。天理が当主になればいいのに。
 そうすれば、私は当主になった天理に直接貢献することができるのに……私には、もう彼との接点が殆どないのに。
「だから、次期当主の俺に歯向かい続けて、何度殴られても泣いたりなんてせず、誇りを失わず反抗的な目で睨むことで、自分も天理に負けないくらい強いって思い込むようにしてんだろ」
「……や、ちが」
「お前の目的は伯理を庇うことじゃなくて、俺に殴られることだった。俺は仕方なくお前の自己満足に付き合ってやってたよ。昔はよく世話してやってたしその延長でな?」
「は、」
「でも、もういい加減うぜえわ!」
 宗也はそう言いながら、放るように私の髪から手を離した。私は床に叩きつけられて、がひゅうっ! と肺から大量の酸素を吐き出す。
「ゲホッ、エァッホ……!」
「そんなこと続けても、お前は強くならねえし、可愛くもねえからな」
 宗也はそのまま首を手に当ててゴキゴキと鳴らしながら、至極面倒そうに立ち上がる。
「天理みたいに強いわけでもねえ。伯理みたいな可愛げもねえ。あるのは浅はかで卑しい承認欲求だけ……お前は伯理よりもよっぽど無価値な存在だわ」
 私はもう、宗也を睨むことはできなかった。伯理のように蹲って自分の不甲斐なさに打ち震えるだけしかできない……伯理はもしかして、ずっとこんな気持ちだったのだろうか。
 宗也は「もう面倒見きれねえから今後は突っかかって来んなよ」と言いながらドアノブに手をかける。
「ああ、そうそう」
 彼は何かを思い出したように、立ち止まった。
「天理、言ってたぞ。『伯理なんかのことを好きだなんて、あいつも大概男の趣味が悪いな』って、お前のこと」
 それは、これ以上ないほどに手酷い追い打ちだった。
 私は我慢すればいいものを、堰を切ったようにワンワンと泣き出してしまった。宗也がいる、その場で……みっともなく。
 私は蹲っていたから、見えなかった。
 漣宗也の瞳に……きらりとした一つの光が生まれたことを。





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