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頭の奥で、
ひくっ、ひくっ、と。
喉が引きつるような声が、降ってくる気がして。
僕のそばに踞る彼女はいつも泣いていた。肩を抱きながらその涙に口付けをすればしょっぱく潤う。
暗闇の中に二人で残されても、僕はそれだけでどうにだって、幸せだったんだ。
彼女の、長い髪が湿り、耳に掛けてやれば、涙は浮いているのに、子供みたいに笑う事情だけが眩しい。閉じ込められたこの暗闇に、しかし彼女は言うのだ。
ここを出ていけば生まれ変われるかしら。何もかもを、忘れて。
それには僕に、勇気が必要かもしれない。
そんな日は、綺麗な彼女の綺麗な肌に触れ、口付けを交わして、僕はまたその髪をくしゃくしゃにして愛を食むのが、
どこかでは間違っているような気がしていた。
きっと、出会いはなんだったんだろう。僕は気付いたらここで、君と二人、恋をしていた。
温い君に溶かされた僕に彼女は言った。
夕陽に溶けてしまいたいなぁ。
僕は自分の名前を漸く認識するのだ。
|夕陽《ゆうひ》。
いま、ここにはない。
あなたと一緒に私もいつか、その夕陽をみたいわ。
だけどその頃にはきっと、忘れちゃってるかもしれないわね。
汗ばんだ笑顔で彼女は僕の下で言う。
彼女はいつの間にか、
彼女を敷いていた僕たちには白いシーツがあって。
愛し合う度によれては乱れ。
君の美しい喉元からの囀ずり、暖かさ、僕を溶かしてくれる白い肌に、
僕は君を忘れるくらいなら、まだまだ、ここにいたいと切なさが過る。
ねぇ君の名前、僕は忘れてしまったよ。暗闇に溶けたんだ。僕はだから、それが知りたいんだよ。
けれど彼女は哀しげな顔で僕を見ては、「…キキ」と、絞り出した甘い声で言うんだ。
「ねぇキキ」
いつまで続くのか。
この、切ない、恋に似た陶酔は。
僕は君にただ、ただ。
こうしてセックスなんてしなくてもいい。そりゃ、したらそれは、僕が君の一部になるような、甘い陶酔があるけれど。
「キキ、僕は君と」
一緒にいたい。
君の全てを僕に残したいだなんて。
「一緒に光の世界を共に歩きたいんだ」
世迷い事、薄濡れたこの硝子のような想いは、だけど本当にズブズブとした泥酔で。
けどそれにはここを出ていくことが必要なんだと。
その先に光は照っているかもしれないが、綺麗な光ではないだろう。
確かに、生まれ変わるような物で、何もかも忘れなければ、叶わないことかもしれない。
僕の呼吸を、止めるように。
それは君と歩めるのか、僕はわからなくて。
ならば僕は、君とこの暗闇に浸かっていたいとか、思うんだ。その、君のメロディのような闇の中の鼓動も、透明な髪も。
君を引き換えになんて、出来なくて。
君はそう僕が言えば哀しげに見るんだ。雨音のようなその鼓動は、薄くて。
「キキ」
「…でもね、ゆうちゃん。私は貴方と光を見ることが出来ないの」
どうして。
「まだ、もっと。私が大人だったらよかったね、ゆうちゃん」
暗闇のなかで聞こえる。
僕は君と光を見たいの。
けど、君だって離したくないの。
ねぇキキ。
君は本当は光の中では、僕と出会っていたんだっけ?ねぇ。
僕はそれすら忘れているのに。
気付けばこの暗闇にいた。
凍えた君を抱きしめていた。
「ゆうちゃんは、私を忘れて元の現実に、戻った方がいいの」
哀しげに笑う君が嫌だ。
どうしてなの。
どうしてそんな目で見るの。
「僕は君と」
ふと。
キキを抱きしめた僕の脳裏に。
生々しく、なんだか。
肉を断つような生々しい感触のようなものが、一瞬戻った気がして。
離してキキを見れば、とても。
子供みたいに無邪気に笑った気がした。
「ゆうちゃん、」
彼女が僕の頬に触れた。
なんだか温く湿った手を見れば、彼女のその手は深紅にまみれていて。
「ゆうちゃん…」
耳に響く、雨音のような小さく消えそうなメロディ。
そうか。
僕らまだ。
「貴方を殺したくないの、ゆうちゃん」
どうして?
僕に凭れては、胸元で見えない彼女の表情に、また恐る恐る腰に手を添え抱きしめて。
どうして君が肩を震わせて泣いているのか、わかってあげられないのは、僕はまだ、幼すぎるのか。透明な、絡み付く僕の指すら、血塗れで。
泣いて笑った彼女は「ねぇ見て」と、僕の前方、彼女の背後を振り返り言う。
ドアが暗闇にぽつんとあった。
「生まれ変わったら、私はまた…会いに行くよ、ゆうちゃん」
なにそれ。
「あのドアを開けて、私と過ごした日々を忘れて生きていて」
「なん…で」
「貴方を殺したのは私だからよ、ゆうちゃん」
なにが。
「だって、僕はいま、」
生きて。
漸く君と二人でいて。
漸く?
脳の片隅が動く。
漸くって、なに。
「…私を知りたいのならここから出ていって。
貴方が私を忘れても、私はここにいるから」
なにそれ。
「…僕は君と、生きたい」
だけど彼女は僕の手を取り、無理矢理ドアの前に立たせる。手は、深紅に湿っているのに離れなくて。
「キキ!」
呼べば彼女はドアを開ける。光が、指したけど。
僕を振り返る彼女は唇を噛み締め、涙を堪えて無理に笑おうとした。
やめてよキキ。
そんな、
涙に濡れた目で、僕を見ないでくれよ。
ドアの向こうには。
病院のベットに横たえられ、死んだように眠る僕がいた。
上から見る景色に、幽体離脱のような感覚がして。
「ゆうちゃん…」
ここを出ていけば。
君がいない世界に。
いつかこんな、耳障りの綺麗な声も。
透明で綺麗な君の髪すら。
この耳に聞こえやしない日が。
この目に写りもしない日が。
だけど、君は僕に、
子供のような、しかし哀しげに笑ってキスをして。
背中を、押されてしまった気がした。
目に写ったのは白い天井と横には点滴。頭の上に掠めるように見える、生命の機械。
何故か僕は泣いていた。
まわりが、騒然と慌ただしくなり、看護婦に言われる。「木宮さん、木宮さん、」と。
そうか僕は。
死に損なって、戻ってきたのかと知った。
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