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由香ちゃんの嗚咽と、私への数々の視線、物々しい空気も結局は酸素や二酸化炭素でしかない。
息が上がっている自分に気付き、手洗い場で手を洗い口を濯いで水を飲んだ。
飯島が「藤川、」と呼んだので「飯島くん女子トイレだよ」と答えて帰ろうとするけれど。
「おい藤川」
「何」
「大丈夫じゃねぇだろそれ」
「別に」
「別にじゃねぇよ」
「ごめんね声が大きくて頭に響く」
「はぁ?」
なんなのよ一体。
ぼちぼち先生達も教室の方へ歩いて来ては「そろそろ授業だからな」とごく平然に行き交うのだからおかしい。
飯島を無視することにした。
舌打ちが聞こえたその瞬間、腕を強く引かれ、よろけてしまった。
彼はそのまま私を壁に押しあてる。
手の自由すら奪われたことに一瞬にして体がぴんと、強張ってしまった自分に気が付く、それを彼も感じ取ったのかもしれない。
「…落ち着けって、」
「は?」
「大丈夫かって、」
「…うるさ、」
飯島が強引に私の唇を塞いだのだった。
彼はまるで、食むように角度を変え、恋人のように髪を撫でてくる。
空いた左手で思わず彼の頬を叩き、膝で股間を蹴ろうとしたがそれは反射的に避けられ空振ってしまった。
「あぶな、」
「なんのつもりっ、」
…思ったより声を荒げた自分に、動揺だかなんだかはわからないけれど、息が切れ切れになってしまって。
切なそうに何もほざけなくなった飯島から身を翻し帰ろうとすれば、はっとしたように飯島はまた肩を掴み「待てって、」としつこい。
「好きなんだよ…」
「何が、」
「お前が!」
…途端に自分の中で熱が込み上げ、震え、一気に涙腺を直撃されそうで歯を食い縛った筈だったのに。
「…構うなっつってんだよどいつもこいつも…っ、」
堪えられず自分が吐きかけた言葉はそれだった。
心なしか低く、私の不安定な声はこんなときばかり無駄に廊下に反響してしまうのもいたたまれなくなる。
飯島がその手を離した。
誰もの視線が痛いような、いや、実はあんまりそうでもないのではないかという気もして逃げたくなって歩き出す。
口を開けてしまったせいか視界が濁りそうだから、必死になって肩を上下させて息を整える、なかなか整わない。
殺せ、こんなもの噛んで磨り潰してしまえ…っ。
帰れないのは知っている。
下駄箱でつい、何かないかと震えたままの手でケータイを開くと、千秋さんから着信1件とショートメールが届いてた。
今日の放課後、時間はあるか?
ショートメール故か、凄く簡素なものだった。
その物証にひどく「非日常」を感じ、胸に込み上がっていたものが中途半端に…下へ下がっていくような気がした。
…丁度いいや。
『放課後よりは前の方がいいです』と送ってみたが、果たしてどうか、忙しいかもしれないよなと思っていたが案外すぐに、『今新宿にいる』と、また簡素に返ってきた。
この前の、喫茶店。
今から行くと伝え、私は学校から外に出た。
──僕は、僕の内部からひとりでに出てこようとするものだけを、生きてみようとしたにすぎない。──
デミアンの言葉が浮かんだ。
『それがなぜ、あれほど難しかったのだろうか』とデミアンは続ける。
妙な気分で、どちらかと言えば梶井基次郎の「路上」、
『途端自分は足を滑らした。
自分は高みの舞台で一人滑稽な芸当を一生懸命やっているように見えるにちがいなかった』
の方が近いのか。
私はこの言葉たちより遥かに立派なんかではない。本は名言を残すがいつだって、それはぴったりと気持ちに張り付けることの出来る言葉ではない。少なくとも私にはそうで、胸に突き立てられて息が止まりそうなことすらある。
誰も見ていなかった。変な気持であった。
そう言い換えてくる。誰も、そう。
──古い道徳を破壊することは、新しい道徳を建立するときにだけ、許されるのです。──
…これは、誰だったっけな。
そんなことを考えながら新宿まで向かった。
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