逃水


セレーネの幻


カランコロン
年季の入ったドアベルが、来客を告げる。

マスターは入ってきた客を見ると、会釈をした。その客は、常連なのか勝手知ったる様子で迷いなく窓側のテーブル席へ向かった。お昼のピーク時を過ぎた午後の店内は空いていた。

その客が腰を下ろすと同時にお冷を持ってきたマスターは、窓の外を眺める客に問いかける。

「いつものでよろしいですか?」
「…あぁ」
「かしこまりました」

振り向きもせず、素っ気ない返事だったが、それがいつも通りなのかマスターは特段気にした様子は無かった。

「お待たせ致しました、ブレンドティーでございます。」
「…。」

マスターが紅茶を置いても、その客か窓から眼を離すことは無かった。

入店してから窓の外の雑踏を眺める客、爆豪勝己はベージュのコートを探していた。今は7月、鬱々とした梅雨が明けてカラッと晴れの日が続いた。気温も上昇し、半袖を着ている人が目立つ。コートを着ている人など、いる訳がない。爆豪にもそれは分かっていた。けれども、この喫茶店のこの席で窓の外を眺めずにはいられないのだった。

爆豪は、何度も後悔と共に思い返したあの日の出来事を回想していた。時が経てばその想いは廃れると思っていたのに、時が経つごとに増し今でも脳裏で鮮明に思い描くことが出来てしまうのだ。爆豪は目を閉じた。



『勝己』

あいつが俺を呼ぶ声も、笑うと出来るえくぼも、目を伏せた時のまつげの長さも、抱きしめた時の温もりも、全て思い出せる。

あれは、2年前。
俺には、恋人がいた。

『そうね、誕生石ならルビーなの』

あいつに何か贈りてェと思って、誕生石を問えば朗らかに答えた。

俺は彼女の誕生日に、柄にも無く夕焼けの見える海辺でルビーの指輪を渡した。

「ナマエ、愛してる。これから先も、お前を守らせてくれ。」
『ふふ、ヒーローらしい愛の誓いだね』

右手の薬指に通したルビーを夕焼けにかざしたナマエは、嬉しそうに微笑んでいた。その笑顔をこれから先も隣で見るのだと信じて疑わなかった。

『勝己の瞳と同じ色だね!』

あの頃は、何もかもが輝いていた。


俺は窓から目を逸らし、テーブルの上に置かれた紅茶のカップにやっと触れた。暫く放置されていた紅茶は、冷めていた。

ナマエに別れを告げられた日も、俺はこの席に座っていた。俺は珈琲、あいつはブレンドティーを頼んだ。会話も無く時間が過ぎ、徐にナマエが背中を丸めながら、指のリングを抜き取った。その意味を理解した俺は言った。

「俺に返すつもりなら、そんなモン捨てちまえ」
『…。』

ナマエの手のひらに置かれた、ルビーの指輪は夕陽に輝いていたあの頃とは違い寂しく鎮座していた。

彼女が次に口を開く前に、最後の言葉を聞きたくなかった俺は畳み掛ける様に言い切った。

「俺を気にせず、行ってくれ…もともとヒーローは孤独なもンだ」
『勝己…』
「俺の気が変わらぬうちに早く…消えろ」
『…。』

ナマエは立ち上がりベージュのコートを着て自身の紅茶代金を机に置くと、店から出て行った。曇りガラスの向こうの雑踏に消えていく彼女が、こちらを振り向くことは遂に無かった。

残されたのは、一口も飲んでいない冷めきった紅茶と惚れた女一人も追いかけられねェ無様な俺がいるだけだった。

あれから2年も経つというのに、未練がましくこの店に足を運んでしまう癖がついてしまった。あの日と同じ席に座り、窓の外を眺めベージュのコートを見つければコートから覗く指にルビーの指輪を探してしまう。ナマエとは、あの日終わったのに。

毎度来ると、これで最後にしようと思うのにやめられないのだ。特に、今日は…。己の未練がましさにため息をついたその時、胸元のポケットが振動した。

「…俺だ」
「爆心地?直ぐに急行して!」

今日はオフだったはずなのに、突然仕事が入ることにも慣れてしまった。ヒーローという仕事を生業にしている以上、避けては通れない道だ。手早くヒーローコスチュームに着替えると、俺は現場に向かった。

海辺のペンションが燃えているらしい。火災現場ならば、火事に適したヒーローを呼べばいい。俺の様な特攻型を読んだということは、つまり…。

現場に着くと、砂浜の方でペンションの客や従業員が避難していた。築年数は古いが、地元に愛されてきた白を基調としたそのペンションは、今は炎に包まれてしまっていた。早めに火に気がつけたことで、大きな怪我をしている人もいないようだった。

