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 僕の身体の仕組みはあの夜から、一度襖を開けないと眠れないものになってしまったらしい。

 数日そうして背徳的に盗み見て、奥の部屋に灯りが灯る日は、熱が籠り深く濁った感情を得るからと、庭にこっそりと出ては影となり見えない真実を眺めるのだ。

 彼らは数日に一晩、灯りを灯す。

 僕は考える。
 何故その襖は少しだけ開けられているのだろうかと。小さな息遣いがより秘密裏にされているようで、だからこそ襖を開けたくなる衝動が何度も僕を襲う。

 何故すきま風に汗ばむのか。
 何故微かな声だけが聞こえるのか。
 どうして、僕はこんなところにいてこんなことをしているのか。
 過ごす夜は遥かにそんなことばかり考える。

 それと同時に僕はどうやら昼間、先生に書を褒められる回数が増えた。

「君の字は血流のような勢いも感じる」

 先生の書斎に飾られる僕の半紙は枚数を重ねた。
 木陰から始まり流、水、嵐、曇天、新月、漣、情動……確かに僕自身でも気に入る作品ばかりが飾られて行く。

 僕はその7点の時点でもっと、あと少し、と、それにのめり込んで行く自覚があった。
 毎日、手が墨で汚れていくことに満足と…焦燥のような、興奮のような、そんなものも握っている観念はすぐに植え付けられていく。

 そんな日溜まりと闇夜を行き来していた現実味のない生活に一時の休息が現れたのは、初冬、先生が恒例の展示会を開くという話が持ち上がった頃だった。

「今回のテーマは何にしようかな」

 ある日先生は夕飯の食卓でそう呟いた。

 毎年毎シーズン、先生が週3回で勤務している中学校に長期の休みが来て、その期間は先生が見る授業は勿論、部活動もなくなる。
 あとは開いている書道教室のみと、時間に空きが出来るのだ。

「圭太の作品も出展してみようかと思うんだけど、どうだろう」
「え、」
「あら、いいじゃないですか」

 その日の夕飯は、中川さんが得意なコロッケで、「ほらほらおあがりなさい」と、中川さんは大皿からひとつ、僕のお皿にコロッケを移してくれた。僕のその日の担当は豆腐の味噌汁だった。

「えっと…」
「テーマによっては既存の作品からでもいいし、新たに決めて書いてもいいなぁ」
「折角お弟子さんが出来たんですしね。私も楽しみです」

 それは大変名誉なことだが。

「僕なんかがそんな…」
「俺が結構気に入っているのは“灯り”だなぁ。ひらがなの「り」を入れるのに丸みの帯びた雰囲気を感じる」
「…ありがとうございます」

 そう褒められてはなんだか照れ臭い。

「とても嬉しいですが、本当にいいのでしょうか」
「いいよ。手伝いも頼みたいな」
「やったじゃない、圭太ちゃん」

 照れ臭いけど、反面ドキドキするほど…重い。僕はまだ、現状に満足していないのだ。

 そんな風に俯いていると、向かいの席からひとつ、箸に挟まれたコロッケがひっそりと置かれた。
 顔を上げればゆずさんで、にっこりと笑ってくれていた。

「あっ、えっと…」
「明日から始めようかと思う。いま思い付いた、流れる脈で“流脈”なんてテーマでどうだろう」

 ただ、ただどんな感情かが駆け上がり、「はい、」と、返事をしては噛み締め、「いいですね」と中川さんも僕の隣で同意した。

「…私も圭太ちゃんの字にはなんだかこう…若さが滾るような迫力があると感じますよ」
「俺もそう思う」

 ゆずさんもうんうんと頷いて「決定だな」と先生が笑った。

「明日からは少し忙しいな。数日籠ろうと思う。会場はいつもの場所でいいんだけど、明日はじゃぁ、君も一緒に挨拶に行こう」

 やはり照れ通してしまった。
 先生も隠さずとても嬉しそうにしてくれたからだった。

 どうにもそれで、食事の味を噛み締めたか、いや、喉を素通りしてしまったかはわからない。

 けれどふと、自分でソースを掛けたゆずさんのコロッケに芋の味が強いと感じた。ぼんやり断面を眺め気が付いた、挽き肉が入っていない。

 そんな変化になんとなく向かいの手元を眺めると、ゆずさんは塩でコロッケを食べるのだと発見した。

 食事を終えてぼんやり、その日の家事を終えて就寝時間に至る。

 灯りが点いていて僕は日課に庭の木陰に隠れたが、今日は襖が開いていない。

 初めて全て隠れた状態、布団がこんもりしている影を見ることにもどかしさを覚え、最早いつもよりも堂々と僕はそれを眺めたのだ。

 まるでその現象は羽化をする蛹のようだと感じた。

 いままさにそれは羽ばたくのかもしれない。殻を破る前のその薄い皮の透過性、僕は子供の頃それをじっと眺めたことがある。早く還らないかと待ち望むその中はもがくようにもぞもぞと生きていると、新鮮な気持ちになったのだ。

 息遣いを聞いた。

 だがこれが僕の息だと気付いたときには言い知れぬ支配欲が押し寄せた。
 あの中でどうもがいているかを僕は想像することしか出来ない。

 蛹を破った時には風に慣れようと、色付くまで白く滑らかなままでじっとしているのだ。
 飛び立つ頃には羽がピンと伸びて色をつけている。脱け殻はさっきまで、それの下で生きていたはずなのに、死んだような軽さが見て取れる、そんな現象で。 

 先生がピタッと止まるのと同時に僕も息を止めてしまった。
 熱く、熱湯のようなその情動を庭に放ってしまったのはそれが初めてという訳ではないけれど、急に風が寒く、手も乾くことに初冬だった事実を叩きつけられた気がした。

 彼らがまた重なり暖め合うのを眺め僕は鼻水を垂らして、溜め息が出るように部屋へ戻った。

 そして僕は翌朝、37.8℃の微熱に犯されてしまったのだった。

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