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キッチンの明かりはついていて料理の臭いもする。だが、なんだか人の気配がしないような気がして「楓?ただいま」と、ドアを開ければ切りかけた玉ねぎがある。
ふと真麻の目に入る。
楓はぐったり、と言うよりは寝ているに近い表情で壁とコンロの下の棚に凭れていた。
息が止まりそうになった。
「…楓?」
何があったのか。
急な焦燥に「楓、」と真麻は駆け寄りしゃがんで楓の肩を揺する。
「どうしたの楓、大丈夫、ねぇ…!」
声を出せば急に勢いや息遣いが尻尾を巻いて震えてしまった。
ぱっと確認すれば火は、ついていないらしいしガス臭くもない。何かで気を失ってしまったのか、怪我はないのかと頭が真っ白になりそうだったが「うぅ…」と唸った楓にミリ単位の安心は出来た。
「楓!」と真麻が声を掛ける。
楓の目は薄く開いたが、再び「楓」と真麻が呼び掛けようとしたとき、朧なまま弱々しく楓は反射のように真麻の手を払い除けた。
「……、」
だが、払った瞬間に挙動不審を見せた楓に真麻は、食い縛ろうとしたのをぎこちなく、「楓」と、出来るだけ柔らかく言うに勤めた。
「マーサだよ、楓」
楓、君は一体。
「…まぁさ…、」
楓の脳に意識は浮上してくる。
視界もはっきりして脳に血液が回るのを互いに感じた。
「まぁさ、」
「…ただいま…っ、」
食い縛ったのが居たたまれなくなり、真麻は楓を抱き締めた。
しっかりと掴めば真麻の背中にぎこちない楓の手が触れ「真麻、」と、はっきりした。
「…おかえり」
「うん、…ただいま。
…びっくりしたよ楓。さ、流石にこれは…初パターンじゃないか…」
「…あぁあ、ごめん、…電話、」
「どうしたの、楓」
はぁはぁ、と小さめの楓の息が真麻の耳に掛かり始める。
少し離して真麻が楓の顔を見れば、楓は話そうとしているのか黙ろうとしているのか。まずは、楓をソファで寝かせようかと真麻は考えた。
「…取り合えず、立てる?少しだけ。ソファまで」
「……」
口ごもっている楓に「ほら、」と真麻は肩を貸し、楓をほぼ引き摺るようにダイニングのソファへ座らせれば嫌でも目に入る、テーブルにぞんざいに置かれた薬のシートと知らない病院の名前が入った薬袋。2種類だったがどうやらそれぞれ病院も違うらしい。
隠し持っていたのだろうか、今日受診したのか。
何粒だかはわからないが1シート消費はなさそうだ。まぁ、朝の楓の様子を思い浮かべれば少々、情緒不安定になったに違いないが、真麻はそれは敢えて言及をせず、「お茶持ってくるから」と楓を横たえた。
だが、楓が弱々しくも真麻の腕を掴み、「…ごめんなさぃっ、」と泣き出してしまったので、どうしても病室で意味もなく何度も母親に謝罪していたあの楓の姿が真麻の記憶にちらついて仕方なかった。
「…うん、」
ぎこちなく楓の頭を撫でるけど。
「…まぁ、」
何を言っていいかなんて噛み殺されていってしまうから。
「…たまにはそんな日もあるよ、楓」
楓の額に軽く口付けをしたら冷たかった。多分、血圧は低下しているのだろう、泣かせてしまっている場合じゃない。
楓に笑ってあげようとするのに食い縛るしかない。
涙を拭い、真麻はそのまま楓の首筋に手を当てる。楓の癖。それに楓は静かに目を閉じる。
どうかしていたんだろう?
どうかしていたんだよ。
少しそのまま動かなくなって、漸く真麻は冷蔵庫からお茶を取ろうとキッチンに行くのだが切りかけだった玉ねぎにぼんやり現実を見る。
フライパンには出汁と鶏肉が入っているが、雰囲気的に火が通ってるか、どうか。
きっと急に眠気が来たのだろうが、確か、テーブルに広がっていた薬の一つは早めに利くやつだ。
楓、君は一体誰と、何と戦っているのかな、俺の後ろ側の先に何を間違えたのかな。
頭の片隅にそうやってじわりと紫煙のように灰色の物質が広がって行く。塗った色が消えるようで怖くなる。その彼方にあるものは燃え尽きて透明になって行く、それは流星のようだ、記憶はそうやって残るのかもしれなくて。
押し殺したような溜め息と押さえた、冬の寒さのようなものが胸に刺さるようだ、こんな日には。
真麻は少しだけ間を置き、冷蔵庫から茶のペットボトルを取り出そうとした自分の手が視界に入る。
親子丼、作らなきゃなぁ。
息は白く、透明に感じた。無彩色、それに似た、畸しい感情の色に麻痺しそうだった。
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