ポイ捨てした缶は血の海に沈んだ
女が死んだ。
昼彦の前で、胸元から鮮血を溢れさせて死んだ。
彼が殺したのではない。
自分で勝手に死んだのだ。
*
「おにーさん、その水要らないならちょうだいよ」
昼彦と女が出会ったのは昨日のことだった。
何気なく自販機でコーラを買ってみようと思ったら、ボタンを押し間違えて水が出てきてしまったのだ。
うげ、と思ってももう遅い。入れた小銭はすでに自販機が投入口の先へと飲み込んだ。返品不可である。昼彦は首の後ろをかきながら、仕方なく水を取り出した。ちゃぷんと音が鳴る。
水を買ってしまったとはいえ、今の彼は完全にコーラの口……そんな状態で水を飲む気分にはなれなかったし、なんだか改めてコーラを買うのも癪である。
もう持って帰るのも面倒だから適当に放り投げて帰ろうか、と思っていたら突然女に声をかけられたのだ。その女の足元には中型犬がはっはぅっと息を漏らしていた。
別に拒否する理由もなかった昼彦は、放り投げる先を適当な場所から女の手元へと変える。
ペットボトルをひょいんと投げてやると、女をそれを片手でかしりと受け取った。そして、昼彦にニコッと笑いながら「ナイスボール」と言う。ボールじゃない。
昼彦はそのまま、帰ろうかと思ったが……ふとそのまま女とその犬を眺めてしまった。
「よかったねぇワクゥ。上等なお水だよ。お兄さんにありがとうしなねー」
「わふんっ」
「よーしよしよし」
女は片手に持っていたプラスチック製の皿をからりと落とす。そして、ペットボトルの蓋をぱきりと開け、その皿にとぷりととと、と水を注いだ。
その後、半分だけ水を残した女はそのペットボトルを傾け残りをちびちびと口に含む。それをよしとした犬は皿の中の水をペロペロと舐め始めた。
たかが自販機の120円、500mlを『上等なお水』と呼ぶ女だ。どんな暮らしをしているのかは想像に容易い。
「おねーさん、仕事してないの?」
「んー? してないわけじゃないけど……定職にはついてないかな」
「フリーでなんかやってるの?」
「フリーでなんかやってるよー」
水を飲む犬、名前は『ワク』であろう……女は座り込み、ワクを撫でながら昼彦の声に応える。
昼彦はなんとなしに女の横に座り込んで暫く会話をすることにした。
「おねーさん、妖術師?」
「そーだね。そんな感じで稼いでるよ」
「儲かってないんじゃない?」
「儲かってないよ〜。日銭を稼ぐので一苦労」
「それなのにワクを飼ってるんだ」
「飼ってないよ。ワクは友達」
「……友達?」
「そー、友達」
昼彦には友達と呼べる存在がいない……しかしながら、友とは対等な関係な上であるものではないか、という考えはある。
だからこそ、人間である女が犬であるワクのことを友と呼ぶことがとても奇怪に見えた。
ほんの少し友達という存在がいることに憧れを抱く昼彦……気付けば女に前のめりになりながら、質問をし始めていた。
「どこで出会った?」
「えー覚えてないや」
「最初はどんなやりとりした?」
「なんか飢え死にしかけてたから持ってた食パンの耳を分けたよ」
「なんで一緒にいようと思った?」
「あー……生きる意味、が欲しかったからかな」
「……生きる意味?」
「そー」
女はこくりと水を飲み込んで、何やら意味深なことを言う。
「別にさ、何のために生きるかみたいな高尚な使命感があるわけじゃないんだけどね。そんなもんでお腹は膨れないし、お腹が空くのはきついし。飯食ってりゃ勝手に心臓が動くから生きてたんだけど」
そこで一度言葉を切った女は、昼彦から目を逸らしてワクに顔を向ける。女に撫でられることが嬉しいのかフリフリと尻尾を振って「きゅうんっ」と鳴いた。
「……物心ついた時に、意味もないことをするのは面倒だって気付いたんだよね。だからって死ぬとかも考えなかったんだけど。ただ、生きるのに意味があると面倒とか思わなかったし、頑張ろうっていう活力になったんだ。私にはそういう『枠』が必要だって思ってさ」
だから、ワクって名前つけたんだよねー、なんて言いながら女はペットボトルの水を飲み干す。
ワクもすっかり水を飲み終えたようできゃんきゃんっと楽しそうに跳ねていた。
「へー、いいね」
昼彦はワクを殺した。
「……は?」
横からギャウッという友の断末魔と鮮血が降りかけられた女は呆然とする。先ほどまでワクだったその肉塊には、血に染まった手裏剣型の紙が五つ埋まっていた。
頬に付着した、ぬるついた何かを撫でると指先がべっとりと赤く穢れる……その指先を暫く眺めていた女は漸く口を開いた。
「ごめん、全く覚えてないんだけど……私、きみに何か酷い事したのかな」
この言葉から女が他人の不幸で金を稼いでいることが窺い知れた。自分が何者かの報復を受けても、全く不思議ではない人間でなければ、そんな台詞は出てこないだろう。
「いや別に?」
「えっ」
「なんか、なんとなく」
「なんとなく?」
昼彦は至極不思議そうな顔でそう言った。何でそんなことを聞くのだろうか、とでも言うような顔である。
女には昼彦が何故その顔を出来るのかが分からない。自分だって、別に命の尊さを慮れるような人間ではないが……彼のそれは常軌を逸したものだ。
「ただ、なんとなく。強いて言うなら、生きる意味なくなったらどうなるのかなって思ったから」
まるで、万物の全てを軽視しているような異常性を感じ取れたのだ。
「……ああー、きみってそういう感じの人か」
「どういう感じ?」
「よく『短慮だ!』って怒られたりしない?」
「んー……感覚派っていう自覚はある。幽はそれでいいって言ってるけど、久々李はそんな感じでよく怒るかな」
「……随分アットホームそうなとこだね」
女はゆったりした動きで、もう二度と動かぬワクを両腕で抱え込んだ。何だか、ブヨブヨしていて少し冷たい。
「元から無償で施しを受けられる程の善良な人間じゃないのは分かってたけど……まさか買い間違った120円のお水の対価が、友達の死とまでは思わなかったなぁ」
「対価? やー、別にそんなつもりじゃないけど」
「分かってるよ。神様に言ってる」
女はギュウとより一層強くワクの体を抱きしめながらポツリと一つ溢す。
「……世知辛いなぁ」
鼻声だ。ああ、ワクが死ねばこの女は泣くのか、と昼彦は思った。
生きる意味があれば、生きていることが面倒とは思わないと言っていた女だ。生きる意味がなくなれば、生きることが面倒に感じるように戻るだけかと思ったが……友の死ともなればまた違うのだろう。
昼彦の考えでは、自分にもそんな友達が出来るといいな、という結論に終わった。
「……ああ、おにーさん。言いそびれてた」
女の片手がビキリと鋭くなった。おそらく彼女の妖術はこれなのだろう。
「お水、ありがとうね」
それだけ言って、女はその片手を振り上げ、己の左胸を突き刺しては自分の心臓を抜き取り、そのままアスファルトに倒れ込む。
胸元から鮮血を撒き散らし、辺りに赤い水溜りが出来たのを見て……昼彦はあることを思い出した。
「……ああ!」
そういえば、コーラを飲みたかったんだった。
小銭入れをパカリと開いた時には、昼彦はもう女と犬の存在を忘れた。