零の起


 そこはぼんやりとしている。
 暗い、そう、夜空があって波の音がする。

 無言に沈めていたその二人の空間では、耳鳴りのような、頭上から降るような静かな景色の音ですら、なんとなく切なかったんだろう、幼いながらに俺は思ったんだ。

 ふと隣に座っていた誰か、線は細かったような気がする。
 痺れを切らす、よりは決心に近い雰囲気で立ち上がってズボンの裾を捲り、急にその海へ駆けて行った彼は「ほぉら!」と、振り返る。シャツは白かった。武装すらなにもないラフさで。

「そんなところにいないでおいでよ!」

 笑顔だった。
 爽やかに笑う彼は、父親と言うには若かったような気がする。

「ねぇほらさ、風が気持ちいいよ」

 ビーチサンダルを片手に、はしゃぐような俺の、なんだろう。大切な人だったように思う。

 彼は子供のような笑顔だった。

「危ないよ、夜の海は怖いんだって、お母さんが言っていたんだよ、」
「大丈夫だよ、」

 叫んで返しても波が飲み込みそうで。
 ただ海の先を眺めた背中、足元まで届いた漣に俺はしょーもなく、彼の背へ駆けて行ったんだ。

 彼は俺が駆けて行った背後の気配に気付いてか、手を広げて俺を待ち構え、その暗い海に、温もりと急な浮遊感を味わった。

「重くなったなぁ、」

 と、少し大変そうだったんだけど、
 そうだ、右目に黒子があった。黒髪は潮風に少し湿っていた。
 彼は幼い俺を抱えたまま俺に柔らかく微笑み、また海を見て、俺の名前を呟いた気がする。

 久しぶりなような懐かしさと、何故だか悲しさもあって。

「この海はねぇ、どこへだって繋がってるんだよ、樹実」
「…お父さん?」

 彼は俺の額に鼻先を埋めて「大丈夫、」と行ったんだ。

「悲しくなったら海を見たらいい。全てを飲み込んでくれる気がするだろ?」
「…それは」

怖いことでは、ないのか。

 俺は彼に言えずにいた。

「大丈夫、また逢える筈だから、樹実」

 あの日の事は忘れない。
 彼は一体何を考えていたのか。
 夢に時々見る、溶け込んだあの、風景。

俺は思い出なんて、背負えない。

 潮風が凪いでいた。

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