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 青P先輩は案外孤独で、本当は凄く口下手な人だった。

 カウンターテーブルの上で汗をかいているジンリッキーのライムを、何度目かはわからないけれど持て余して潰した。見た目はもう、果肉がグラスの中でぐちゃぐちゃに散っている。

 何時間こうしているだろう。

『お前、俺に興味ないでしょ。
 それって凄くいい』

 口にした一口は却ってライムで甘くなりすぎたのか、引き締まったのかがわからないのだけど、彼と恋をしたあの期間の俺は、ここで死んでもいいと考えていたのだ。

 高校生の初恋を思い出すほどに喉が乾いていたのに、その果実は喉の通りを苦くした。

 たった一瞬の座流星群を一人で凍えて眺めた幼い頃の時間だって覚えている。透明になってなくなってしまう、過去の光が自分の目に届いているだなんて、儚いけれど切ない。あの人は、そんな人だった。

 青P先輩と一緒に処女を捨て俺は童貞まで捨てたのだけど、溶けて消えてしまいたいと思っていたのは俺だけではなかった、その熱さを思い出す。

 駆け巡りあっという間に溶けてなくなるようなその時間がいまでも体に残っている。
 いまならあのときの先輩の気持ちを理解出来ているだろうか。俺はときどき気紛れのようにすべてを消したくなってしまうのだ。

 先輩は怪我をして陸上を出来なくなった、その過信故に鳴海先輩の引退試合になるはずだった大会を潰してしまったと、後に語っていた。
 「お前は走れない。やめろ」と、後輩にすら怒鳴ったコーチを殴ってしまい謹慎になったのだそうだ。

 誰も興味はなくていいよ。もう嫌なんだ。
 硝子は綺麗で、割れてしまうのが怖いんだ。

 走れなくなってしまった自分は足を酷使したのだから仕方がない、だけど…悔しかったのだろう。ただ、悔しいとは言ってくれなかった。

 もう少し、もう少しだけ誰かに話せたらよかったのだと思っている。俺も、先輩も。結局怖くなってしまっただなんて、そんな無責任なんて言えるわけがないのに。

 いまの俺はあの頃から、変わらない。

 一人でぼんやりバーを眺めて思う。この異空間で、自分も知らない場所で何を求めているか、わからないままがよかったのに。

 大切なものを得てしまうと揺らいでしまうのだ。その綺麗な水面の陶酔に。

「君を傷付けるものが君自身であるならば、俺は君を一生かけても許すことが出来ない」

 一生許されない。
 俺は逃げてしまった。先輩も、こんな気持ちなのだろうか。

 あの頃俺は、突然消えてしまった先輩を許すこと…いや、考えることしか出来なかった、どれだけ寂しい場所で彼は走っていたのだろうと、自分に知れなかったことが悔しくて堪らなかった。

 青P先輩、俺はただ知りたかったんだよ。
 貴方の笑顔がどうして寂しくなるのかなとか、「本当にいいの?」と聞くのに答えてくれなかったその深い瞳に俺がどう映ったのかな、とか。

 あのとき聞いていれば、別れずに済んだのかもしれない。

 柔らかく唇を食まれて、深く呼吸が食べられて、「大丈夫だよ」と優しく髪を撫でてくれたその大きな掌を思い出す。

「苦しくない?」

 本当はいつだって詰まるように溺れて苦しかった、だから「待って、理人さん」とすがるように首筋に手を回したんだ。

 あの日のぎこちない先輩の笑顔が浮かぶ。楓、と耳元に掛かった熱い呼吸を思い出す。

 誰でもいいなぁ、こんなことを思い出さないくらいの、優しくもない、味もしない、ただ過ぎ行く快楽を押し込んでくれる人、いないかなぁ。誰の記憶にも残らない、無色透明な時間が欲しい。

 けどそう、頭悪いからモテないの。

 このバーじゃない方がよかった。先輩のことまで思い出しちゃった。

 暫くは幸せだった、一生呼吸を食べられて、赤色に気付かないフリもしていたかった。俺なんでそうやって欲しくなっちゃったんだろう。

 背の高い年下を思い出した。こんな思いをする前に、やめておけばよかったなぁ。

 お腹に熱さを感じる瞬間に、あぁ、幸せだよ、全部溶けてしまえばいいのになと、溶かしたくなる罪悪感に気付いてしまったら悲しくなるんだよ、そう、また伝えられないから、残りのジンリッキーを煽った。
 後味が悪いほど、果実が潰れて溶けてしまった。これくらい、汚れて染まれたらよかったのに、ただただあの目は澄んでいたから。

 誰にも知られず、熱く…泣きたいのかもしれない。どうかしていたんだよ、壊れるのが怖くなった、ただそれだけだった。いまはそう、年下の爽やかな笑顔を思い出して。

「ごめんね」

 そう、どうかしていたんだよ。思い出すそのとき、あの日の最後が見えそうになる。
 星も見えない場所で。ゆっくり、落ちていくように。いまでも不確かなまま息も出来ずに溺れている。

 病のよう。

 アルカロイドに、沈んでいく。バーに見た一人の、夜。

 どうして痺れて麻痺するの。
 傷口から溢れて息が止まりそう。

 扉が開く音は、何回目だろうかとふと、ぼんやり振り向いた。

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