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 それでも捨てられなかったのには。
 少し位はまぁ、多分理由もあったんだけど。

『真樹、』

 それでも。

『君の空虚を、俺はきっと愛せる』

 なんだって。
 好きとか嫌いなんかない、むしろ嫌いな相手に言われたくせに、『愛せる』この一言が絡み付いちゃったんだろう。

 どう考えてもどう頑張っても俺にとってあいつは、恋愛的には微塵も愛なんてなかったけど。

 家をくれたり、何より唄を『いい、好きだ』と言ってくれたのが凄くキてしまった。

 あとは声。これはシンガーには重要。恋愛じゃなくてもあいつの声、ちょっとの高さがよかったんだよなぁ。ただそれだけ。

「あまちゃんまた難しい顔してる」
「うん、まぁ」
「君は少しさ。自分を大切にした方がいいと思うんだよ今更だけど」
「うん…ぴんとこない」
「愛を解った方がいい」

 そうかな。
 そうかもしれないけど。

「それができたら苦労しない」
「そうだね」
「まぁいいや。
 ねぇねぇ。僕の買い物中、君たちは何話してたの?楽しそうだったけど」

 急な話題転換に内心ぽっかりしてしまった。

 ぼんやりと見つめればいつの間にか春画はしまわれていて、わりと優しく西東さんが俺たちを見つめていた。

 ふと視界を横切った、血管の浮いた腕がスミノフのオレンジ持っていって意識が返ってきた。
 スバルくんが静かにそれを開けてタバコに火をつける。

 また煙を眺める彼はやっぱ、変な間を取るなぁ。

「今朝見た夢の話」
「夢?」
「そう。ね?」
「ん?うん、そうだな」
「へぇ、どんな」

 スバルくんはスミノフのオレンジを眺めている。一体あれは何味なんだろう、オレンジかな。

「みかん。ばあちゃんがくれたんです」
「ほんわかだね」

 あれ、さっきの両親消えた系と全然違いますけど。

 しかし彼の表情はどこか哀愁。
 なんとなく、げんちゃんが俺に言ったのが解った気がする。

「多分、最近ばあちゃんから電話が掛かってくるからでしょうかね。今日なんか腹立ってヘルパーに出鱈目の番号教えましたよ。ボケて掛けてくるんです」
「嫌なの?」

 膝の上からスバルくんの表情を眺めているが、依然表情は変わらず頷き、少し崩した片膝に乗せた腕にぶら下がったスミノフ。それを煽ったスバルくん、果たして明日仕事は大丈夫なんだろうかと心配になってきた。

「しかもたまたま今日、ばあちゃんが電話で「みかん」って言ったからつい。
 ばあちゃん、いつも俺に何か、まぁ孫だしくれるじゃん?けど、世話になってた嫁さんにはなんか、いま思えばかなりの嫁イビりでさ。まぁありがちな話なんだけど。
 俺両親いなかったから、母親の兄貴の家に引き取られたんだよ。そこの兄弟と、上手くいったのはまあその嫁さんのおかげで。
 嫁イビりの延長でわりと兄弟達は…なんていうか存在すら…無視されてたんだ、ばあちゃんに。でもばあちゃんは俺だけを溺愛している。この摩擦を必死に取り除いてくれたのは嫁さんだった。
 みかんも、くれるんだけど、いつも俺だけで、というかくれるとき言うんだよ「|夢子《ゆめこ》にはあげないよ、昴だけだよ」って嫁さんの目の前でね。俺頭に来て、でも強く言えなくて「なんで?夢さんはいい人だよ」って言ったことがあった。
 「あんな女ギツネが」と一蹴されてさ。
夢さんは、「仕方がない、|敏郎《としろう》さんが唯一の息子だから」って。
 あぁ、敏郎って母親の兄貴ね。それを私が奪ってしまったから、だから昴くんも、私と一緒なのねって」
「それって?」
「わからん。ただまぁ、彼女も俺も肩身が狭かったのかもね。ただ彼女は出ていく時俺に最後言い残したよ。「精々虚像に生きてけクソガキ」って、結構泣きそうに」
「なんで」
「それもわからん。けどまぁ傷心してたのもあると思うよ。敏郎さんはばあちゃんをかばった事故で最後死んだらしいから」
「なにそれ」
「ばあちゃんと敏郎さんが旅行に行った、海外だった。そこでいろいろあってばあちゃんだけ帰国した。ばあちゃんは後遺症でいまやアルツハイマーと言うか…そんなんで。真相は全て闇の中。
 ただ俺は昔の夢を見るたび思い出す。ばあちゃんが言っていたひとつひとつを。夢さんが残した何か、キーワードとかを。多分それに魘されるんだけど起きたら忘れてるんだよ。でもそれはきっと、罰なんだと思ってこの夢はある意味愛しい」

 あんなに苦しそうだったのに。

「そんな顔すんなよ。俺はわりと、君ほど悲観してないから」
「え?」

 ふと手を伸ばされ、頬に伸びた手が暖かくて。

「それが夢の話。どう?為になりましたかあまちゃん」
「ん、」

 痺れるような感情の縺れ。複雑だ。どうしたらいい。この曇りない笑顔をどうしたらいい。

「硬直しちゃったねぇ。
 しかし面白いね君たち」

 氷が溶けるコップが見える。ぼやけている、日常。これは鮮やか。
 それを口に運ぶスバルくんは、顔をしかめて「不味いよこれ」と、また俺の前にコップを戻した。

「あんたもこれはちょっと共有出来ないや」
「君にぴったりだと思いますけど。
 何もかもを渇望しない君には、ただの吸収されるアルコールって」
「なにそれ」
「スバルくん」
「ん?」

 君は少し。

「君はやっぱり変だと思うんだよ。けど」

 君の夢は。
 気を失う瞬間のあのはっきりとした健忘に凄く似ていて、それって案外どうしようもないことだって、気付いていないのか。

 俺はあれをどれだけ渇望し、だけど逃げたかわからない。母さんのあの姿のフラッシュバックと笑顔とそして投げ掛けてくれた何かの言葉。良いか悪いか、覚えているのは気を失う瞬間なんだ。

 思い出したいけど怖い。それは凄く解るけど、わかってあげるのもまた。

「真樹ちゃん、だから」

 嫌かも。

「言っても無駄だから、飲みましょう。吐くくらい」

 それがいい。

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