やはり、俺が呼ばれた理由に察しがついてしまった。

ホースから水を出して消化活動を行うバックドラフトが俺を見るなり任務を言った。

「このペンションの2階に、まだ女性が1人残っている」
「…逃げ遅れか」
「いや、忘れ物をしたと皆の制止を振り切り中に戻ってしまったそうだ」
「クソが」

予想は当たった。俺が呼ばれるということは、途中で戻ったりして逃げ遅れた奴の救出ってことだ。たくッ、おかしもはどうした?押さない掛けない戻らねェだろうが!

「行けそうか?」
「俺を誰だと思ってやがる」

籠手は爆薬になりかねねェから外し、ガスマスクを頭から被ると俺は2階の開けたベランダに飛んだ。

クソッ…煙のせいで視界が悪い上に火の回りが早ェ。手前右の部屋を見たが、誰もいなかった。このペンションの部屋は4つと聞いたが、炎の速度を考えれば奥まで行くのは危険だ。

手前左に、救難者がいることを願い部屋へと進んだが…誰もいねェ。俺は踵を返そうとした。

「(待てよ…)」

しかし、俺は事前に確認したペンションの見取り図を思い出す。建物の構造上、手前左側の部屋だけ死角になっている場所があったはずだ。

「…!」

急いで戻り柱に隠れた窓の付近を探すと、窓のすぐ近くで倒れている女性を見つけた。直前まで窓から脱出しようとしたが、この煙で意識を失ったのだろう。俺はその女を抱えると、二階のベランダから飛び降りた。


怪我人は救急車で近くの病院へと搬送された。俺も先程の救出作業で軽い火傷を負ったために、同じ病院で治療を受けた。この程度の傷なら自分で処理出来ると言ったのだが、半ば無理矢理連れて来られた。

手当てが終わり、さっさと事務所に戻って報告書を作成しようと部屋から出ようとすれば医者に呼び止められた。

「先ほどの負傷者が手に握っていた物なのですが、高価な様なので爆心地が一旦預かっていてもらえないでしょうか?」
「アァ?!」

俺は面倒臭ささを隠さずに返答した。先程の負傷者…と言えば、火事の中忘れ物をしたとか抜かして戻った馬鹿女のことか。そんな奴の荷物なんざ知るか、忘れ物は警察に頼め。俺には関係ない。

「ンなのケーサツに…!」

断ろうとした俺の言葉は、その忘れ物を見た瞬間に消えた。あまりの驚きに、目を見開いた。奪うようにその忘れ物を引っ手繰ると、俺は医者に詰め寄った。

「この持ち主の病室はどこだ!?」
「719号室ですが…」

俺は目の前で眠る女を眺めた。窓から差し込む夕焼けが、俺とこいつ以外いない病室を包んでいた。

2年ぶりに見たナマエは、あの頃は長く伸ばしていた髪を短く切っていて火事の時には助けた女がナマエだと分からなかった。

俺の右の手の中にある、ナマエの忘れ物を強く握り締めた。俺もこいつも、本当に阿保だ。

「なァ、早く起きてその阿保ヅラ見せろや」

お前に言いたいことが山ほどあンだよ。俺は眠るナマエの手に自分の手を重ねた。





ベランダから、目の前に広がる海を眺める。太陽に反射した海はキラキラしていて、果てしなく続いていた。

私は背伸びをして、潮の香りを胸いっぱいに吸い込む。海の見えるペンションは、口コミ以上に良い場所だった。白を基調としたこのペンションは、青い空と海に溶け込んでいた。

