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 夕方近く。
 あれから目覚めて私は一人、教会へ行く途中にある床屋に寄りました。

 オーナーの軽井沢さんが、看板をしまおうとして目が合いました。
 彼は40代の、とても落ち着いた雰囲気の男性です。ストレートのような綺麗な髪が、印象的で。
 緩く優しく微笑んで看板をたたみ、「いらっしゃい」という声が、落ち着いていて。

 気まずそうに一瞬店内を見てから「御波、まだ…」と呟きます。

「こんにちは」
「こんにちは」
「お店、終わりでしょうか」
「うん、まぁ…。
 けど、折角来たお客様を返すことはしないよ。皆様気持ちよく、帰っていただきたい。
 しかし…だから、」
「構いません。
 夫もきっと、大丈夫でしょう」
「そう…。なら、どうぞ」

 軽井沢さんに促され、私は店内に入りました。

 お店はどうやら、片付けの雰囲気で。
 真っ先に迎え入れてくれた、夫の同僚の高崎さんは、少し気まずそうに「あっ、」と言う。当の夫は今のところ、見当たらず。

 恐らくは私たちの離婚は知れ渡ったことのようでした。

「い、いらっしゃいませぇ…」
「こんにちわ」
「あ、あのぅ、
 御波ちゃん、呼んできましょうか」
「何ですか高崎さん」

 夫、御波雨祢《みなみあまね》の声がして。
 夫は姿を現し、私を見れば「あぁ、」と、つまらなそうに素っ気なく言うのでした。

「いらっしゃい。
 軽井沢さん、閉店じゃないんですか」
「看板しまう前だし。まぁ、いいじゃない」
「まぁ、そうですね。
 えっと、お客様は、どのような」
「待ってよ御波。
 俺のお客様だ。しかしまあ、どうしようかなぁ」

 楽しそうに言う軽井沢さんに、夫は少し、怯んだように見えた。
 私は思わず、「カットでお願いします」と言っていた。

「かしこまりました。
 御波、いいよね?」

 ふと、
悲しそうな表情で見つめる夫に軽井沢さんがそう言いました。夫は一瞬遅れて「はい、」と答えます。

「…その人はセンスがあるから、きっと、素敵になれる…」

 ぎこちなく微笑んだ夫は、また奥に引っ込んでしまって。
 「待ってよ御波ちゃん、」と、高崎さんも夫のあとを追って。
軽井沢さんと二人きりになった私は、「どうぞ」と促され、入り口前の椅子に座っりました。

 鏡に写る私は、どうやらクマが出来ているようで。

「…どのようにいたしましょう」
「少しだけ、切ってください」

 そう言うと軽井沢さんは「かしこまりました」と静かに言い、タオルを肩にかけたり髪をはらったりしてくれました。

「聞きましたよ、百合枝さん」
「みたいですね」
「今日は、会いに来たんですか?」
「それもありますが、単純に、髪を切りたくて」

 「はい、倒しますよ」と言い、私は軽井沢さんに髪を、洗われる。お決まりの「痒いとこありますか」とか、そんなのも、間に挟んで。

「夫は最近どうですか」
「変わりなく。いつも通り、よくやってくれています。
 百合枝さんはどうですか」
「まぁまぁです」
「そうですか。お変わりないならよかった。少し痩せちゃいましたか?」
「はい。なので、心機一転したくて」

 軽井沢さんは優しい手付きで髪を洗ってくれました。

 特に何かを言うわけではない。それが少し、居心地が悪くて。「あの」と声を掛ける。
 やはり淡々と彼はうっすら微笑んで、「はい」と言います。

「夫は、何か…言っていましたか?」
「いえ。まぁ彼はわりと、寂しがり屋ですがあまり自分の話をしませんからね」

そうかもしれない。
しかし、そうじゃないだろうと思える。
だからこそ、話してみようか。

「私は夫には、悪いことをしたなぁと、つくづく思いまして」
「…そうですか」
「全てをわかってあげたかった。だから今が不自然で仕方なくて」

 敢えて未練もなくスッキリと言ってしまおう、そう思うのに。
 感情がはっきりと傾かなくて、笑顔が嘘臭くなってしまった気がしました。

「それも綺麗事なんですけどね。私には、でも、まだ彼が忘れられないのです」
「…なんで、」
「なんででしょう。私はきっと、罪な女なのです」
「それはきっと、違いますよ。
けど」

 シャワーで流される。心地よく。

「そうなんでしょうね。そんなときも、ある」
「…軽井沢さんは、やっぱり紳士のようです」
「ははっ。まぁ、女性には優しくが俺のモットーですね」

 椅子をあげられ、それから丁寧にブラシとドライヤーと鋏を入れられ。
 出来上がりは、肩上よりも少し短かった。夫とは、違うもので。

「軽井沢さん」
「はい?」
「愛情って、一体なんなんでしょうね」

 ただ、ふと思ったことを言ったのだけれど。

 軽井沢さんの、悲しいような、心配するような笑顔が鏡に見えました。私は、紳士を困らせてしまったようで。

「…何があったかは、わかりませんが。
 少し肩の力を抜いて生きないと、迷い込んじゃいますよ、百合枝さん」
「…力、ですか」
「俺にはあんた、無理してるようにしか見えない」

 芯を突くような一言。
 漸くまた軽井沢さんは自然に微笑み、「わかりますけどね」と付け加えました。

「愛憎は難しいのかもしれません」

 あぁなんて。

「神様みたいですね、軽井沢さん」

 心に染みた気がした。

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