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 空太も風呂を借りたあと、ふと、果たして友人はどこに行ったかと不安に駆られた。

 少しは話そうかと思ったが過信もあって真っ先に書斎を覗いたが蛍は居なかった。ただ、それだけで、少しぐらつく。

 この広すぎる家の中で彼の行動範囲はしかし、狭い。思い付いたようだから書斎で打ち込んでいるのかとばかり思っていたら違う。

 彼とは2週間ぶりに会った。そんなことはよくあるが、わかってはいるが空太にとってそれは不安だ。だが、最早その不安を蛍に言う手だてはあまりない。

 本当は山程言ってやりたかった。
 最近蛍が出版社との立ち位置が微妙なことも、自ら言い出して、週間連載を辞めたことも。

 ただのスランプならそれでよかった。
 しかしどうやら彼は、確かに創作で悩んではいるがスランプではないようだ。安定して恐らくは週間連載をやれるだろう。

 というか彼はわりと無理に仕事を入れたがった。才能は、間延びすると腐るとよく言っていたから。
 なのに何故、そんな、月間一本に絞るなどという行為に出たのか。

 それほどの大作に打ち込みたかったのかという覚悟かと言えば、多分違うのだろう。読んで空太が感じた物だと、それにしては上柴楓は余程不安定だ。
 何が、何が彼をそうして遠ざけたのだろうか。

 出版社を変えようとしている、にしては納得のいく創作ではない。今の蛍はなんというか少し、不安定。

「蛍?」

 長年空太が蛍を見てきてこんな時はしかし、大抵は、蛍は殻に閉じ籠りがちだ。蛍の文才は有り余るほどだが、しかし何故か、人との接触は極端に苦手なことを知っている。

「蛍ちゃーん、どこ行ったんだー…」

 小さな、頼りのない声で空太は試しに友人を呼んでみる。

 まるでお化け屋敷に怯える怖がりのよう。
 確かにこの屋敷は怖い。不気味と言うほどではないが、木造だし無駄に広いし、東京にしては都会離れしたような所謂“屋敷”で、庭もあれば|離《はなれ》もある。
 正直、一人で住む蛍が気の毒で仕方がないが。

 それも仕方がないことだ。
 そしてここには、幽霊だとか、そう言った恨みがましい非科学的な何かがあっても可笑しくない。

 じいさん、どうかそんな|輩《やから》がいるなら退治してくれないかな。俺は今、お宅の可愛いお孫さんを大捜索中なんですよ。どうかどうか、まだ二人とも、連れて行くには早いんじゃないかな?

 そう心で一人喋りながら空太は廊下を歩く。最早あとは空太の|形而上《けいじじょう》の戦いだ。

 そう、空太は、柄に合わずそーゆー物が苦手だ。見たことも感じたこともないが、最早そういう問題ではないのだ、あれは。それぞまさしく形而上の闘い。

 こんな時には無駄に木の、床がギシギシと鳴る音が空太の鼓膜を叩く。
 それと嫌な予感で最早、いずれ心筋梗塞を起こしかねない勢いの|動悸《どうき》を感じていた。

 ここで死んだら元も子もない。たった25年を、幼馴染みを家で探して死に晒すとは何事か。

 意地になって空太は一人廊下を歩き続けた。実質は、風呂場から書斎、それから一度曲がっただけなのだが。

「あっ…」

 見つけた。

 暗闇の中、縁側で座って夜空を眺めているその蛍の姿が、まるで異世界のようで。
 儚さと危うさを孕んだ当の本人は、ただ、ただ空虚に眺めるその、見上げた白い首筋や、まだ水気の残る髪が、あぁ、なんて綺麗なんだろうと空太は感じる。

 月夜って、そんなに危ういのかと、カメラを持ち歩いていないこの状況だが少しも空太は悔いなかった。
 これは、見てはいけないものだから。自分だけが、見ればいい。

 こんな時、美青年とは得をするなぁとぼんやりと空太は思う。被写体には持ってこい。しかし蛍はそれを拒む。だからこその、渇望をして画家がやっていけるのだ。

 そうか、俺のインスピレーションは、初めからこいつだったのかと、小さな、クレヨンで汚れた手の先の絵を思い出した。

 声を掛けるのは勿体無い。少し忍んで空太は蛍の隣に座った。
 特に気にする風もなく蛍は隣を許容してくれたようで。黙ってそれでも眺める横顔が、青白く照らされている。

「何してたんだい」

 空太は寝巻きのポケットに常備していたハイライトとライターを取り出して動揺を隠した。蛍はそこで漸く空太を確認した。

「季節も終わるなぁと思って」

 見上げれば満月だった。

 そのハイライトの煙が綺麗に一直線に昇る様が、蛍には美しいと思える。
 やはり、ハイライトを吸う空太の、ぼんやりと月を眺めるこの黒い瞳等は、自分には出ない味だ。第一、このタバコの吸い方は自分には格好がつかない。

「満月だな」

 だが何故かそう、ふと、空太が寂しそうに見えるのも自分の情緒とか、形而上的な何かの、探りなのか。

 思い出したのは自分だけなのだろうか。現に空太の瞳は揺るがない。

 しかし空太と目が合い、ふと笑ったそこに感じ取った哀愁に、蛍には少しの希望が見出だせた。

 自分だけじゃないのかもしれない。
 こうやって、勝手に。
 空太が来てから感傷に浸ってしまった自分が、酷く。

「風邪を引くから早く入ろう」

 その心配すら。

「まだ吸い終わってないじゃないか」
「てか、いつからいたんだ」
「うーん、風呂から出て、月が綺麗だなと思って」
「確かに、綺麗だな」

 自分の肩に掛かるタオルでがしがしと空太に髪を撫でられた。
 そういえば寒い。

「ほら、蛍さん。風邪引きやすいだろ?早く」

 そう言って乱暴に立ち上がる空太は、タバコをまだ持ったまま。

「…うるさいなぁ」

 しかしもう、仕方ない。確かに寒い。月は綺麗だが、それどころではなかった。

 やれやれと蛍も立ち上がり、真後ろの部屋に入る空太の、一歩後ろから着いていくことにした。

「空太、」
「ん?」

 振り返る空太に。
 自分が今言おうとした、先程感じた希望や、その他を押し込めてしまった。
 彼の、澄んだ夜のような瞳がなんとなく、蛍の言葉を飲み込み浮遊させるには充分だった。

「…まぁ、いいや」
「なんだよ」
「タバコは部屋では吸わないで」
「はいはい」

 そう蛍が空太に言うと、仕方なしとばかりに少し戻って庭の石段に落とし、サンダルで揉み消した。

 明日あれを回収しよう。

「寝るよ、空太」
「早いな、執筆は?」
「浮かんだら」
「あそう、」

 取り敢えず寒いから中に入りたい。
 部屋の引き戸を開けて布団に潜り込んだ。

 きっと、今夜は眠れない。過去の夢は、見るものではないから。

 空太もそう感じるのだろうか。それは、計り知れない蛍の甘美な希望と寂漠だった。

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