Second day
学校を卒業したら、大人になったら、結婚したら、しなかったら。そんな未来の可能性のうち大人になった自分というのを急に目の当たりにして、どうして冷静でいられるだろうか。ヒトハはクルーウェルから受けた特別講義の内容を何度も繰り返しながら、そんなことを考えていた。
彼は『この魔法にかかった者は非常に精神状態が不安定になる』のだと言った。つまり自分の今の精神状態は、なんら不思議ではないということになる。
(……こわい)
ヒトハは慣れないベッドの上で膝を抱え、ただ何をするわけでもなく宙を見ていた。夢であればいいのに、このシーツの手触りも、外から聞こえるささやかな音も、月明かりに伸びる自分の影も、どれもこれもが生々しく、夢ではないのだと思い知らせてくる。
たとえ自分の今の状態が不思議ではないと説かれたところで、簡単に気持ちに折り合いがつけられるなら、凶行に及んだり、自死を選ぶ者などいやしないのだ。そんな当たり前すぎる事実に気が付けるのは、きっとこの魔法にかかった者だけだ。そして彼らは苦しんで、その苦しみさえ結局は忘れる。
忘れることは怖い。元の自分に戻るだけだと分かっていても、今この時の自分がなかったことになるのは、今のヒトハにとっては死に近いことだった。
***
「おはようございます」
「おはよう。よく寝……れていないようだな。無理もないか」
翌朝、クルーウェルは自分の指定した時間ぴったりにヒトハの部屋に訪れた。まだ朝の早い時間帯だというのに、身だしなみは頭のてっぺんから爪先まで文句のつけようがないほどに整っていて、黒のスラックスなど皺ひとつ見られない。
対してヒトハは散々なものだった。どうしても寝付けずにほとんど起きていたせいで酷く眠い顔だし、髪は整えるのも面倒で適当に束ねている。何を着ればいいのか分からないまま選んだ服は、クローゼットの一番手前にあった清掃員の制服らしきものだ。大人の姿とはいえ自分用のはずなのに、他人から借りたもののように着心地が悪い。
クルーウェルは身支度が半端なままのヒトハを上から下までさっと見て、手元で目を止めた。
「手袋はしていないんだな」
「あ、はい。お掃除するから着けてたんですよね? 今日はいらないかなと思って」
そう答えて、ヒトハも同じく両手を見下ろした。短く切り揃えられた爪に、利き手にはペンだこがある。見慣れた何の変哲もない手を、クルーウェルは複雑そうに見ながらも「そうか」と素っ気なく返した。
もしかしたら、あの手袋には何か自分の知らない特別な意味があったのかもしれない。一瞬そんな考えが頭をよぎって、急に心許ない気分になった。けれどそれを知ったところで何から何まで大人の自分に合わせるというのも、なんだか気に入らない。自分はしがない魔法士養成学校に通う女子生徒で、決して彼の知る、この学園で働く清掃員ではないのだ。
「髪が少し落ちているな」
クルーウェルはヒトハの首元に髪が落ちているのを目ざとく見つけて、指揮棒を弧を描くように短く振るった。すると無造作に結わえていた髪がふわりと解け、軽く引っ張り上げられる。
ヒトハはそろそろと手を頭の後ろにやり、頸のあたりをさすった。後毛がすっきりと持ち上がっている。鏡を見なければどうなっているかは分からないが、少なくとも、この身だしなみに厳しそうな男にとっては合格点であるらしい。クルーウェルは満足げに「よし」と言うと、指揮棒を下ろした。
「あ、あの、ありがとうございます」
「礼はいい。俺の仔犬に相応しい毛並みに整えたまでだ」
「仔犬……?」
仔犬、といえば、あのワンワンと可愛らしい犬のことである。彼は魔法薬学室で男子生徒のことを「駄犬」と呼んではいたが、まさか自分がその対象になるなんて思ってもみなかった。どうやら彼にとって生徒、もしくは自分の保護下にある者はすべからく“犬”になるらしい。
「大人のお前は自分のことを俺の忠犬だとか猟犬だとか言っていたぞ。今のお前なら差し詰め仔犬といったところだ」
「忠犬? 猟犬?」
ヒトハはわけもわからないまま繰り返しては首を傾げた。
大人の自分がどんな意図でそんなことを言ったのかは分からないが、自分の性格は自分がよく分かっているから、必要以上にへつらっていたわけではないだろう。考えられるのは、大人になるまでに性格が変わってしまったか、よほど彼のことが好きで変態的な趣味を身につけてしまったか、あるいは――
