「一緒に暮らすか」


ある冬の休日の夜。コーヒーを飲んでいた彼がなんてことないようにそんなことを言うものだから、私は洗っていた皿を音を立ててシンクに落としてしまった。
ゆるゆると顔を上げてソファに座る彼を見る。「ごめん、今なんて言った?」と聞き返す声は震えていて、自分でも驚くほど情けないものだった。
ローテーブルにカップを置いた彼がそんな私を見返して、その特徴的な眉を顰める。


「聞こえなかったのかよ」
「や、ちょっと、聞き間違いかなって」
「とりあえず水止めろ、水を」


「誰の家だと思ってんだ」と鋭い指摘を受けた私はすぐさま流れ続ける水を止めた。そして混乱する頭で先程落とした皿が割れていないかどうかを確認する。
見たところ傷もなければヒビも入っていない。良かった無事だとホッと息をついて水切りに皿を置いた。
そして一度皿洗いを中断して自分の手を拭く。まだあと少し残っているものの今はそれどころじゃない。
台所を出てリビングへ向かうと私の一連の動作を見ていた彼氏様が無言で自分の隣の場所を叩いた。大人しくそれに従ってソファに座る。ふかふかで、しかししっかりした作りで座り心地のいい黒のソファは、ここの家主が結構こだわって選んだもので、私も気に入っている。


「で、誰と誰がどこで一緒に住むの?」
「聞こえてんじゃねえか」
「だから聞き間違いかと思ったの。で?」
「じゃあ誰と誰だと思う?」
「私と真」


先程の言葉についての話を振ると、真顔だった彼が急に外行きの笑顔を貼り付けて私に逆に聞いてきた。性格の悪さ滲み出てるなぁと言葉には出さずに私は即答する。「正解」と鳥肌が立つほど甘く優しい声で囁いた真に両腕をさすりながら遠ざかる仕草をすると、小さく舌打ちをして人の良さそうな笑顔を消した。


「お前も大分歪んだな。昔はこっちを怖がってたくせに」
「性格変わったって言ってもらえません?それもこれも全部真のせいでしょ」
「ハッ、そんな俺を選んだのもお前だろ」
「でも告白してきたのはそっちだし」
「さて、先に好きになったのはどっちだったかなァ」


喧嘩にも満たないしょうもない言い合いが続く。確かに出会った頃は真の素がなんとなく怖いというか、あまり関わりたくないと思っていた。それが何を間違えたか私は彼を好きになってしまい、さらに何が起きたのか向こうが私に告白をして付き合うということになってしまった。そんな関係がもう何年も続いていまやお互いに社会人だ。こうして互いの家を行き来するようになったのも随分と前で、一線を超えたのもいつだったのかなんて詳しくは覚えていない。
確かに世間一般ではこれくらいのカップルだったら同棲していたっておかしくないけど。それにしたってなんでいきなり言い出したのかさっぱりわからなかった。
その事を問うと視線をあらぬ方へ飛ばした真は「別に、」と静かに答える。


「そろそろ頃合だと思っただけだ」
「本当に?」
「こんな嘘ついてどうすんだよ」
「そうだけどさ」
「逆になんでそんなに気にする?」
「え?なんでだろう」


真が視線を私に戻した。優しさを表に出さない目に見つめられても怯えなくなったのはいつからだろう。
そういえば、ちょっと倫理観のズレた所でさえ愛しく思えてしまうようになった頃には、互いの家に互いの私物を置き始めていたように思う。
私が昔はなんとなく気恥ずかしくて言えなかった「好き」の言葉も、今では一日に一度は言わないと気が済まないほどになっている。
…あれ、もしかして。私は真の目を見つめ返した。


「多分ね、信じられてないんだと思う」
「…何を?」
「真が、私に一緒に暮らそうって言ったこと」


きっと私が今まで感じていた不安が、真の言葉への疑問として少し顔を出したのだ。
怪訝そうな顔をする真が今、何を考えているのか。知りたいようで知りたくない気もした。それでも今まで共に過ごした時間の長さは伊達じゃなくて、なんとなくだけどわかってしまう。
真もきっと、何かの不安の種を抱えている。


「私は真が好きで、真が私を好きなのもちゃんとわかってるんだけど」
「……」
「…ええと、なんていうのかな」


あ、眉間にシワ寄った。早く言え、って目が私を急かしてくる。私は手を伸ばして真の眉間のシワをとんと指でついた。その顔はやっぱり不機嫌そうではあったけど、真は手を振り払うようなことはしなかった。


「私はいつも真に好きって言ってるけど、めったに真は言わないから」
「は?」
「だからちょっと驚いて、ちょっ痛い痛い」


真が私の伸ばしていた手の手首を握って、私の手を下ろさせた。そこに込められる力が結構強くて私は思わず悲鳴をあげる。しかし真の耳には届いていないようで、視線をうろうろと彷徨わせ「そんなはずは、いやまさか」というようなよくわからない言葉を小声で呟いていた。
真ってたまに謎の行動するよなぁと私は小さくため息をついて、空いている手で真の腕をぺしりと叩いた。
それと同時に力が弱まり真が私へ視線をよこした。
その目を見てようやく、彼が何を考えているのか、ちゃんとわかった気がした。