昔から、海が好きだった。それなのにここ数年は、海に近づかなかった。理由は自分でもよく理解している。海に来ると、元カレを思い出してしまう。

でも、今日くらい、良いかなと思った。だって誕生日だもの。誕生日に、自分の好きな場所に来たっていいじゃない。それに、あれからもう随分経った、とっくに時効だ。

そう思っているのに、海を見ると記憶が蘇ってしまう。夕焼けの中、海辺で誓った愛の幻。

仕事に追われていた人間に、休みと静寂が与えられると、忘れていた思考回路が動いてしまう。思わず触れてしまったネックレスに、苦笑した。

あの日から、2年経つのか。
元カレ…勝己と別れた日の事を思い出す。

私と勝己の出会いは、少女漫画みたいだった。残業で夜も更けた帰り道で、男の人に襲われそうになった時に助けてくれたのが勝己だった。本当に、ヒーローだった。

そこからお付き合いが始まり、私が海が好きだと言えば勝己は私の誕生日に夕陽の浜辺で愛を誓ってくれた。幸せだった。

でも所詮、プロヒーローと、一般人の恋愛なんて上手くいかない。些細なことで亀裂が生まれて気が付いた時には修復出来ない程に溝は深まってしまったのだ。

勝己に別れを告げたあの日。店の外に出た後に、勝己が引き留めてくれる、なんて思っていた。私から終わらせたのに、都合が良すぎるけれど期待してしまった。

結果は、ご覧の通りだ。

私は未だに捨てられていない、ルビーの指輪を太陽にかざした。指に通すのは何だか違う気がして、ネックレスに通していた。この指輪が私を縛っている事は分かっている、いっそ海にでも捨ててしまおうか。この事を考えるのはもう止めよう、今日は折角の誕生日に勝ち取った有給なんだ。楽しまなくちゃ!

…と思っていたのが数時間前の私。私は今、燃え盛る炎の中にいます。自室のベッドで本を読んでいると、外から慌ただしい声が聞こえた。

「火事だ!」
「みんな逃げろ!!」

驚いた私は飛び起きて、部屋を出た。幸いまだ火の手はそこまで広がっておらず、皆んなでペンションを出た。

ほっと安心して、最早癖になっている首元に手を伸ばすと、あるはずのものが無い。ベランダから部屋に戻った後、休暇の間だけは勝己を忘れようと、私の心を縛り付けているネックレスを外したのを忘れていた。ネックレスは、自室にある。

一瞬、このまま思い出が燃えてしまえば良いのではないかと思った。どうせ自分は捨てられない意気地無しなんだから、その方が良いに決まってる。

そう頭では分かっているのに、周りの止める声も無視して、いつの間にか私は走り出していた。

私は馬鹿だ。炎を避けながら、二階へと駆け上る。あの指輪を持っていたところで、勝己が戻るわけないのに。

口にハンカチを当てながら自分の部屋に行けば、ベッドや椅子は燃えていたがサイドテーブルにネックレスを見つけた。それを手に掴むと、戻ろうとしたが目眩がした。煙を吸い過ぎたかもしれない。

早く出ようとドアに目を向けたが、そこは先程より燃えていて通るのは難しそうだった。ドアが無理だとなると、残された道は、窓。これ以上煙を吸わないように、腰を低くしながら窓に向かったが、限界だった。

薄れ行く意識の中で、指輪だけはしっかりと握った。この指輪のために、私は死ぬのかな。勝己の活躍がこの目で見られなくなるのは、寂しいな。別れてからも、勝己の名前が上がれば自然とニュースを見ていた。雑誌に掲載されていれば、それを読んだ。最期まで私、未練タラタラじゃん…。次がもしあれば、次は…。



意識が浮上すると、私は固いベッドに仰向けで寝ていた。体の節々が痛かった。あれ、私何してたんだっけ…。未だ覚醒していないぼやけた視界に、白いベッドが写った。ツーンと鼻にくる薬品の匂いと共に、ここは病院なのだと理解した。