(私はこの人に何か大きな恩があるのかも)
ヒトハはそっとクルーウェルを見上げた。忠犬だとか猟犬だとか支配されるような付き合いをしていたなら、どうしてこの男はこんなに穏やかな目で自分を見るのだろう。
(知りたい……)
この不思議な関係への興味が、胸の奥でちらりと燻った。
(でも……)
どうせ残り六日程度の命だ。知ったところでなんの意味もない。そう考えたら、急激に気持ちが冷めてしまった。知るということがただの興味のためなら、いっそ知らないという選択の方がシンプルで簡単で、そして楽に違いない。
ヒトハは開きかけた口を悟られないまま、そっと閉じた。
昨日は何を口にしても何も感じられなかったのに、今日は塩気のあるスープがじんわりと身体に染みた。心を置いて、身体はもうこの世界に慣れようとしている。
ヒトハが連れられてやって来たのは昨晩同様の食堂で、クルーウェルはテーブルの下で長い足を組みながら「今日の予定だが」と切り出した。相変わらず三食共にするつもりなのか、今は優雅に食後のコーヒータイムに突入している。
「お前のことはすでに教職員とゴーストたちの間で共有が済んでいるから、自由にして構わない。何か希望はあるか」
ヒトハはスクランブルエッグを突いていた手を止めて「ゴースト?」と思わず聞き返した。
ゴーストといえば強い未練があってこの世に留まっている存在で、通常生きている者はそれを目視することができない。子供から大人まで知っている常識だ。
「この学園ではゴーストが目に見える。そこら中にいるし、仕事がある者もいる。大人のお前は彼らと共に仕事をしていたから、ほとんどのゴーストはお前に友好的だろう。心配する必要はない」
「心配は、ないですけど……」
話に聞いたことある程度の存在がそこら中にいるというのが気になってしまって、ヒトハは歯切れ悪く答えた。
ここではどうしてゴーストが目に見えるのか、どうして仕事をしているのか、それもどうやって……そんな素朴な疑問がとめどなく湧いてくる。
(大人の自分なら全部知ってるのかな)
ほんの少し羨ましかった。勉強は得意ではないが好きで、分からないことは何でも知りたい。極東の小さな島国という箱庭で育って学んできた身では得られないものを、大人の自分は当たり前に得ているのだ。
難しい顔をしているヒトハを見てクルーウェルは何かを勘違いしたのか、静かにカップを置き、気遣わしげに言った。
「大人のお前が『先輩』と呼んでいたゴーストが一日傍にいてもいいとのことだ。いた方が安心か?」
「あ、いえ、大丈夫です。みんなお仕事をしているんでしょう?」
そしてふと頭に浮かんだ言葉を、ヒトハはそのままクルーウェルに伝えた。
「私、図書館に行きたいです」
ナイトレイブンカレッジの図書館は、まさしくその学園の歴史を物語っている。高い天井に届くほどの書架は三階建ての壁一面を覆うほどで、そのほとんどが自分の学校で見る無機質な鉄製ではなく、年季を感じる木製だ。梯子が随所に見られるように使い勝手は良くないが、ヒトハにとってはこちらのほうがずっと魅力的に見えた。きっと所蔵する書物の数も質も比べものにならないのだろう。
しかしいかに質の良い図書館でも午前中から利用する学生はいない。ヒトハは広い図書館の中でも隅の目立たないところに陣取って、自分の知る本を積んだ。魔法解析学と錬金術、魔法薬学の本と難しいものばかりだが、どれも気が付けば余計なことばかり考えてしまう自分にぴったりの本である。クルーウェルが迎えに来ると言った昼休みまで、そしてその後の時間までたっぷりと使ってしまえば、この不安で憂鬱な気持ちにも、とめどなく湧いてくる不要な興味にも向き合わずに済む。
「あれ? ヒトハさん?」
そんなヒトハの目論見は、昼休み開始の鐘が鳴った瞬間に崩れ去った。
課題に使う本を求めて慌ただしく図書館にやって来た生徒三人と使い魔らしき猫が、ヒトハの机の前で足を止めたのだ。
「こ、こんにちは」
ヒトハはさっと錬金術の本から顔を上げて、咄嗟にそう返した。生徒たちはどうやら大人の自分と知り合いのようである。自分から状況を説明できる気がしないのもあって、ヒトハはドキドキしながら“いつも通りの自分”になろうとした。
