隣にいるだけの夜
目が覚めると、ずしりと体の重さを感じるのが常になっていた。続けて、ゆっくりと瞬きをする。
部屋のカーテンの隙間からは、眩しい朝の光が差し込んでいる。その光景が自分の心とあまりにも乖離していることに、彼の口からは長くて細いため息が出た。
眉間に手を添えると、そこにはしわが寄っている。伸ばすように何度か指の腹を動かした。
今日もいつもと同じ、憂鬱な一日が始まる。
――いや、違う。
そう感じてはいけないのだと、軽く首を振る。
こちらのコンディションがどうであれ、やるべきことは変わらないし、山積している。
むしろ、止まることのほうが許されない。
夏油はそう結論づけると、体を覆っていたブランケットを剝ぐ。そして重さを振り払うように、勢いをつけて体を起こした。
食堂に顔を出すと、すでに何人かが集まっていた。
いつも通りの声と、いつも通りの空気。それに紛れるように、なるべく自然な顔を作る。
だが、自分だけがなぜかその場に馴染めないような感覚がした。
「おはよう、傑くん」
名前を呼ばれて視線を向けると、なまえがいた。
なまえとは同学年で、高専入学時からの付き合いだった。
ふんわりとした空気をまとっているのに、必要なときには決して退かない。そんな彼女のしなやかな強さに惹かれて、告白したのは自分の方だった。
だが最近は、なまえの姿を見ることを辛く感じることの方が多くなっていた。
「おはよう」
笑顔を作って短く返すと、彼女は一瞬だけこちらをじっと見たあと、いつも通りに微笑んだ。
その一瞬の間に、胸の奥がわずかにざわつく。
――気づかれている。
根拠はないのに、なぜかそう思った。彼女は、人の心の機微に聡いところがある。
「最近さ」
食事を受け取って、同じテーブルにつく。
顔を上げると、彼女は少しだけ困ったような顔をしていた。
「傑くん、元気ないよね」
「そんなことないよ」
反射的に出た言葉は、驚くほど滑らかだった。自分でも感心するくらい、迷いがない物言いをしていると内心苦笑してしまう。
「任務が続いてるだけ。よくあることだろう?」
「……うん」
彼女は頷く。けれど、それで終わらなかった。
「でも」
一歩、距離を詰めてくる。逃げ場を作らないような、それでいて許されているような、静かな近さだった。
「私、なんとなく気になって」
その言葉に、思わず視線を逸らした。
「傑くんが、大丈夫なふりしてるみたいに見えるから」
胸の奥に、鈍い痛みが走る。
それでも、また反射的に笑いが出た。自分でも持て余している感情を、これ以上崩したくなかった。
「買いかぶりすぎだよ」
眉を下げて軽く肩をすくめると、彼女は小さく息を吐いた。そして、少しだけ声の温度を落とす。
「……ねえ、傑くんて、甘えたことない?」
その一言が、やけに近くに落ちる。言葉の意味を正確に理解するまでに、一瞬かかった。
「私にはいつもなにかあると、『話して、頼って』って言ってくれるのに」
逃げていた視線を、そっと引き戻される。
「自分は、絶対やらないよね」
責めているわけではないのは、彼女の声音でわかった。
ただ事実だけを静かに差し出されているのに、喉の奥が少しだけ詰まる。
「……別に」
それでも、出てきたのは曖昧な言葉だった。
癖のように、呼吸をするみたいに、表面的なことしか口にすることができない。
「必要ないだけだよ」
そう言い切った瞬間、彼女の表情がわずかに歪んだ。
悲しそうでも、怒っているわけでもない。ただ、諦めに似た静けさが、彼女を取り巻いている。
「……そっか」
短く返してから、彼女はほんの少しだけ目を細めた。
「じゃあさ、必要になったら、ちゃんと来てね」
その声音が、少しだけ柔らかくなる。軽く言われたはずなのに、その一言だけが、やけに重く残った。
「無理して壊れる前に、ちゃんと私のところに来て」
――その言葉だけは、冗談じゃなかった。
何も返せなかった。返そうとした言葉は、全部、喉の奥でほどけて消えた。
彼女はそれ以上なにも言わずに、食事を終えると静かにその場を離れていく。
残された部屋の中に、朝の光だけが落ちていた。
さっきまでと同じはずなのに、なぜか、少しだけ眩しさが変わったような気がした。
任務を終えて部屋に戻った頃には、夜はすっかり深くなっていた。
明かりをつける気にもなれず、そのままベッドに倒れ込む。
全身に残る疲労は、肉体的なものよりも、もっと奥に沈んでいるような重さだった。
目を閉じる。けれど、すぐに思考が浮かび上がってくる。振り払うように、片腕で目元を覆った。
「……来る、わけないだろう」
ぽつりと、独り言がこぼれる。朝のやりとりが、やけに鮮明に残っていた。
――必要になったら、ちゃんと来てね。
あんなことを言われたからといって、自分が誰かに頼ることなど、あるはずがない。それは、最初から選択肢にすら入っていない。
そう思っていた。当たり前のように、今までずっとそうやってきたのだ。
だから――
そこまで考えて、ふと、思考が止まる。
もし。
