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──世の中は美しいからっぽである。──
横っ面を殴られ、頭から瞬時に全てが飛ぶほど、或いは現実に引き戻されるようだと感じた、その言葉。
或いは、ナイフで心臓を刺され、痙攣を起こすような感覚。
私はつい今まで、大正あたりの、ラビリンスなどという古くさい横文字を縦書きで読んでいて、その、灰色に近い春画のようなフィクションを、鮮やかに静観していたはずだった。
…午後に近い午前中の現実は曖昧な色の晴れ。
息が上がりそうで、心が痛く麻痺している。
気が付いたのならガヤガヤ、ガヤガヤ、多分34人くらいの聞き取れない鬱蒼で、私は本に栞を挟んでおこうと思った。
物語から高校の教室という現実に帰ってくれば、クラスの男子が「マゾヒズム小説集って…」(笑)と付きそうな声色で言うのが聞こえてくる。
随分とレトロな表紙だったから、カバーは掛けなくてもいいかな、と考えていたのだけど。
その男子は恐る恐る、いや、好奇心、まるで罰ゲームにでも駆り出されたかのように私の机の前に来て、「なぁ、藤川。それ、何読んでんの?」と、からかうようにそう言ったのだった。
罰ゲームの男子達は、3人とも一緒でにやにやしている。
「…谷崎さん」
どうせ言ってもわからないし聞こえもしないだろうけど、男子に返答すれば案の定で「藤川って、Mなの?」と、まだ彼らの興味は終わらないようだった。
「特に」と言おうとしても「あぁ、そうなんだ」だとか「なんか意外だな」だとか「いや、でも確かに」だとか、中学生のような話の流れ。
彼らのなかで私は、その流れにはいない、関係がないままだ。
「え、Mって縛られるのが好きなんだよな」
「それって痛くねぇの?」
「それで感じるとかさ…ホントなの?」
…どうしてこんなことで絡まれるのかわからない。
「そうなんじゃないの」
溜め息が出てしまうほどにうんざりする。
ふと、一人のケータイのバイブが鳴った。
メールくらいの長さのバイブ、画面をちらりと確認したその男子の視線は、それから私の顔とケータイを行き来し「藤川ってさ」と少しだけ乗り出して来る。
男子のネクタイが少し揺れる。
「…イイジマとヤったってマジ?」
…私の頭には茶髪が浮かんだあとに、チビと童貞も代わる代わる浮かんできた。
「…イイジマって誰?」
「…飯島将《いいじままさる》だよ、2組の」
「…わからないんだけどなんで?」
「えっ、いや」
恐らく、クラスのグループチャットで今、そうまわってきたのだろう。
ケータイバイブは、次には隣にいた真面目君に行き「えっ、」と漏らす。
「…鳴海って女子のだよな…」
それは同じクラスの「鳴海由香《なるみゆか》ちゃん」だとわかった。
「由香ちゃん?」
「うちのクラスの鳴海?」
「完璧に女子だよな」
「え、待って藤川マジなの?」
「何が?」
男子三人が驚いたような顔をしている最中、「ちょっと何話してんの」と、短くてパンチラ状態の足が2組寄ってきた。
パンチラの本城さん、パンチラの金沢さんは化粧顔に嘲笑を浮かべ私を見下ろしている。
本城さんは罰ゲーム1人目に当てられてしまった男子(確か菊名《きくな》くんとか言う名前だったような)のケータイをわざとらしく覗き、「あ、凄い言われてるね」と笑った。
「どれも、流石にないんじゃない?飯島くんなんて派手だし、まぁまだ仲良しなヤタベならあり得るけど鳴海さんなんてねぇ…女子じゃん」
「え、いやお前がこれ」
「はっきり言えばいいのに」
面倒臭い。
5人は漏れなく同じタイミングで固まった。
そのうちの女子二人が「はぁ?」だの「え、何マジになってんの、ウケんだけど」だのと言う。
「別にいいけど、藤川さん、ビッチだってみんなに言われてるけど」
「知ってる。ついでに本城さんも言いふらしてるのも。何?飯島くんから聞いたの?」
「あんた正気で言ってんの?」
──僕のような気狂いじみた人間は、世間にまだまだ沢山居ると云う事を、いずれお前も気が附く時が来るだろう。──
面倒臭い。
金沢さんがふと、菊名くんを退かすようにして開脚気味に席へ座る。
「なにそれマゾなの?」
そのパンツは見えているに等しいなぁとぼんやり思ったのだが、「変態なの?」と、金沢さんが突然、前触れもなく私の右胸を鷲掴んで来るのだから、どうしていいかと戸惑ってしまった。
「こゆこと?」
金沢さんが私の胸を笑いながら掴むようにしだいてくる。
男子三人はそれに「ちょっ、」と顔を背ける。
…まるでパンチラ扱いじゃん。
「…痛い」
手を振りほどいた。
それでも金沢さんは笑っている。
嫌気が差す。
ここを出ようと本を鞄に詰め立ち上がっただけで、いつもいないような私がちらちらと皆から見られるのだから可笑しい。
この雰囲気は、このクラスには浸透している。
今更でもなく、前からそう。
「ちょっと待てよ」と本城さんの口調がなぜ荒くなるのか?
それは名前の出た飯島くん、谷田部《やたべ》くん、…きっと無いけれど由香ちゃんの誰かにも彼女を怒らせる原因があるのだろうと私の頭を掠めれば、教室の真ん中辺りの由香ちゃんを見てしまう。由香ちゃんはやはり、怯えたように私をチラ見していた。
ああそうなんだ、近くて遠い人間は面倒だ。
モヤモヤする。
休み時間終了のチャイムが鳴った。
人の性癖の話などこの世で一番どうでもいいと私は思うのに、確かに惹き付けるらしい。
谷崎潤一郎、次は…確か官能小説集もあったはずだ。
済ましてやがってホントムカつく、その素直なBGMで教室を出た。
本城さん、私、多分そうでもないんだよ。
あんな本城さんをきっと、飯島くんも谷田部くんも知らないだろうな。
昇降口を横目に思い出す。
一週間くらい前。
茶髪の、ネクタイも制服もダルダルだった背の高い男子は、悪質な笑みで私の行く手を阻み「お前、藤川瑠璃?」とからかうように言ってきたのだ。
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