けれどどんな態度で接して、彼らをどう呼んで、どう呼ばれていたのかを知らない。学校では気安く話せる相手があまりいなかったせいで、上手く仲の良い間柄を演出する方法が分からなかった。
「なんか……いつもと違うような」
三人のうち、赤い髪の生徒がヒトハの顔を覗き込んで首を捻った。髪色よりも鮮やかな赤い瞳がじっと見つめてきて、ヒトハは顎を引き、そっと目を反らした。青い髪の生徒が「エース、ヒトハさんに失礼だぞ」と慌てて咎めるが、いまいち効果がない。好奇心旺盛で敏感なエースという少年は、ヒトハが普通ではないということにすでに気が付いていて、なんとしてでも違和感の原因を知りたがっていた。
「えー? デュースも監督生も分かんない? 今日はなんか――ぐえ」
「仔犬、お前がやるべきは俺の課題提出であって、ナガツキを困らせることではないはずだが?」
いよいよ説明しなければならないかと思ったそのとき、やっと現れたクルーウェルはエースの首根っこを掴んで素早くヒトハから引き離した。
「クルーウェル先生」
思わず名前を口にすると、エースを間に挟んで一瞬の目配せがあった。ヒトハはそっと胸を撫で下ろした。
「だって先生、今日のヒトハさん、いつもと違うじゃないですか。先生なら分かりますよね?」
エースは未だに首を捕らえられながらも不満げに口を尖らせる。
あと少しでたどり着く答えを知りたがるエースに、クルーウェルは眉一つ動かさずに淡々と答えた。
「ナガツキは駄犬どもの不始末で魔法にかかっている。お前たちの年齢と変わらないくらいに、過去の状態に戻る魔法だ。当然、お前たちの記憶などないからそのつもりで接するように」
クルーウェルの答えに一番に反応したのは、デュースと呼ばれた青い髪の少年である。
「ええ!? じゃあヒトハさん、もしかして今、十代!?」
「えっ、えっと」
気圧されて答えを言い淀むヒトハを救ったのは、またしてもクルーウェルだった。
「ステイ! 初対面の女性に対してなんて不躾な態度だ。俺の躾が疑われるだろうが」
「初対面の……女性……確かにそうですね。すみません、ヒトハさん」
「い、いえ……」
勢いのある謝罪にまたしても驚いてまごつくヒトハを見て、やっと解放されたエースは襟を整えながらにやりとした。
「まぁでもヒトハさん、性格子供っぽいし、あんまり変わんないんじゃないの?」
クルーウェルが深々とため息をついて「トラッポラ」と鋭く咎める。
「大人というものは相手によって自らの立場を変えるものだ。分かったらさっさと行け。昼休みをふいにしたいなら好きにしろ」
これ以上は何も言わせまいとする声に、さすがの三人と一匹は長居は出来ないと理解したのか「はぁい」と口を揃えた。そのときヒトハは使い魔の猫も言葉を話すことに気が付いた。この直立する巨大な猫は、ひょっとすると魔物の類かもしれない。自分と同じくらいの若さでもう魔物を使役しているとは、さすがはナイトレイブンカレッジの生徒だ。
生徒たちがぞろぞろと図書館の奥に歩いて行くのを見送り、ヒトハはクルーウェルを見上げた。彼は何か考えごとをしている様子で、目の前に積まれた本に目を落としている。
「あの、私って子供っぽいんですか?」
「見方によってはそうだろうが、単に仔犬どもに懐かれやすい性格なだけだろう。気にすることではない」
そして一番上の錬金術の本を手に取り中身をさっと確認して「それよりも」と顔を上げる。
「まさか、ずっと勉強をしていたのか?」
「……はい。余計なこと、考えなくていいですし。ここなら誰にも迷惑かけないし。残りの日はここで過ごそうかと」
残り六日間、何か気を紛らわせるものといえばこれくらいしか思いつかなかった。学園内を歩き回ったって結局なかったことになるのなら、誰の手も煩わせずじっとしている方がいい。
図書館での籠城を決めたヒトハを見下ろして、クルーウェルは先ほどエースに向けたものとは違う、悩ましげなため息をついた。
「そういえばそういう奴だったな、お前は……」
そんな呆れた声に、ほんの一瞬胸が痛んだ。何も悪いことなどしていない。むしろ、なるべく手間がかからないように過ごしているのだから、そっとしておいてもいいくらいなのに。
クルーウェルは俯いて目を合わせようとしないヒトハの前に、手にした錬金術の本を立てた。それは飾り気もなければ面白みもないようなつまらない表紙で、勉強でなければ恐らく手に取りもしないようなものだ。それが彼の赤い手袋に掴まれているだけで途端に鮮やかに見えて、そして――なんだか嫌な予感がした。