「真が普段言わないことだから、信じられなくて驚いたわけだけど」
「二度も言うんじゃねぇ」
「続きを聞いてってば。嬉しかったの」
「は?」
「だから。ああ言われて嬉しかったってこと」


なんてことないように言ったように見えて、実は結構緊張していたのかもしれない。
だからか、私がはっきりと「嬉しい」と言うと、真はその顔を僅かながら驚きの色に染めた。
ちょっと間抜けなその表情が可愛くて頬が緩む。私は未だに掴まれていた手をそろそろと動かして、ちゃっかり恋人繋ぎにしてみた。ピクリと彼の手が反応したようだったけど、何も言われなかったのでそのままにしておくことにする。
私は笑顔で真に告げた。


「一緒に暮らすの賛成。私、真ともっと一緒にいたい」
「…いいんだな」
「言ってきたのそっちだからね」


くすくすと笑いがこぼれて真にジロリと睨まれる。いいんだな、と言う割に語尾に疑問符は伺えないので、私を逃がす気など毛頭ないんだろう。


「じゃあ、」
「あ、でもひとつ言いたいことがあって」


真が何事かを言うのを遮って私はそう言った。
今後共に暮らしていくとして、ひとつ譲れないこと。他にも無い訳では無いけど、これだけは今言っておかないと後で後悔する。直感的にそう思った。


「私ばっかり好きって言うのは不公平だと思います」
「…あ?」
「なのでこれからはもっと私に対する愛情表現を増やして欲しい。…ってこと」


「やっぱり不安になっちゃうから」と自由な方の手で人差し指を立てて主張すれば、真は大袈裟にため息をついて「そんなことか」と言った。
そんなこと!?とちょっと真面目に話していた私は真に反論しようと一度閉じた口を開こうとした。
けれど、唇に感じた一瞬の熱がそれを許さなかった。


「……!?」
「だったらいくらでもやってやるよ」


触れるだけのキスをした真が目の前でニヤリと不敵に笑う。
不意打ちにただ目を瞬かせて驚くことしかできなかったものの、真からこうしてキスをしてくれたということは、今後の生活に期待をしてもいいという事だろうか。
真の言葉通りなら今まで以上の生活が、


「なんて言うと思ったかバァカ」


送れるわけなかった。


「ちょっと真さん!?」
「そんなに俺の愛を安売りしてたまるか」
「私彼女なんですけど!」
「へぇ、そういやそうだったな」
「信じられない…!なんてやつ!」


「もうやだこんな彼氏」と繋いでいた手を離し両手で顔を覆って項垂れる。世の中のカップルは絶対そんな塩味な生活してない。もっと甘くて幸せな生活してるはずだ。
私はただ真に好きって言って欲しいのに、とぶつぶつ文句を言いつつちらりと指の隙間から真の反応を伺うと、彼は私の方を見ていなかった。というか私から顔ごと目線を逸らしていた。
なんだかムッとしてこちらを向かせようと顔を上げて真の方を向く。

と、少し赤くなった耳が見えた。
「…真?」名前を呼ぶも返事がない。


「真さん?」
「っ、やめろ、こっち見んな」


真の顔を覗き込むようにして身体を寄せる。すると真が私の肩を押してそれを妨害してきた。
が、もう遅い。私には頬をほんのり赤く染めて照れる真の姿がばっちり見えてしまっていた。
すとん、と心に何かが刺さった気がした。


「真」
「なんだよ」
「結婚しよう」
「は?」


間抜けな声と共に彼氏様が振り返る前に私はソファに彼を押し倒すようにして飛びついた。
「おい、なにすんだテメっ」なんていう声も今は聞こえないふりをする。


「私、真のことが大好きなんだ」
「だからなんだよ」
「真は私のこと好き?」


ぐっと顔を近づけて、逃がさないという目で問う。
答えなんてわかりきっているけど、やっぱり目の前の人から直接、ちゃんと聞きたくなった。
照れと戸惑いが隠しきれていない真は言葉に詰まって、何かを考えるような顔をして、そうしてたっぷりと時間をかけてから私の目を見て答えた。


「好きじゃなきゃあんなこと言わねぇよ」


そして私の後頭部に手を回して、何をするかと思えばぐっと頭を引き寄せて「バァカ」と再びキスをした。






後日、諸々の手続きを済ませて二人で真の家に暮らすことになった。その過程でもう一度「結婚しよう」と言ったところ「じゃあするか」とやっぱりなんてことないように返されたので、私の苗字が変わるのも近いかもしれない。
ただ、真に「これで私たち運命共同体だね」と言った時には「いちいちんなこと言うんじゃねぇよバァカ」としっかり照れていたけど。