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 雨は降ったり止んだりを繰り返していた。頭痛に思考が追い付かない。耳鳴りの難聴。低気圧にはよくあること。

「ユキ〜」
「…ん?あはい」
「あれ、お前具合悪め?」
「…低気圧なんで」
「あそう。
日曜日お前いつも休みだよな。あんさ、イベントもないしお客さん入らないから外出てきてよ」

 多分話はあまり聞いていないだろうが、開店早々に春斗からそう言われた。

「はぁ、わかりました」
「30分立ってればまぁいいから。
あ、ビルの前じゃないと怒られるからね」
「はぁい」

 上着着てっていいよ〜だの、傘忘れずにね〜だの言われる。
 春斗は雪にインカムも持たせようとしたが、「あ、やっぱこれはいいや」と笑って引っ込めてしまった。

 やはり、大方難聴はバレてしまったようだなと雪は「すみません」とやるせなくなる。

「まぁ仕方ないよ。雪も不便してるよな。
どんな感じなの?」

 気遣いに無駄はなかった。あくまで嫌味もなく、興味を持ったように聞いてきてくれるこの先輩にはなんだかんだ、雪は助けられる。

「そうですね…。右だけなんですけど、俺は。なんか、右耳だけ水の中のような…ぼやけた感じですね」
「全く聞こえない訳ではないんだ」
「音、と言うのは多分認識出来てますよ」
「なるほどねぇ…水の中か…。あまり聞こえない、そんな感じなのか。
あれ、店の方がいい感じ?」
「あぁ…。そんなに支障があるわけでもないので、まぁ、どちらでも」
「まぁじゃぁ、なんかあったらうーん、帰って来て〜」
「はーい」

 優しい先輩だ。
 前に働いていた店はそれどころではなかった。少し、脳内に湿った吐息の誰かを思い出す気がした。

 そういった負の記憶循環が廻ってしまう前に、雪は膝掛けエプロンを外して控え室からジャケットとビニール傘を持ち、「いってきます」と店を出た。

 特に何も考えず、強いて言うならば「寒いな」というくらいで。地面は雨で湿っている。
 タバコが吸いたくなるような、そんな曇天だった。

 キャッチもちらほら出ているが、どうにも飲食街の裏路地だけあり、人があまり通らない。向かいのチェーンの看板を持った若い男も暇そうにしている。
 
 ナイトクラブ色が強い通りだが、前方のホストは数打ちゃ当たるといった具合で勧誘し、なかなかこちらまで人が足を運ばないのが現状だった。

 声を掛ける相手すらいないと、反対の、左側をぼんやり眺めていた時だった。

「久しぶりっ、」

 右側からぴょんと、顔を覗き込まれて驚いた。
 相手を認識するのにはコンマだが、まず気配すら察せなかったことにも自分のなかで驚きだった。

 雪が答えられずにいれば、スタイリッシュヤクザのような中年が「俺だよ俺〜」と、胡散臭い、後残りを感じる口調でニヤついた。
 前の職場のオーナーだった。

「…お久しぶりですね、田野倉《たのくら》さん」
「雪ちゃんこんなところにいたのぉ?」
「…ご存じかと思いましたけど、どうしたんですか」

 面倒なのに遭遇した。
 ぶっちゃけ、バックれ辞めというか、「そんな店出てきちゃいな」と現在のこのミュージッククラブで働けている。オーナー同士、話し合いは済んでいるはずで。

 田野倉は雪が前に働いていたゲイバーのオーナーであり、青柳の関係者だった。

「いやぁ界隈をふらっと」
「ここ、六本木ですよ。銀座からどれくらい掛かりました?」
「15分くらいかな、タクシーで」

 これはまた厄介そうだ。

「…事務所間違えてますよ」
「今日はフリーだけど?」
「そうですか。一本向こうの通りにSMバーがありますよ。わりと大通りに。ビルの七階なんで分かりにくいですが、知り合いが働いてるので聞いてみましょうか?その子レズビアンだし、話せば面白いと思いますけど」
「あはは、面白いこと言うなぁ。今度行ってみるわ」

 明かに田野倉の風貌は浮いている。
 なんせ、紫シャツだがホストを通過してきている。その時点で派手な店目的ではないはずだろうと誰もがわかるが、それが不自然だ。

 まわりを見ればキャッチの他の店の者達は不自然に右側を眺めて客を待っている。

 商売上がったりだ、これは。

 田野倉は雪の肩を少し強めに引いて「ヤクザも出入りするところなんだろ?」と静かで挑発的に言ってきた。

 わりと始めから気付いていたが、なるほどそういった用事かと、雪は惚けて「いえ。クリーンですね」と答えた。

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