「そんなに勉強がしたいならさせてやろう。喜べ、数ある魔法士養成学校の中でも最高峰の教育を受けさせてやる」
***
「仔犬ども! 躾の時間だ!」
ヒトハはその激しい授業開始の合図に、このまま引き返してしまおうかと思った。勢いよく開け放たれた扉の音と共に、実験室の中が一気に静まり返るのを感じる。それはとても調教じみていて、彼の持つ指揮棒が急に鞭に見えてくるから不思議だ。
廊下と実験室の境目で、ヒトハは中に入るのを渋って足踏みをした。
「最高峰って、クルーウェル先生の……」
聞こえるかどうかの小さな呟きに素早く振り返り、クルーウェルは得意げに口の端を吊り上げた。
「当然、この俺が教鞭を執る授業に決まっている。開始の鐘は鳴っているぞ。早く入室しろ」
「は、はぁ……」
ここまで来たらもう逃げることは叶わないだろう。ヒトハは錬金術の教科書を両腕にギュッと抱えてそろそろと実験室に足を踏み入れた。
今の見た目は白い実験服で、生徒に紛れても違和感はない。しかしここは男子校で、明らかに女子であるヒトハにとっては居心地が悪い場所だ。興味深げな視線が注がれる度に消えてしまいたい心地になりながらクルーウェルについて行くと、生徒のひとりが「あれ? ヒトハさん?」とどこかで聞いたような言葉を口にした。
この学園ではヒトハ・ナガツキという大人の自分はそこそこに知られているようで、「なにしてんの?」と友人かのような声がかかる。ヒトハさんって誰? 清掃員の。ああ、あの――そんな声が実験室を飛び交ったところで、クルーウェルの指揮棒が激しく鳴った。
「ビー クワイエット! 無駄吠えをするな!!」
びくりと全員が顔を強張らせて口を噤む。自分自身も、間違いなく生徒たちと同じ顔をしていたことだろう。ヒトハはそろそろと隣に立つ男を見上げて、そして見なかったことにした。
「知っている者もいるかもしれないが、この学園の清掃員、ナガツキが駄犬どもの不始末で魔法にかかっている。現状、お前たちと同じくらいの年齢まで遡っている状態だ。したがって、今日はお前たちと共に授業を受けさせることにした」
と、かなりざっくりとした、筋が通ってるか通ってないかよく分からない説明をしたうえで、クルーウェルは指揮棒の先を遠くに向けた。
「今日はひとり体調不良で欠席だったな。よし、ではジグボルトと組め。あそこにいる、薄緑の仔犬だ」
「薄緑の……仔犬……」
薄緑の仔犬と呼ばれた生徒は、指名されて少しだけ目を見開いた。仔犬と呼ぶにはあまりにも身長が高く、鍛えているのか体に厚みがあり、いかにも気難しそうな顔をしている。
どうしたって嫌がられるに違いない。恐々向かうと、意外にも彼は「災難だったな……」と同情的な目を向けてきたのだった。
「えっと、ジグボルト君?」
「セベクで構わない。そうか、僕のことを知らないんだな」
彼も大人の自分と面識があり、そこそこに親しかったようである。クルーウェルの授業が始まっても嫌がるどころか、前回の授業はここまでだとか、今日はこのページからだとかを教えてくれるほどには親切だ。たまにやたら得意そうにするが、それはそれで愛嬌があった。
セベクは元々真面目な性分なのか、ノートの取り方もマメで抜かりない。その姿を見ているとようやくヒトハもいつもの授業を受けているような気になって、ゆっくりと教室に溶け込んでいったのだった。
「――では実験はじめ!」
クルーウェルの説明は早々に終え、ヒトハにとって一番大きな問題が訪れた。錬金術の実験は正確な材料とそれらを混ぜる加減、そして一定の魔力が必要になる。ヒトハの魔力量は平均を大きく下回る貧弱さで、こればかりは学校の先生も揃って匙を投げる。伸ばそうとしても伸びないと気がついてしまったら、他人にはどうしてやることもできないのだ。だから錬金術などの誰かと共にやる作業が苦手で、今日の授業もそれだけがずっと気がかりだった。
材料の準備をする一方で、ヒトハはセベクに一言謝っておこうと実験服を摘んで呼び止めた。
「あの、セベク君、私あまり役に立てないかもしれなくて」
セベクは両手に薬品の瓶を持ったまま眉を寄せて「なんのことだ?」と首を傾げた。
「私、その、魔力が……」
「魔力? ああ、それなら僕ひとりで十分だ。人間ひとり分など造作ない」