もし、仮に、彼女に胸の内を洗いざらい話したとして。
――彼女は、自分を見限るだろうか。
すぐに否定しようとした。そんな仮定自体が無意味だと、切り捨てようとした。けれど、うまくいかなかった。
脳裏に浮かぶのは、あのときのなまえの表情だ。
責めるでもなく、引き止めるでもなく、ただ逃げ道だけを置いていった、あの静かな眼差し。
「……」
息を吐く。そして、ゆっくりと体を起こした。
考えるだけ無駄だ。そう結論づけたはずなのに、足はもう動いていた。
夜の廊下は静まり返っていた。足音だけがやけに響く。
こんな時間に部屋を出る理由など、ひとつもない。それでもなぜか止まらなかった。
自分でも説明がつかないまま、気づけば彼女の部屋の前に立っている。
数秒、何もせずに扉を見つめる。引き返す理由なら、いくらでもあった。
けれど、ノックをして、ドアノブに手をかける。軽く回すと、扉はあっさりと開いた。
「……あれ」
中にいたなまえが、少しだけ驚いたようにこちらを見る。
「傑くん?」
その声は、朝と同じ温度だった。変わらないことに、わずかに息が緩む。
「起きてたんだ」
「うん、なんか眠れなくて」
それだけの、他愛もない会話。理由を問われることも、詰められることもない。ただ、そこに『いつも通り』があった。
「……少し、いい?」
自分でも驚くくらい、静かな声だった。
「いいよ」
なんでもないことのように、即答された。彼女は何も聞かずに、少しだけベッドの隣を空ける。
その仕草に、胸の奥が微かに軋んだ。距離を詰めて、隣に腰を下ろす。
言葉は出てこなかった。出すつもりも、なかった。
それでも、しばらくそうしていると、ゆっくりと体の力が抜けていく。無意識のまま、彼女の肩に寄りかかっていた。
「……」
なまえは何も言わない。ただ、少しだけ体重を受け止めるように姿勢を変える。
それだけだった。それだけなのに、胸の奥に張りついていた何かが、かすかに緩む。
「傑くん」
名前を呼ばれる。反射的に身構えかけて――やめた。そうする必要がないことがわかったからだ。
「なに?」
「……別に」
小さく笑う気配。
「呼んでみただけ」
それ以上、何も続かなかった。沈黙が落ちる。けれど、それは不快なものではなかった。
何も話さなくてもいい。何も整理しなくてもいい。そんなふうに言われている気がした。
そのまま目を閉じる。思考はまだ消えない。消えないまま、それでも。
「……少しだけ」
かすれた声で、誰にともなく呟く。何を許したのかは、自分でもわからなかった。
ただほんの少しだけ、『例外』が生まれてしまったことだけは確かだった。
「ねぇ、なまえ」
隣に寄りかかったまま、ぽつりと呼ぶ。
「ん?」
すぐに返ってくる声は、相変わらずやわらかい。少しだけ、言葉を探す。喉の奥に引っかかっているものを、どうにか形にしようとした。
「もし、私が……」
そこまで言って、止まった。続きが出てこない。出せないだけだと、すぐに気づく。
もし、私が。
その先を口にしてしまえば、何かが決定的に変わる気がした。
自分の中でまだ曖昧なままにしておきたいものまで、はっきりと形を持ってしまう。それがたまらなく怖くて、嫌だった。
「……」
沈黙が落ちる。逃げるように、視線を伏せた。
何も言わなかったことを、責められるかもしれないと一瞬思う。けれど彼女は、何も言わなかった。代わりに、そっと手が伸びてくる。
指先が、髪に触れた。自然な動きだった。撫でるでもなく、探るでもなく、ただ確かめるみたいに、ゆっくりと髪を梳いていく。
「……」
力が、抜ける。気づけば、さっきよりも体を預けていた。肩に触れていたはずの距離が、いつの間にか少しだけ近くなる。
「傑くん」
名前を呼ばれる。今度は、さっきよりも低くて、静かな声だった。
「大丈夫じゃなくても、いいよ」
それ以上は、彼女は何も言わなかった。答えを求めることも、続きを促すこともしてこない。
ただ、その言葉だけが、静かに落ちてくる。
胸の奥に溜まっていたものが、ほんの少しだけ揺れた。
言葉にはならない。ならないまま、形を変えて、ゆるくほどけていく。
再び、指先が髪に触れる。今度は、少しだけはっきりとした動きだった。なだめるように、撫でられる。
子ども扱いだといつもなら思うはずなのに、今日は不思議と拒む気になれなかった。
「……少しだけ、借りるよ」
かすれた声でそう言って、さらに体を預ける。返事はなかった。けれど、肩は逃げなかった。
そのまま、しばらく何も話さなかった。時計の針が進む音だけが、ゆっくりと夜を深めていく。
思考は、完全には消えない。非術師への嫌悪も、拭えないままだ。あのときの光景も、忘れられない。
それでも今だけは、それに押し潰されることはなかった。
髪に触れる指の感触が、一定のリズムで続く。その単調さが、かえって心を落ち着かせた。
「……」
目を閉じる。ほんの少しだけ、呼吸が深くなる。
何も解決していないし、何も変わってはいない。状況は、何一つよくなってなどいない。
それでも今夜だけは、このままでいいと思えた。