ある夕暮れ時の話
 金属製の万年筆が地面に叩きつけられる。ことの激しさの割に、あっけのない音だ。

「――よし」

 ヒトハは自身の杖に付いたものを払うように短くひと振りすると、定位置に収めた。これは学生時代からの癖で特に意味はない。ただこうすると無意識に“決着がついた”と感じるのか、ほっと緊張が解けるのだ。
 サバナクローの一年生は悔しそうにしながらも「ありがとうございました!」と気持ちよく対戦の感謝を述べた。
 ここはナイトレイブンカレッジのコロシアム。魔法を使った激しい訓練にも使用されるこの場所は、かなり大きな魔法を使っても外に影響が出ないのだという。厳重な結界魔法は魔法士養成学校では必須のものである。
 ヒトハはこのコロシアムで元気の良いサバナクローの生徒から挑戦を受けた。表向き防衛魔法の指導をして欲しい、とのことだが、実際はトリッキーな戦法ばかり使うヒトハからどうやって一本取るか彼らなりの挑戦というところだ。攻撃魔法を使うものの、お互い傷つけ合いたくてやってるわけでもないし、敵意や殺意があるわけでもない。純粋な勝負として持ちかけられるこの挑戦を、ヒトハは大抵の場合、快く受けることにしている。

「ふふ、そろそろ私、負けちゃうかもですね」

 と笑うと、生徒は「自分はまだまだっス!」と言いながら頭を掻いた。
 サバナクローの寮生は強い者に従う。この単純で明快な構造はヒトハにとって好ましく、一方で不安でもあった。

(負けたら戦ってくれなくなっちゃうのかな……)

 生徒たちが自分より強くなっていくのは嬉しい。けれどそうなると自分はいらなくなってしまう。あの期待に満ちた目で声を掛けてもらえなくなる。そうでなくてもここは学校で、生徒たちは皆大人になるためにここをいつか出て行くのだ。

「あ、ヒトハさん、お迎えっスよ」
「お迎え……? げ!」

 生徒から言われて振り返ると、黒と白の縞々のコートが目に入った。遠目に見ても相当にマズい状況だ。次の瞬間には「カム!!」と叫び声が飛んで来て、逃げようものなら魔法で強制的に引き留められるだろう。

「あーもう、なんでバレたの……」
「コロシアムの利用申請、ヒトハさんの名前で出しました! すみません!」
「はぁ!?」

 他人の名前で申請しないでください!と主張する間に案の定呼び寄せられてヒトハは頭を抱えた。少しだけバツの悪そうな顔をしている生徒だって知っているはずだ。彼が「何をしでかすか分からん」という理由で戦いの場にヒトハを立たせたがらないのを。

「今度は自分の名前で申請するように。いいですね?」

 そう言い残して縞々コートの彼――クルーウェルの元に駆け付けると、彼は苛々と指揮棒を手のひらに叩きつけた。

「遅い! 俺に呼ばれたら必ず十秒以内に来い!」
「そんな無茶な」

 そうしてヒトハは、いつも通り回収された。
 コロシアムを囲む高い壁に陽が沈んでいく。ちょっと泣けるのは、夕日が目に染みたせいに違いなかった。


 クルーウェルは「お前の無謀な戦闘行為は目に余る」だの「仔犬とはいえ侮るな」だの散々小言を口にしながら、最後には「保健室に行くぞ」とヒトハを引っ張った。
 手も足も無傷だったが、言われてみると顔を風の魔法が掠ったときに指を紙で切ったような嫌な痛みがあった気がする。ヒトハはそのことを思い出して頬を触ろうと手を持ち上げ、「触るな」と再びきつく叱られたのだった。

「保健室の先生、居ないですね」
「その程度なら消毒でもしておけばいいだろう」

 クルーウェルは先生が不在の保健室にずかずかと入り込み、迷いなく棚に手を掛けた。
 彼は一見品の良さそうな顔をしていながら、たまに大胆なことを平気でやってのける。それに問題があったとしても巧妙に隠蔽して涼しい顔をしているタイプだから、心配したところで無駄というものだった。
 ヒトハは適当に回転するスツールに腰かけて足元を遊ばせた。キィキィと金具が擦れる音を聴きながら窓の外に目をやると、コロシアムで抱いた感情が急に込み上げてくる。夕暮れはあまり好きではない。昼と夜の境目で、それがどこか終わりを感じさせるからだ。

