まじないの話
歌が聞こえる。中庭の林檎の木の下で四、五人の背の高い生徒に囲まれ、軽いソプラノの歌を口ずさむ女がいる。
男ばかりのこの学園で女の声はよく目立つ。クルーウェルはそれを中庭に面した外廊下で見つけると、なんとなしに足を止めた。
女は生徒の大きな手を片手に取り、両目を覆って細い杖を螺旋を描くように振るっていた。杖の先から器用に魔力の糸を紡ぎ、それを精巧に織り上げて何かの魔法を使っているらしい。
こんな特技を持つのはこの学園でもそう多くはない。ヒトハ・ナガツキは魔法の扱いにかけては特別器用な女だった。
「あら、先生。こんにちは」
ヒトハはクルーウェルが近くまで来ていることに気が付くと、生徒達の隙間から顔を覗かせた。
「何をしているんだ?」
それは単純な興味からだった。居心地悪そうにする生徒を置いてヒトハに尋ねると、彼女は「おまじないです」と悪戯っぽく笑った。
「私が学生の時に流行ったんです。まぁ、古いおまじないなので効果のほどは分かりませんが」
聞けばそれは長旅の無事を祈る、あるいは戦地に向かう者の帰還を願うような古いまじないなのだという。現代においては無用なもので、その効果はよく分かっていないようだ。
もしかしたら、当時彼女の周りにいた学生達が迷信じみたものを面白がって使っていただけなのかもしれない。
クルーウェルは一般的な魔法士よりは広い分野で深い知識を持つが、ヒトハの言う“まじない”については覚えがなかった。
「先生もどうです?」
「あ、おい……」
そうお伺いを立てながら、ヒトハは勝手にクルーウェルの手を取ると、先ほどやっていたように杖を振るった。
――紡げ金の糸 彼の地に届け 繋げ 彼の人が戻りますように 無事でありますように……
ヒトハは杖先から伸びる細い金の糸を器用に編み上げてクルーウェルの赤い小指に巻くと、その先から一本伸びた糸を自身の小指に結んだ。彼女が糸を紡ぎながら口ずさむ歌は童謡のようなゆったりとしたもので、どこか物悲しい。繊細な魔力の糸は、やがてそのまま指に溶け込むように消えていった。
「――と、まぁ、こんな感じです。何かいいことあったらいいですね」
ヒトハはまじないを終えると、クルーウェルの手をそっと放した。同時に昼休みが終わる鐘が鳴り響く。
二人の様子を観察していた生徒達は「やべ、次バルガスの授業だ」と教員の前で無礼な物言いをして、「ヒトハさん、またね」と慌ただしく走って行った。
時間に余裕があれば捕まえて叱ってやるところだが、自身もまた次の授業を控えている。クルーウェルはヒトハに「あまり仔犬どもを調子に乗らせないように」と言い付けると、教室へ向かった。
その後しばらく微量の魔力が小指に残っていたが、それも気が付いた頃には完全に消えて無くなっていた。
次の授業は防衛魔法の実践だった。
クルーウェルは魔法薬学や錬金術を主とした理系科目を担当しているが、時に防衛魔法の授業も行う。攻撃魔法を使用するため、危険も伴う授業だ。とはいえそれなりに訓練を積んだ身であるから、ちょっとのことでは怪我を負うことはない。
しかしごくたまに、魔法力の高い生徒が力を暴走させることがある。
クルーウェルは指導をしていた生徒の風魔法が制御を失い、こちらに向かって来るのに気が付いた。強い魔法だが、自分に向かって来るなら防げないことはない。だがその魔法は未熟なために不安定な軌道を描き、直前になって近くにいた生徒の方へ向かった。
「下がれ!」
クルーウェルは怒号に近い声を上げ、咄嗟に生徒を突き飛ばした。しかしその動作が入ったせいで自分の防御が間に合わない。生徒の叫びが上がる。
頭への直撃だけは避けなければ。クルーウェルは本能的に腕を盾にした。腕一本、切り傷で済めばまだマシな方だ。あとは保健室に駆け込んでどうにかなるか――
(…………?)
