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 これはもう取れるだろうかと、やはり一ヶ所に集中しようかと一手打てば「行深般若波羅蜜多時」と経が聞こえるのだから忌々しくて仕方のない。
 さっさと取ってしまえと攻める。しかし和尚はこちらが黒に囲まれた碁石を取ろうとお構いなしに「照見五蘊皆空」と、別のところの攻めに入るが、ちぐはぐだ。

「あの、和尚」
「なんだ」
「考えてますか」
「ああ考えている。人間の心身の五要素などどれも本質的なものではないと見極め、それら全ての苦しみを取り除かれたのであると続く」
「なんの話ですか」
「何って?般若心経だ」

 呆れた。
 貴之が守りの一手に高じたと見て、和尚は次の一手を打つ。

「形あるものは実態がないと同じ、一時的に形があるのは“形がないもの”と言う形であることだ。どうだ貴之、一手を読めるか」

 聞き流していようと思ったのだが少し、雑音よりは妙に聞き入りやすいと、妙な感情のまま「はぁ、」と、目を眺める。

「それは般若心経の読解でしょうか」
「舎利子よ、それは正解だな」
「“舎利子”とは」

 しかし和尚は暫く黙りまた碁に戻る。
 守り、攻め、何れの手も尽くしさて、次はどうすると、貴之が詰まってきた頃に「大抵は息子を指すものだが、鳥の子供から来ている」と和尚は答えた。

「貴之、」

 和尚は攻める。

「儂はお前の父の首を跳ねたのだ」

 手が、止まった。

 初めてまともに和尚の顔を眺めれば、和尚は存外何も表情には出ないくせに、声色ばかりが少し低くなったのだから完全に貴之は手を碁から離してしまう。

「何故、今それを」
「今しかないと思ってな。お前が見ていぬ以上仕方のないことで」
「どうしてですか、」
「…武士の情けと言うものかもしれない。いや、本当は切腹など、首も落とさずと言うのが誉れかもしれないが、儂にはそれが苦しかったのだ」

 言葉を失った。
 そんなもの、手を汚すに等しかったのでは、ないだろうか。
 それは建前でやはり、どちらかと言えば父を殺した、その方が今の自分には強くあるのに、複雑な思いで黙り腐っている。

 顔も見たくないと背ければ「貴之、」と、和尚は踏み入る。

「話し掛けないでください」
「そうだな、だがな」
「そんなことをするためにあの日貴方を呼びに行ったのではない、」
「そうだ、そうだろう」
「なら、」

 睨めば今度は和尚は、酷く複雑に後悔などと言う言葉が浮かんでいるように、見えた。
 それが、苦しかったのだと、言わんばかりだった。

 久しぶりに父の、最期の表情すら浮かんだ。

「……ですが、」

 やはり。

「…許せるわけがないじゃないか、」

 碁盤が滲む。
 しかし言葉は出てこない、それほど、以外にも自分は複雑に考えていると自覚すれば、ただの嗚咽が漏れるばかりなのだ。

「…それでいいのだ貴之よ」

 だが、和尚は否定をしなかった。

「お前は酷く難儀だが、単純で、正直な子供なのだろうよ」

 前に一度、そういえば言われただろうか。器用なのか不器用なのか、わからぬと。

「だから許せとは死んでも言うつもりはない。どれ程の読経もお前には意味などないと思う」

 しかし生意気な反抗心くらいはある。

「…経などならば父と母に読めばいい、」
「それは誤解だな貴之」
「顔向けすらも出来ないと、」
「経など生きる者への教訓だからだ」

 強く言い放った和尚の一言が、胸に刺さるような気がした。

「そんな生意気で、偏屈で、自意識過剰の小僧に添える経などあるものか、甘ったれるな、」

 あぁ、どうしてこれほどまで気に掛かる。こんなもの、自分の利己だからそれをお前に教えるしか手立てが、なくなっていくのだ。
 こうはなるな、などの道徳とは偉く単純で残酷だ。

 貴之はしかし考えたようで、俯いて、歯ではない何かを食い縛っている。
 この子供は本当は、全部一人でわかっているのだ。

 考えた末を待つことにし、長く、重い、泥のような沈黙ばかりが場に沈殿する。

 答えなど出るわけでもない。

 だが少年が睨み返した、それだけが幹斎によし、と言わせる事情だった。
 左の、泣き黒子はやはり生真面目で、純粋すぎたのだ。

 和尚が少し笑ったことに、貴之は答えなど待たなかった。

「中国の禅僧に臨済義玄《りんざいぎげん》という偉い坊さんが居る。
『仏に逢うては仏を殺し。祖に逢うては祖を殺し。羅漢《らかん》に逢うては羅漢を殺し。父母に逢うては父母を殺し。親眷《しんけん》逢うては親眷を殺し。始めて解脱を得ん』とある。
 これを解くなら、お前の中で儂が間違ったんなら殺されるも通りだ、と考える」

 そう幹斎が解けば、貴之は目に見えて動揺し、目を泳がせる。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、と言うだろう?
 …お前に殺されるくらいには儂も偉くなければならないだろうがな。そうやって初めて自由になる、わかるか貴之」

 …そんなこと。
 そんなこと。

「執着を捨てる。
 …だが、酷なことを託しているのだ、その意味がわかるまで、執着するがいい」

 …忘れろとも言われない。
 それは果てしなく長いことだろう、それだけは理解した。

 和尚が何を言いたいのか。
 「なぁ、貴之」と、楽しそうに笑うのだった。

「伝承とは、果たしてなんだろうな。
 お前もそろそろ元服だ。名も考えよう」

 そう言って、和尚はふと、白石を一つ打つ。
 手を考えるまでもない、貴之は自分は敗北したのだと、知った。

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