そう言って胸を張る姿に、今度はヒトハが首を傾げる番だった。
「セベク君、人間じゃないの?」
「僕は人間ではない!!」
ヒトハの素朴な疑問は、先ほどまで穏やかにしていたセベクに激しく火をつける結果になった。耳をつん裂く大声に驚いて手にした薬品を取り落とすかと思ったくらいで、実際、ヒトハの代わりに遠くで誰かが瓶を落として悲鳴を上げている。
「そこ! うるさいぞ!」
「申し訳ございません! 先生!」
「すみません! 先生!」
クルーウェルの容赦ない一喝にヒトハとセベクは負けないほどの大声で謝ると、冷や汗を流しながら薬品を釜に流し込み、黙々と掻き混ぜ、気がついたら手のひらに乗る程度の小さな赤い宝石をひとつ作り上げていた。
二人の成果物は初めて一緒に作業をしたわりによくできていて、その濁りのない澄んだ輝きにはクルーウェルも「グッボーイ! よくやったな!」と最高の評価である。男ではないからボーイではないのだが、ヒトハは隣でセベクが喜んでいるのを見ていると、そんなことは些細なことのように思えたのだった。
ヒトハは授業の終わりにセベクから成果物の赤い宝石を渡され、授業中にずっと気になっていたことを訊ねた。
「セベク君は大人の私と仲が良かったの?」
頭ひとつ分以上大きな彼は、その姿に見合わず困ったような顔をして頭を掻き、「友人だからな」と気恥ずかしそうにしている。その答えはとてもさっぱりとしているのに、ヒトハには特別な響きに聞こえた。
彼は「友人だから」と足手まといになる自分に嫌な顔一つせず、一緒に授業を受けてくれた。一緒に叱られて一緒に謝ってくれるし、こうして事故で魔法にかかってしまった自分を気遣ってくれる。魔法士養成学校に入学したその日から成績ばかりを気にしていた自分の周りにはいなかった存在だ。
「いいな」
ぽろりと口を突いて出た言葉にハッとして、ヒトハが「大人の私は友達が多かったんだね」と取り繕うと、セベクは気難しげな眉を寄せて不思議そうに言った。
「みんなお前の友人だろう? 正確に言えば、いつか友人になる友人――ん? 難しいな、これは」
そしてセベクは上手い言葉を探そうとして唸ったが、諦めたのか、見つからなかったのか、すぐに考えるのをやめた。
「少なくとも僕はお前から『友人になりたい』と言われたんだ。少し年齢を遡ったくらいでなかったことにされては困る」
「私から? 変なの……」
「まったくだ」
大人の自分は年下の子供にそんなことを言って、一体どうしたのだろう。まさか、未成年に手を出すような真似をしたんじゃないか。しかしセベクの様子を見ていると、本当に友達になりたかっただけのような気もしてくる。どこに本当の答えを求めようにも、結局全てを知るのは大人の自分だけだ。
「ナガツキ」
自分を呼ぶ声に振り返ると、クルーウェルが教室の出入り口の前で腕を組んで待っている。授業は終わって、生徒も教師も移動をしなければならない。ヒトハはセベクと別れて小走りにクルーウェルの元へ向かった。
「授業は楽しかったか?」
「はい」
ナイトレイブンカレッジの長い廊下を並んで歩きながら、ヒトハはどこか上の空で頷いた。先ほどの授業のことが頭をぐるぐると巡って、その他のことにどうしても集中出来ないのだ。
どうしてみんなただの清掃員である自分のことを知っていて、仲良くしてくれるのか。どうして自分は明らかに年下のセベクに「友人になりたい」なんて言ったのか。“子供の自分”と“大人の自分”は一本の線で結ばれていなければならないのに、どう考えても繋がらない。
その考えは再び図書館に戻って魔法薬学の本を捲っている間も続いた。実験方法もその図も目に入っているのに、頭にはちっとも入ってこない。堅い文字がただただつまらなく並んで、そこにあるだけだ。
ヒトハはあまりにも無駄な時間に耐えかねて、ぱたりと本を閉じた。
(知りたい……)
身動きをせずじっとしていれば、やがて魔法は解けて元に戻れるのに。何も聞かず、何も知らず、心を平常に保って、いつか来る終わりを待っていればいいのに。溢れ出す興味が止められない。
――大人の自分のことを知れば、もしかしたらこの得体のしれない恐怖も少しは和らぐかもしれない。
ふと、そんな言い訳じみた考えが浮かぶ。
それは確かにこの暗闇に似た状況から抜け出す一歩だったが、同時に、恐怖と向き合う一歩でもあった。