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本当に奴隷だったのか。
扉を閉めた、人の温度も冷ます廊下で浮かんだような言葉はそれで。
いまの時世や立場、噂になっては後始末が面倒だ。古臭く好き者め。函館の林の中を思い出しそうになる。あの男よもや追い詰められているのかと更に思考が流れたときに廊下を見れば、にやりと笑った井上がいた。
席を抜けてきたようだ。
「…井上さん、」
「伊藤さんはお休みかね」
「…はい」
「ははぁ、君も大変だねぇ」
何を言いたいのかと推し量れば「君、元幕臣だそうだね」と、今しがた上司にも小突かれたことが繰り返された。
「…幕臣など、そんな物でもありませんよ」
これは恐らく、26の若さだった。あの、軍を捨てた忌まわしい政党など、思い出したくもないが、
「ほほう、なるほど」
と言った井上は更に聞く、「出身は?」と、手近で面倒な挨拶を交わしてきた。
「…桑名です」
「桑名か。生き延びるとは大した男だ」
褒められた気がしない。
だが井上は「着いてくるか」と、政治を語るように淡々と続けるのだから、理解に間があった。
「…は?」
「あの幕臣嫌いがなぜ君を取ったのかその肝が知りたい」
…けしかける意図がわからない。
「…伊藤さまは同郷ではないですか」
返答の語彙すら陳腐になり下がる。
「同郷など、捨てたに等しいのだよ、今となっては。君もわかるだろう?生き残るということを」
そう言った彼ら言葉に暗闇を見出だした気がした。
「…そもそも、私は誰かの下、という役割ではないのです、」
二つ、返事とせずにその場は曖昧として流して逃れる。
終わった話にした。
だからそれよりも、あの子供の目が、何故だか忘れられなくなった。
しかし、井上馨から柊造への「人事移動願」が正式に文書として届いたのは数日のことだった。
伊藤の元を去る際に、「あの子供は」と聞きそびれたまま柊造は井上の秘書に就任した。
特に、何がどうだったというわけでもないのに何故だか子供の目を忘れることが出来ないでいた。
ふと井上に、英国公使館焼き討ちで置き去りにされた異国の子供がいる、という話をした程だった。
「君はそんなことよりも嫁じゃないのか?」
急に井上に言われた柊造は一瞬言葉に詰まってしまった。
違う記憶の濁流に切り替わる。嫁、子供、そう言われて故郷を思い出さないわけがない。
「…そうですね」
「君なら良い貰い手がいるだろうよ。丁度私の親戚に似た年の娘が」
「…生憎ですが、いまはもういいのです」
その柊造の物言いにはて?と井上は首をかしげる。涼しい顔をしたそこそこな男に、宛がない。
柊造にとって大声で言える話でもない、自分は最終的に脱藩という形で家族を捨てたのだと。敗戦したがその形で一家と自分は断絶となれど、死罪は免れただろう、そう信じている。
伊藤よりも井上には人の心があったようだ。
察したように「そうか」と言っては「うーむ」と考える素振りを始めたようで。
「…井上さんの体裁としては若造の部下一人、独り身がいようなど情けもないとは存じますが」
「そうだな。まぁ単純に君が不憫なのもある」
碧眼を思い出す。
あれが一体、本当はなんなのかを知らない。
「不思議なものだな」
井上はそう呟いてすぐ「まぁ、いい」と、それで、物と言うのをすべて了承したようだった。
「いまや異人など鬼でもないしな。故郷に家族を忘れた男が異人の子供を拾う、筋書きとしてはそれも悪くない」
「…えっと…」
「気になるなら伊藤から引き剥がせばいいだろう」
何を考えるかわからぬもの。
井上は言い切れば満足したのかなんなのか、一息吐いては「…君は」と神妙になる。
「…悪い、戦争の話など。
戦争では、果たして何を勤めた」
「…鉄砲頭ですが」
「では外務として、その子供に最後銃を向けるのは君にしようか」
「…はい?」
「…私の見た戦争の中に一つ、そういう手管がある。姫君を人質に取られ決起した。しかし、親も信じた主に手を返されそれは敗戦となった」
…長州最大のクーデター。
「…なぁ、君は私や伊藤が憎かろうな。どんなに時が過ぎようとも。だが私はその戦も、最後の戦ですら、君を見たことはおろか敵の顔すら知らないのだよ東堂くん」
「…そうですか」
「あぁ。私は藩主の子息だからね。私はだからこそ、最後の最後、もしも君の元上官と刺し違えれば君に刀を振るうだろう」
なるほど。
戦地の、綺麗な水を思い出した。
当時を生きたものは全て、同じ生き物だ。皆そう、武器は捨てずに隠している。
本当に武器を置くのは信じたものが目の前で血祭りにあげられてからの、話だ。
「…怖いことを仰る」
端から、皆誰も信用など、していないのだ。
いまの財政では、そもそも英国との交渉や元幕府との和解、そんな話も遠いが、来ないわけではない。
この男はなぞるでもなく素直に準じる男のようだ。
噂話とはやはり後からの方が、虫のように沸いてくるようで、彼、井上馨は元は毛利敬親の小姓であり、あの高杉晋作や久坂玄瑞と共に、英国大使館を焼き討ちした張本人だと知る。
それだけの腹を持つ男だった。
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