最悪を想定して覚悟を決めたつもりでいたが、しかしいつまでたっても痛みが襲ってこない。
気が付けば、刃物のように肉を切り裂くはずだった風魔法は、最初から無かったかのように消え去っていた。
「なんだ……?」
生徒達は防御の魔法が成功したと勘違いをして次々と安堵の声を漏らしたが、クルーウェルにはどこか納得のいかない気持ち悪さが残っていた。
あの時、魔法は間に合わなかったはずなのだ。今頃この腕は無事では済まないはずなのに。
とはいえそれをいつまでも気にするわけにもいかず、魔法に失敗した生徒をきつく睨み、指揮棒を激しく振るった。
「そこの駄犬、貴様は放課後コロシアムに来い! 躾け直しだ!」
それを機に授業の空気はいつも通りに戻っていき、結局、誰もがその奇跡に気が付くことは無かった。
「面白いものを持っておる」
最後の授業が終わり、魔法薬学の授業で使った器具を片づけている時。夕陽に染まった教室で、ふと楽しげな声がした。
振り返れば見た目の割に年寄りじみた態度を取る生徒――リリア・ヴァンルージュが薄く笑みをたたえて教室に一人残っている。
茨の谷のマレウスのお目付け役だ。この独特な雰囲気は今に始まったことではないが、今日に限ってはいっそう怪しさが増していた。
クルーウェルはどこか胸がざわつくのを隠しながら「どうした」と問いかけた。
「いやなに、懐かしいものを見たのでな」
「懐かしい?」
「祝福を受けておる。今どき珍しい」
祝福。古めかしい魔法の一種だ。そんな仰々しいものを受けた覚えはないが……と眉を顰めつつ、一つ思い当たることがあった。
「まさか、“まじない”か?」
「“まじない”?」
リリアはクルーウェルの言ったことを復唱すると、けらけらと笑った。
「いいや、それは祝福じゃよ。あるいは守護とも言う。紛い物はよく見るが、今どきそれをちゃんと使える魔法士が存在するとは、面白い」
リリアは祝福を授けた魔法士に心底感心したように言って顎を摩り、血のように赤い瞳を怪しく光らせた。そして「その魔力には覚えがあるな」と暗に答えを当ててみせる。
まどろっこしい言い方だ。茨の谷の生徒は妖精族も多いせいか、どこか古臭く堅苦しい言い回しをする。
「その魔法を使うということは並大抵の想いではなかろう。一度限りじゃが強力な守護の力が働く」
そして黒い革手袋に覆われた指先をクルーウェルのそれに向けた。
「強い力には代償が伴うもの。よくよく気をつけるがよい。――もしかしたら、手遅れかもしれんが」
クルーウェルはもはや隠しもせず不快感を滲ませた。
リリアが悪いのではない。この身に受けた祝福とやらが、ひどく恐ろしく厄介なものに思えたのだ。代償などと、なんと不吉な。
「忠告痛み入る。重々気をつけよう」
そんな言葉を冗談のように口にしながら、同時に予感のようなものがあった。
この胸のざわつきが、気のせいであればいいのだが。
***
翌日、クルーウェルは中庭の林檎の木の下で、またもや生徒に囲まれているヒトハを見つけた。
今日はあの“まじない”とやらはやっていないらしく、木にもたれて楽しそうに雑談をしている。
しかしいつもと姿が違うように見えて、思わずそちらへ足が向いた。
「ナガツキ、その手はどうした」
クルーウェルはヒトハが珍しく手袋を外している手を指さした。
その手にはぐるぐると白い包帯が巻かれていて、どうやら一回り大きくなったせいで手袋が嵌まらないらしい。包帯が巻かれていない指先に、いつもと変わらず酷い火傷跡のようなものが見えている。
ヒトハはその手を目の前に広げて「ああ、これ」と苦笑した。
「昨日包丁を使っている時に手を滑らせてザクッとやってしまいまして。保健室がまだ開いていたのですぐに診てもらえたから良かったんですが……。やっぱり日ごろから包丁を持たないからですかね?」
でも、なんであんな風に手を滑らせたか分からないんですよね。なんて笑うのを生徒達が「ヒトハさん抜けてるから」「もっと料理練習しなよ」と茶化す。
クルーウェルはとてもではないが笑えるような気にはなれず、その手を凝視していた。
巻かれた包帯の厚みからして、薄い切り傷程度ではないだろう。恐らくざっくりと肉を切ったはずで、そしてその手は、昨日自分が授業で怪我を負うはずだった方の手だった。
――強い力には代償が伴うもの。
――もしかしたら、手遅れかもしれんが。
ぞっと背筋を這い上がる悪寒を感じながら、クルーウェルは声をかすかに震わせ、問いかけた。
「昨日、お前が“まじない”を掛けたのは何人だ?」