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 最近やけに腰が痛い。長時間座っているのが辛い。歳だろうか。

 鈍痛をぽんぽん叩きながら歩く。
 それでも前を歩く南沢と雨川の身長差は15センチ程度。大体デカすぎるんだ。日本人の平均男性は174くらいだぞ。確か南沢は180いくつとか、前に言っていた。その歳でそれはデカいだろう、多分。

 雨川は自分が小さいのは、認めないことにしている。
 平均近い身長だから別に良い。

 雨川の研究室から一度エレベーターを使って地下の一階に降りる。

 このパターンは研究室、ではなく実験室じゃないかと雨川は気付いた。
 エレベーターを待つ間、「南沢さん」と、雨川の不機嫌な声を南沢自身も聞き取る。わかっている、そう、わかっている反応。

 雨川の顔を見てやればやはりな、不機嫌。通り越してこの薄顔が口元をへの字にせん勢いに雨川が怒っているのがなかなか愉快。
 まぁ確かに、南沢としては雨川を騙して連れ出したのだけども。

「どうした雨川」
「俺は何の実験をされに行くんですか南沢准教授」
「今更?
 まぁ今日は君じゃないよ。君にも新しい俺の実験を見て欲しいんだけど」
「俺の分野は天文学なんですけど」
「そうですね。そうやって堅い意地悪を言う間柄じゃないでしょう、俺たち」
「じゃぁどういう間柄なんです?」
「実験体と研究者、堅い間柄ですね。それとも、何?」

 エレベーターが来た。

 凶悪。
 これに等しいような笑顔で南沢は雨川の利き手である右手を掴み、エレベーターが開くのと同時に引っ張り入れた。

 ボタンは『閉』。ガタンと揺れて奥の壁に雨川は南沢に押し付けられてしまった。
 そして左の耳に髪を掛けながら息を吹き掛けられるように南沢は言う、「もっと緩い関係になりたいわけ?」と。

 硬直して抗えない。第一こんなときに傷付く、大の男に力では、抗えないと。

 肩で息を吸うように「…おぃ、」と漸く出た雨川の一言も、震えていて情けなかった。
 そんな雨川の様子を見た南沢は「ふ、」と嘲笑うように笑った。

「悪かった。悪かったよ真ふ」

 チン膝蹴りをかましてやった。

 「おふっ、」と、南沢は雨川の攻撃をまともには食らわずに少し、どうやら両手でガードしたが飛び退き、急所を押さえて中腰なのが情けない。

 だがそれすら雨川には腹が立った。
 腹が立って、自然に涙が溢れてきそう。

 しかし不思議なものでこういうものは、歯を食い縛る方が出てしまうものだ。止めどなく出てきてしまったことに雨川自身も動揺し、白衣の裾で拭うも、濡れていくばかりだった。

「…悪かったって、雨川くん」
「…死んっ、じまえ、クソ童貞野郎っ、」

 自分がどれ程その悩みと対峙してきてるか、わかっていて南沢のセクハラ紛い。今すぐぶっ殺してやりたい。その何億の生命体を一生世に出なくなるほどまでに捻り潰してくれようかクソったれ。

 気まずそうに南沢は、ボタンの『B2』を押す。脱力したように雨川は壁に凭れたまま、しゃがみこんで静かに泣いていた。

「俺の身にもなれよとは今更言いませんけど、雨川くん」
「…うるせっ、死ね、チンカス」
「口が悪いねぇ。だからごめんって」

 仕方ない。
 大きい子供でしたこの子は。一度泣かせたらダメだったのを忘れていました。

 今度は南沢が雨川の隣に寄り添うようにしゃがみ、ひたすら「ごめんって、真冬ちゃーん」と間違って呼んでしまいより、「あっち行けよクズ!」と雨川に殴られそうになってしまったり。

 とにかくB2についてもなかなか雨川が動いてくれない。あまり使われないエレベーターだが、不安だ。南沢は左足の靴を取り敢えず脱いでドアに挟んで対処した。

 今回は完璧に自分が悪かった。

「雨川くんってば、着いたよ!いい加減にしないと叩くよ」
「だってよくわかりません、なんなんですか訴えますよ真面目に。喜多《きた》教授補佐にこの足で談判しに行きますよ」
「確かに喜多さんはちょっと聞き入れそうだよ、だからごめん。ちゃんと研究代振り込むから、今度麻雀付き合うから、なんなら花札も浄瑠璃もみんな付き合うからさぁ、」
「麻雀はいいです。貴方クソ弱いんで。てか辞めましたケータイにしました。花札もケータイにしました。|文楽《ぶんらく》は一人で行きます。研究代はセクハラ代含めてまず30万はください」
「わかった、なんなら毎月あげる。
 あいや、毎月セクハラするわけじゃないからまぁ取り敢えず来てよ床汚いでしょ!?ね?」
「うわぁぁ、汚ぇえ!はい、行きます、行きます!」
「ついでにオセロも付き合って」
「はい!」

 雨川への説得は実に15分を使ってしまった。
 雨川はそう、複雑だが単純なのだ。

 漸く雨川は立ち上がり、南沢がそれに手を差し伸べるてやるが、まるで汚物を見るように一瞥されてしまった。

 俺の手は床並みかそれ以下か。そりゃそうか。

 先にエレベーターを出るときに南沢が挟んでおいた靴は雨川に蹴って寄越された。

 なんたるツンデレ具合。しかし少し堪らないと思う俺って変態かなぁと、線の細い雨川の背中を見て南沢は思う。

「何実験室ですか南沢准教授」

 そして面倒臭そうに蔑みも込めた目で振り返る君って。

「2です、はい」

 やっぱやめらんねぇや。

 と思いながら、南沢は靴を履いてエレベーターを出た。
 物凄く胡散臭い笑顔の南沢を差し置いて雨川は先にすたすたと第二実験室へ歩いて行く。

 さっさと終わらせてしばらくこの男と会うことのないようにしよう、なんせ変態だ。
 第一に変態第二に学者で第三にキモい。だが生命力、しつこさがゴキブリのようだ。最悪である。
 最早俺を研究するより貴様を研究してくれクソ学者。ムカつく。大体ゴキブリは地球が滅びても生き延びるらしいじゃないか、貴様そういった類いか全く。

 雨川の不機嫌は真骨頂で最高潮に最骨頂。こんなときの解消法はヒトカラだ。多分上手いハズだ。帰ったら暇だし絶対に行ってやろう、夕飯は担々麺。最高だ。睡眠を8時間は取ろう。

 雨川は一人気ままにルーティンを決めてにやりとした。それには誰も気付かない。

「真冬ちゃん、第二だってば」

 しまった、過ぎてしまった。
 顔を元の不機嫌面に戻して「すみません」と謝り、南沢が入り口で指差す第二実験室へ足を戻した。

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