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 坊っちゃんの中にはそんなに小さな頃から、誰にもわからない道徳があったようだ。

 数年で細井川家から手伝いがいなくなった。

 あの日、旦那様は「苦労を掛けて申し訳ない」と私に謝った。

「いいえ、奥様と坊っちゃんはけして悪くないのですよ」
「うん、そう思う。
 君だって何一つ悪いとは思わない。だが、では他の女中が悪いのかといえば…そんな単純な話でもないよな」
「そうですね」
「難しいだろうが…どうしようかね?」

 あの時の旦那様も私にそう振った。
 私はその頃も「そうですね…」としか返せなかった。

「そう言えば…和昭はなかなか幼稚園でも馴染めていないと妻が言っていた」
「…そうですね」
「難しいな…」
「……先日お迎えに上がったときに先生から聞いたのですが」
「うん?」

 旦那様は険しい顔をなさる。

「和昭坊っちゃん、好きな女の子がいるみたいなんですが」
「…うん?」
「その子に、花壇に咲いていたチューリップをあげたそうです」
「なんだって?」

 幼稚園の保母は迷惑そうに話していた。
 育てた花壇のチューリップを、泥まみれになり根っこからひっこ抜いて女の子に渡したのだそうだ。

「その子から嫌われてしまったようなのですが」

 旦那様は一間置いてから「……なんだそれはっ!」と笑い飛ばした。

「帰り道に坊っちゃん、「うーんうーん」と考えていらっしゃって」
「面白いな」
「私が一緒に幼稚園の花壇に戻そうかとも考えたのですが、またやってしまうかもしれないなと思い直し、先生に許可を頂きまして持ち帰ってきました。
 そのチューリップは池の側に植えましたよ」
「そうかそうか」
「毎日、鯉を起こさないように池の側に忍び寄ってお水をあげているみたいです」
「へぇ、あれは…こう…口が開いてない…のかなぁ?」
「みたいですね。もしかすると黄色い花だからかも…?
 まぁ、お花も、根っこから生きていると」
「あぁ、そこはそうなのか…」
「はい。
 奥様にも見せていらしましたよ」
「そうか…。
 妻は鯉をどうしようかと悩んでいたが…」
「まぁ、そうですねぇ」
「しかし、そのままあげるとはなぁ!」
「可愛らしいですよね」

 そういった小さな成長が微笑ましかった。

「…やはり、無理にとは言わないが」
「何を仰っているんですか。私は…烏滸がましくも、ここにいたいですよ」

 修介様のあのときの表情と、今の旦那様の表情が重なる。

 坊っちゃんは小学校に上がって暫くも、回数は減ったがたまに癇癪を起こすことがあった。

 黒板の字が読めず先生に何かを言われ大声をあげ出て行ってしまったり、クラスメイトにからかわれ授業中にその子の手に鉛筆を刺してしまったり。
 昼に仕事をしていた私は、何度か学校から呼ばれ、坊っちゃんを連れて帰ることがあった。

「先生が信じてくれないんだ!なんでこれだけ読めないのかって!」
「読めないんだろ、バカなんだなって!」

 坊っちゃんは小学校の身体検査で色弱障害だと発覚し、そんなことになったのだ。
 “可哀想だから言わないでね”と先生が言った時も坊っちゃんは暴れてしまったのだそう。
 加え、坊っちゃんは字や図形の形を覚えるのが、本当に少しだけ苦手だった。

 義務教育という環境が、とても息苦しそうに私には見えた。
 だからといって「特別学級」かといえば、医師の診断を仰いだわけでもなく、当時は今ほどまわりに理解があったわけでもなかった。

 どちらを選んでも“思いきって”、という判断を大人が下せずに手をこまねいていたのだ。

 彼は同情というものや特別好機、というものもどうやら嫌いで、奥様がまわりのお母様より若いことも気に掛けていたようだった。

 迎えに行くといつも坊っちゃんは私に「ごめんな」と謝罪をした。

「母ちゃんには来るなって言ってるんだ」

 そんな、たまにある日に坊っちゃんは俯いて言った。

「…私はいいのですが、それはどうしてですか?」
「…母ちゃん、若いだろ?皆言うんだ。おれは皆が言うのはおれだけでよくて…」

 とても生きにくいが、優しい子なのだ。

「おれ、どうしてもなんか、怒るのを止められないことがある。結構、頑張ってるんだけど」

 小さな頃から坊っちゃんの世話をしていて、少し手が離れた環境に置かれたことでその日も「またか」と思っていたが、そういえばそういう、癇癪の回数は減ったような……。

 いや。

 そうか、「仕方ないな」と納得することばかりだったのかもしれない。
 坊っちゃん本人がどうしようもないことで怒っているんだとその時に気が付いた。

「…そうですね。
 坊っちゃんはとても素直なのですよ」
「おれ、怒ってばっかで、」

 帰り道に思いが再熱しそうになったのだが、「坊っちゃん」と宥める。
 これだけは聞いて欲しいというただの、知恵でしかないけれど。

「人間、怒るのは当然なんですよ。私には坊っちゃんが怒ることもわかったり、わからないことがあるけれど、坊っちゃんは頑張っていらっしゃる、それはとても良いことだと思いますよ」
「…中川さんもある?いつも怒らない」
「そりゃぁありますよ。坊っちゃんトマトが嫌いでしょ?」
「あれは……だって、」

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