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 起きた昼頃に、五十嵐は僕の下にもベランダにもいなかった。
 
 二階の、五十嵐がアトリエと呼ぶ部屋にいるのだろうか。あのパソコンも、めくれた布団もそのままにされていて、まるで脱け殻のように思えた。

 アトリエには来るなと言われているのだし、こうなってしまっては暇なのだけど、パソコンがこのままならば本当に五十嵐は寝ているだけなのかもしれない。

 …喉が乾いている。

 コーヒーと、何か薬を飲もうと思い付いた。
 海と揚羽のカップ。僕はこれが気に入ったのだが、勿論前の雑草カップだって好きだ。

 この雑草はこの中で永遠に雑草だ。

 僕はどうしてすぐに人の気持ちを噛み切ってしまうのだろう。あの指はなんだったのだろう。なんだか、ありありと噛んだ感触や、血の臭いや味を思い出したような気がする。

 あの湿った声は恐らく仕事だったんだ。

 僕は五十嵐のパソコンを開いてみた。やはり、朝のままストップしていて僕らしき人の上には小麦色の人が乗っている。
 ヘッドフォンは繋いであるけれど付けて音を間近に聞こうなど、気が狂いそうかなと考えてそのまま再生してみた。

 遠くからでも神経症じみた息遣いが湿って聞こえた。これはきっと声を間近にしなくて正解だ。五十嵐も同じことを考えてこうして見てみたのだろうか。

 画面の、小麦色の人が誰だかわからない。そもそも僕らしき人はこの人をちゃんと視線で捉えているかもわからないくらいに何度も目を閉じる。
 
 多分過呼吸とは違う速度で息を吐き、聞き取れない音声で小麦色の人に僕らしき人は何かを言うのだけど、言葉は徐々に短く一文字で過呼吸に吐かれていくのだ。

 どちらかと言えばうるさいくらいに小麦色の人が高い体温のような温い声で僕らしき人に意味もなく声をかけ続けたまに僕らしき人が頷くその表情は、苦しいのかもしれない、いや、そうじゃないのかもしれない。

 小麦色の人が後ろから僕らしき人に乗った、うねうねと動くその行為は芋虫のようだと思った。

 僕も知らない僕がこの画面の向こう、この晒しきった向こう側にいる。

 記憶にもないこの人たちと今の僕の違いはなんだろう、生理現象の交遊は不覚にも作用し、僕は凄く恥ずかしいのだけど勃起してしまった。なのに意識は相当に濁っている、靄の向こうのような現象で耐えられない。

 ふと、血の味がした。
 下唇の一筋が痛い。瞬間に僕は唇を噛んでいたと理解する。

 酷く喉が乾いている。
 用意していた薬とコーヒーを流しても、熱だけが残る。もう仕方ないなと画面を止めてトイレに向かったのだけど、結局抜いた瞬間からどうしようもなく不衛生に意識は白濁色で気持ち悪いと感じてしまった。
 洗面台で手を洗うまでは血圧低下を我慢したけど、結局トイレで吐いてしまった。

 それはそれで同じように身体を冷やして血の気を亡くすのだから、立てずに暫く踞る。
 あれを知らない僕と、もしかすると夕飯なんかを考えているだろうあの僕らしき人。僕はどこにいるんだと少し死にたくなった。

 だけど数分でそれすら持たない。
 あれは、僕の脱け殻なのかもしれない。空っぽの、冷たい敷布団のような。

 あ、空気を変えたい。
 冷えてぼんやり思っても立ち上がれない。けれどこの床には寝たくない、ううん、わりとどうでもいい。

 薬はきっと成分も溶けないまま吐いてしまっただろうな。

 五十嵐は寝ているだろうか。
 来るなと言われたがなんだか落ち着かないので、ずっとこうしているよりは遥かに精神衛生上良いと思い二階に行ってみることにした。

「五十嵐さん」

 ノックはせず、声も小さめにしてみた。
 返事はない。けれどどうも、動いている気配だとかそんなものもないのでこっそり開けてみた。

 開けた瞬間、埃臭さもあったがなにより、絵の具の臭いもあったし、イーゼルもあったし作業台のようなものもあった。
 何もない床で五十嵐はドアに背を向け、丸まるように何も敷かれてない床に寝ていた。
 スケッチブックを抱えて。
 五十嵐の手元には鉛筆が転がっている。

「五十嵐さん」

 死んではいない。肩は動いているから。もぞもぞ、なんだか五十嵐がいま羽化しようとする蛹のように見えて、見えたら凄く羨ましく感じた。

 僕はしゃがんで五十嵐を暫し眺めた。こんな埃まみれの床で寝なくても良いだろう。作業台に突っ伏したって良いだろうにと見てみるけど、作業台は確かに、物がたくさんあって寝れないかもしれないと思った。

「五十嵐さん」

 返事はないのだけど。
 あぁ、画家の部屋。そう思ったらなんだか違う空気。ただ何故か気まずい気がするから「散歩に出てきます」と、考えもしなかった言葉が吐かれる。切れてしまった唇が少しだけ痛い。

 五十嵐の部屋を出て、言ってしまったからホントに散歩にでも行こうかな、もう、一人になりたいと、ぼんやりとダルく思ったままにふらっと、外に出てしまっていた。

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