思い出した。私、火事に巻き込まれたんだ。ペンションが燃えて、私は指輪を部屋に忘れたから、それを取りに戻って…。

『そうだ、指輪…!』

思い出すや否や、上体を起こし慌てて両手を確認するが、あれ程握りしめていた指輪は無かった。しばし放心して両手を見つめていると、何かが視界を横切った。

「探しモンはこれかよ」

私の目の前で、チェーンを通したルビーの指環がユラユラと揺れていた。

『……!』

目の前にいきなり指輪が現れたのにも驚いたし、何よりも声の主に驚嘆した。別れたはずの恋人、勝己がいるのだ。しかも、私の指輪を持って…。

『これは、夢…?』
「夢じゃねェわ。3日も寝てたのにまた寝る気かよ」
『3日!?…仕事どうしよう…』
「そこかよ」

3日間も無断欠勤してしまったと知って、血の気が引いた。

「俺が連絡しといてやったから大丈夫だ」
『…そもそも何で勝己がここにいるの?』
「まだ頭がボケてンのか?」
『…。』

プロヒーローである勝己が私の病室にいて、私が取りに戻った指輪を持っているということは…。

『…私を助けたのは勝己?』
「お前が火事の現場に戻る大馬鹿野郎だとは知らなかった」
『…。ごめんなさい…』
「まだ、持っていたとはな」

勝己はルビーの指環のネックレスを掲げた。未練がましい女だと、思われただろう。過去の恋人に貰った贈り物のために、命を賭ける馬鹿がどこにいる。

『…持ってちゃ悪い?』
「いや」

半ばヤケクソに答えれば、勝己は意外にも静かだった。勝己は私の掌に、指輪を通したネックレスを置いた。

「お前がこれを持っているッつーことは、まだ俺にチャンスがあると受け取っていいのか?」
『…何言ってるの?』

ああ、やっと勝己に会えたのにどうして可愛げのない言葉しか出てこないのだろう。本当は勝己が好きで仕方がないのに、私は真逆のことを話してしまう。

「俺は、あの時のことを後悔してる」
『…。』
「あの時、変なプライドなんか気にせずお前を追いかけていれば良かったと何度も思った」
「俺は言ったな、ヒーローはもともと孤独なもンだと」
『…。』
「そう思ってた」

今更何の話をしているんだと、私は俯き掌のルビーの指環を見つめた。勝己は、私の枕元付近に腰掛けた。

「だが違ェ…。お前がいねェ方が孤独だった」

どうしてそんなこと言うの。もう2年も経つのに、期待させるようなこと言わないで。

『嘘』
「嘘じゃねェ…俺を見ろ、ナマエ」

ずるい、そうやって名前を呼ばれたら顔を上げるしかないじゃない。久し振りにテレビの画面ではなく間近で見た勝己は、額に包帯が巻かれていて思わず手を伸ばした。

『痛い…?』
「痛くねェ」
『この傷、私のせい…?』
「お前を守れる為なら安いもんだ」
『…。』
「ナマエ」

そっと伸ばされた腕に、抱き締められた。温かくて、泣きそうになった。

「無事で良かった…」

勝己の声も、少し震えていた。私達、不器用だなと思う。こんなに抱き締める腕は揺るぎないのに、肝心の言葉がお互い出てこない。

「なァ、もう一度聞いてくれるか?」

勝己はベッドから降りると、床に跪き私の掌のルビーの指環に触れた。

「この指輪に誓う、ナマエ…愛してる。これから先も、お前を守らせてくれるか…?」
『…喜んで…!』

涙に濡れたルビーの指環は、今までで一番美しかった。




カランコロン
年季の入ったドアベルが、今日も来客を告げる。

このお店を開いてから、色んな光景を目にした。駅近ではあるが、一本通りに入った所に位置しているこの喫茶店は人目に付きづらい。それでも、客足が途絶えることはない。もっぱら、常連客のおかげではあったが。

私は、個性の関係もあるが自分の店に訪れたお客の顔は全員覚えている。今来店した男性が、初めて来た時の事もよく覚えている。

その時彼は、女性と来ていた。窓側の席で、重苦しい雰囲気を醸し出していた。暫くして彼女が立ち上がり、店から出て行った。彼女が雑踏の中へと姿を消すと、先程まで強気だった彼の表情が寂しげに変わったのが印象的だった。

それから時折、彼はこの喫茶店に来ては窓を眺めている。あの時彼女が注文していた紅茶を頼み、彼はガラスの向こうを歩く人波を見つめながら過ごす。そして紅茶には、一口もつけないまま帰るのだ。何度か彼が店に来るうちに、彼がプロヒーローの爆心地だと知った。ヒーローには疎かったが、周りのお客が話しているのが耳に入った。

今日も、彼は1人で入って来た。いつも通りの窓側の席で窓の外を眺める彼に問いかける。

「いつものでよろしいですか?」
「いや、珈琲を頼む」
「かしこまりました」

彼はいつもの紅茶ではなく、珈琲を注文したことに疑問を持った。

その答えは、数分後に明かされた。爆心地のいる窓ガラス越しに女性が来たのだ。彼女は窓ガラスを控えめにノックすると、彼に笑いかけた。彼女は、あの時の…。

爆心地は珈琲を一気に喉に流し込むと、立ち上がりレジに来た。私は、何故か彼はもうここには来ない気がした。

最後ならばと、お釣りを待つ爆心地に勇気を出して声を掛けた。

「あの、」
「あァ…?」
「サイン…頂けますか?記念に…」

彼は、会計を済ませ出て行った。店の外にいた彼女と腕を組み、曇りガラスの向こうの雑踏に紛れて行った。

それから彼がこのお店を尋ねて来ることは無かったが、それで良いと思った。

「あれ、マスターいつのまに色紙飾ったの?」
「ついこの間ですよ」
「へぇ〜…!ちょっと待って、これ爆心地のじゃん!なかなかサインしてくれないって聞くのに、マスターどうやったの!?」
「普通に頼んだだけですよ」

私は店の壁に飾った力強いサインを見ると、微笑んだ。


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