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光の中、白の純灯。
きみや さん、きみや さん
と、忙しない声が耳に届いた。
頭の上から降るようなものではなく。
世界が、変わってしまったのだと夕陽は知る。
ゆっくり、ゆっくり。
首を動かすことはなんとなく、出来なくて。
ゆっくり、ゆっくり。
視界の端でぶら下がり、落ちている雫を見て夕陽は漸く、「あの、」と声を出そうとしたが、叶わなかった。
声が、出ていかない。
「|木宮《きみや》さん、わかりますか?」
視界を、看護士の女性が覆った。
「わかったら頷いてください」そう言われてやっと首を上下に動かせた。
「…まだ近くにいるかな、お姉さんに連絡して、」
その看護士が後ろを見て、誰かに指示をする空いた手を、夕陽はすがるように掴んでは、看護士の女性は驚いたようだった。
左目が見えにくくぼやけていることに夕陽は漸く気が付いて。
「僕はいままで、大切な何かを手にしていたような気がするんです」が、届かない。出ていかない。左目が霞み、光のような現実に目を、細めるような思いで。
「ぅう、くっ、」
涙が自然現象として溢れていく自分の身体に、看護師は「あら、」と、何故だか嬉しそうに、その医学的自然現象を拭い去る。
「きみや、ゆうひさん」
誰だ、それは。
「貴方、一年もこうしていたんですよ」
いちねん。
なんだ、それは。
看護師はわかりやすいようにゆっくりはっきりと言った。
「お姉さんがいらしたら、検査をしましょう」
なんだろう。
僕は一体どうしたというのだろう。
間もなくして、木宮夕陽の姉らしい、長い髪が少しだけ乱れたような女性が現れ、入り口のアルコールを手に振りかけては「ゆうちゃん!」と、こちらへ来ようとする。
「晴香さん、」と、後ろに同伴していた背の高い、短髪の男性に窘められていた。
夕陽は、その男性にばかり気を取られた。
右前頭部当たりから引っ張り出される。滑り落ちたのは「太一、」漸く絞り出た声に夕陽自身が驚く。
フラッシュバックしたのかもしれない。その瞬間を。
短髪の男性は一瞬驚いたような表情で夕陽を見ては「…夕陽、」と、絞り出す。
姉が男性、太一に振り向くも、構わず太一は姉よりも、
夕陽の側まで来ては急に抱き締め、「夕陽ぃ…!」と、感極まって泣きながら呼んだ。
恐る恐るその短髪の後頭部を撫でようと夕陽は右手をあげてみる。首筋に当たる湿った息が、やはり、泣いているのだと知る。
ぎこちなく後頭部を撫でる夕陽、太一を見た姉は少し下がり、看護師達と共に部屋を出て行った。恐らくは、検査の手続きで。
首筋から、まるで這うように耳許に太一の唇が開いて言う。「久しぶり」と。
「何も思い出さなくて良いよ、夕陽」
冷めたい刃物のような一言に夕陽は硬直した。洗礼の恵みを受けず、こちらの何もかもを待たずに頭をまさぐるような一言に思考が止まった。
すっと夕陽から離れた太一は友人のように嘘臭い笑みを浮かべ、「どんな夢を観たんだい」と聞いてくる。
「…きれいな、夢だよ」
ゆっくりやっと話す夕陽の控えめな笑みに、満足そうに太一は笑った。
「輸血、大変だったんだよ、夕陽」
思い出す。
張り付くようなあの景色。
僕は路上で、
誰だかわからない。血塗れの自分を見て、そしてそれを太一は見ていたのか。
飛び立ったあの時彼はどうしてそこにいたのか。
僕はいまどうして生きているんだろうか。
しかし、いまは。
「なにも覚えていないよ」
僕は、だとしたら。
この体内にかろうじて流れる血は、あの夢のような、
幽霊のような。
この血管は愛に満ち溢れているはずだと夕陽は目を細め、さっきまで自分が居たはずの暗闇を思い出そうとしたが叶わなかった。
誰かに触れていた気がする。
誰かに触れていたい、抱き締めたいと、強く願っていたのはずっと変わらないはずだ。
あそこから落ちたとしたら僕は、海辺へ急いだはずだった。
「…君は、誰?」
夕陽の一言に太一は驚きを隠さなかった。確かに、さっき名前を呼んだ男だから。
しかし、夕陽の童顔な、いたずらっ子のような笑みを見て太一は「…冗談はよせよ」と、肩の力を抜き溜め息のように言ったのだった。
「ほんとうにわからないよ」
これから僕は。
這いつくばろうが何しようが満たされない愛を身体に巡らせて、新しい世界へ生きるしかないのだ。
どうしてって?
君が僕を突き落としたような気がしているからだ。あの日路上で血塗れの僕は、それから、血を混ぜて愛し合おうとした。足を陸橋に掛けたときにお前はあの場にいたじゃないか、太一。
頭が痛んでいる。
僕はお前に犯された僕の婚約者の自殺を止められなかったんだ。
君はキスをして、最後に僕に触れたらそれは血塗れで。
倒れた君を見て、まるで溶けるようだなと。キキ、そう、感じたんだよ。
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