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あぁ、なんて。
なんてクソみたいにぼやけた日常なんだろうか。瞳を開いた微睡みの視界は現実なのか地獄なのかわからないほどの境界線だった。
ただどうやら、僕だけ生きている。ぼんやりとした視界には生きた心地のしないような晴天だろう、空が見える気がした。起き上がろうにも力が入らない。
大差ないな。
海の底も地上も空も現実も地獄も。同じようにぼやけて真っ青で、歪んでいる。僕は今、多分生きているのだ。
「…はぁ」
身体に絡む海風と足元の波がどうにも、心地よく体温を奪っていく気がした。掴んだ砂は潮を含む湿った重さで。
僕が殉職したら二階級特進か。それでも日本の警官の官位で言ったら警部補。まぁ役職はどうでも良いけど刑務官からは外れるのか。
「大丈夫?」
ぼんやりした視界の中に声がして、覗き込む、多分男がいた。ぶっちゃけ視力が悪すぎてよくわからない。ただ髪が長いような気がする。
てか誰なんだ。
「…だ、」
喋ろうとしたら思いのほか痛みで噎《む》せた。そうだ僕は今、日本海の、どこかで、なんだっけな確か…。
「一曹、生きてますよ。ただ、やっぱり意識はまだ朦朧としてますね」
あぁ、そうだ。
砂浜と海と。
「よいしょっと」
温かい。なんだろう。けど身体が重い。なのに浮遊感。どうやら背中に背負われたらしい。
ブレた視界。しかし漸く見えた肩の星ひとつと一本横縞。あぁ、この人も地位的には僕と一緒だ。そんな人いたんだ、他に。
結われて肩甲骨に落ちてきたその人の髪の臭いが潮風に湿って心地よく感じる。あぁ、今更ながら僕は死に損なった。生きて、いるのか。
「いや、担架呼ぶとかさ」
「え?担架?だってこいつ生きてますよ」
「は?」
「だって俺ら、死体しか担架に乗せてないでしょ。なんか意味あります?」
ただ、それちょっと。
「うっ…」
「ん?」
何日あぁしていたのか知らないけど。
いきなりこんな体勢になったからちょっと…。
「き、気分が…」
「え?」
「だ、大丈夫…」
吐くものは皮肉にもないんで。
「じゃ、んなわけで走りますんで!」
急にそいつが走ってその場を去るもんだから。
より気持ち悪くなっていって。
「うぇっ…」
「え?吐く?」
「いえ、うぇっ、」
「だよね、吐くもんなんてあったらもっと元気だよね」
この野郎、どこの誰だか知らんが確信犯らしい。
改めて真横の顔を見てみるとなんだ、凄く目を細めてじっくり人の顔を見ている。と言うか近くでわかったがわりとスッとした顔をしているなぁ。鼻も高いし目もキリッとしてるが二重だし。
「あぁあんた、よーくみると美形分類だね。いるもんだねぇ」
「はぁ…」
ふとその人は、自分の胸ポケットからタバコを取り出し、器用に片手でジッポライターの蓋を開けた。しかしながら手袋でなかなか擦れずにいるらしい「なんなのこれ!」とか言って難航している。
「ああはい、」
仕方なく手を出すと、素直にジッポを渡してくれたので、擦って火を灯す。
「おぉ、親切だね。サンキュー。あんたも吸う?」
「いえ…」
てか気持ち悪いんですけど。
ただ美味そうに吸っているのがとてもシュールで、副流煙が少し懐かしかった。
「やっぱり吸う」
「あそう。でももう少しだから車まで待って」
なんだ、それ。
「あんた名前は?」
「はい?」
「制服的には海曹?」
「…そうですね。三等海曹です。貴方と地位は同じくらいでしょうね」
「ふーん。まぁ確かに俺三等陸曹だもんな。
茅沼樹実《かやぬまいつみ》。樹に実るだよ」
「熱海…雨」
「雨って、rainの?」
「そうですね」
「あぁ、綺麗な名前だね」
そう、嬉しそうに言う男の心情が僕にはよくわからなかった。
「…僕的にはあまり好きじゃないんですけど」
「そっか。俺は気に入ったよ。
なんか流してくれそうで。ぜーんぶ嫌なこと。過去も未来も血も涙も」
そう言ってふと、ぼんやりと煙を眺める彼の瞳は少し遠い。
「そんな大層な理由で名付けられてはないですよ」
「そう…まぁ、そんなもんだよね」
雨の日に生まれたから雨。ただそれだけだ。言うなれば大層ふざけた理由だ。
皮肉にも自分は生まれた日以外、なんとなく晴れ男の分類だ。だがそれも潜水艦の中では大した意味がない。
「あっ」
吸っていたタバコの火が消えた。それから、頬に微かに当たる水滴。
空を見上げて掌を見る茅沼と名乗った男は、それから僕を見て笑ったような気がした。
「生まれ変わった日に降るってのも、運命だね」
「え?」
空はどうやら打って変わって灰色。しとしとと、そして徐々に大きく、雨粒を感じるほどに皮膚感覚は戻ってきていた。
「もうちょっと、走るよ!」
「は、はぁ…」
そんな、場に似合わないような楽しそうな声色で茅沼は再び走り出した。
だから、気持ち悪いって。
「そんな、急がなくても…!」
「いちおーあんたほら、救助しなきゃならないからさー」
「あぁ…」
「あ、いた。
あのー!生きてる人いましたよー!」
茅沼が前方に声を掛けると、なんとなく相手方は手を振っているように見えた。
その無邪気な声に、少し頭痛がした。
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