「いつまでそうしているつもりだ?」

 呆れたような声に驚いて振り返ると、いつの間にかクルーウェルが向かいに座っていた。「右を向け」と指示されてもう一度窓の方に目をやれば頬に消毒用の綿が押し当てられる。

「痛い……」
「だろうな」

 彼はさも当然と言った様子でさっさと治療を終えると、道具を片付けながらヒトハに言い聞かせた。

「いい加減仔犬どもと戯れるのをやめろ。教員ならまだしも、よちよち歩きの仔犬では手加減が分からんだろう。大怪我をしてからでは遅いんだ。そうでなくともお前は」

 と、ふと言葉を止める。

「いや、すまない」
「いいえ。言ってください」

 ヒトハは彼の言わんとすることを知っている。今まで生きて何度も聞いてきたような言葉を今更予測できないわけがなかった。ただそれを以前なら聞きたくないと思っていたのが、今は聞きたいとすら思っている。それはその言葉がもう自分を傷つけるものではないからで、そしてなにより、彼の言葉に偽りがあって欲しくないと願うからだ。

「お前は人より魔力が少ない。お前の魔法は戦いのためにあるものではないのだろう」

 ヒトハはきょとんとして目を瞬いた。本音を言ってもいいと言ったのに、その言葉は何重にも綿で包まれたように優しい。
 思えば彼は今まで一度だって“魔力が乏しい”だとか“適性がない”とは言わなかった。決してヒトハの魔法士としての尊厳を踏みにじることはしない。それが教師であるがためか、自身の高いプライドのためかは分からないが。
 ヒトハは小さく笑って「分かっています」と返した。

「ただ、なんというか、昔はあまりこういうことは好きではなかったんですが、今はこのおかげで生徒達に求められる自分が少し好きなんです。意味のない特技に意味が出来たような気がして」

 自分を語るというのが少し気恥ずかしく感じて俯くと、スツールがキィと鳴いた。

「求められるうちは応えたいんですよね。多分、そのうちみんな飽きちゃって止めると思います」

 ――寂しい。その言葉が最もしっくりと来た。自分にとって得難い大切なものたちが、自分の元から離れていく。どこか置いて行かれるような気がして、とても“寂しい”のだ。

「先生も私の傷痕が治ったら、私と会ってくれなくなりますか?」

 ふと顔を上げると、クルーウェルは不可解なものを見るような目でヒトハを見返した。

「俺がそんな薄情な人間だとでも?」
「……たまに薄情ですよね?」
「“教育は飴と鞭”が信条だからな。時に情を捨てなければならないこともある」

 冗談めかして笑いながら立ち上がり、道具を戻しに棚へ向かう。その姿をヒトハは目で追った。
 情のある人間であることは知っている。時に淡泊で、厳しく、情を感じない瞬間もあった。けれど確かに優しくもある。全てが上手く均衡を保って成り立つ人だ。表面的にはかなり厳しく、捻くれた人間であるのだろうが。

「つまらんことでいちいち悩むな。時間の無駄だ」

 そう言いながら戻ってきたとき、彼は一瞬はっとして、再び静かに向かい側の椅子に腰を下ろした。

「なんだ、寂しいのか?」
「ちょっとだけ。夕方だから、しんみりしちゃうのかも」

 自分がしばらく辿り着かなかった答えに一瞬で辿り着いたことが少し面白くて、ヒトハは笑いながら答えた。顔に出ていたのなら、鏡を見れば良かったのかもしれない。
 クルーウェルは釣られてふと笑うと「一杯だけなら付き合ってやる」と言った。彼は酒を「やめろ」と言うことはあっても勧めることはほとんどない。

「一本?」
「一杯だ。いいから行くぞ」
「はぁい」

 夕暮れはあまり好きではない。昼と夜の境目で、それがどこか寂しさを感じさせるからだ。けれど一緒に境を越えてくれる人がいるのなら、この寂しさが形を変えて温かいものに変わることもあるのだろう。
 ヒトハは先に保健室を出たクルーウェルを追い、夜に移る空を置いて扉を閉めた。
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