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 潮風が、紙を湿らせる。

 その手紙には素っ気なく事実が書かれ、ついでに本人の字だろう、紅い句が添えられていた。

 船上で、高杉は星空を手の甲で覆った。

 わかっていたのだけれども。不穏な空気は牢の中ですら感じていたから。でもまさか、字になってしまうとより、生々しく血肉から『実感』が湧くらしい。
 それすら、薄情な物だ。

「高杉よ」

 ふっと、側に師の兄、周布すふ政之助まさのすけがドカッと座り、徳利から酒を注いだ気がした。

 …己も、末期だなぁ。

 手紙をふっと懐に入れた高杉は「船酔いしっちまうよ」と呟く。

『今更何を言うかと思えば』

 多分、そう冗談めいて言っただろうな。

「…ほととぎすか…」

 半身を起こし、周布の酒を受けた。
 …血の味がする。ぐっとそれをも飲み込んで、周布がふらふらと酔っぱらい、夜中に牢屋の門を叩いたあの日の叫びを思い出す。

『なぁ、お前じゃなきゃ無理だ、高杉ぃ、出てこい………』

 この空の下、思う。夜戦だったらあの人は負けていたよと、笑うその頬の肉すら垂れ下がりそうになりくっと絞った。

『死んだんじゃ、久坂も………!!』

 …戸からの、しかも外からの慟哭だけでは、わかりませんよ。酒臭さくらいに…。
 無邪気に学んでいたあの頃。そんな悪夢を見るようになりましたよ。周布さん、あんただけは結構、わかりやすい男でした、僕にとっては。

 ふと、あの坊主が頭をよぎる。

 ここは寒い。随分と…身体だけは熱い気がするのに、海風が全てを灰にしてしまいそうで。

「……面白くもなんともねぇよ、」

 星空にひょいっと周布が覗き込んだような気がした。

 「戦場の酒は旨くありませんな…」と言った久坂はあの時笑っていただろうか。

 半身を起こし徳利から一杯の酒を告ぎ、夜空へ向けくいっと煽る。今夜は随分星が綺麗で揺らぎもない、しかし、敵方の船からは先程まで、談笑が聞こえてきていた。

 胸からくつくつと笑えてくる。

 自分は武士を捨てたけど。
 側に転がる刀が目に入った。どうしても、これはどうやら、手を伸ばす位置にあるらしい。

 刀を杖にし、よろっと立ち上がる。
 そういえばこの、唯一早く久坂のことを教えてくれた坊主は出会った頃、刀を錫杖代わりにしていたな。

 ふっと込み上げ、高杉は船の縁まで歩き咳き込んだ。
 血反吐も海の中では、確かにわからないものだと袖で口許を拭う。自分も恐らくこの動乱の世には、これくらいの、すぐ消えるような物なのだろう。

 先行きは長くはない。

「……さぁて、」

 最後の戦だ。
 早く、早く終わらせてやる。そしてもうすぐ、もうすぐ追い付いてみせる。何を弱気か、己は。人間出来ることなど、最後は死ぬことだ。

 笑うか苦しむかの違い。
 
 敵の狼煙も、消えた。
 下関戦争最終戦。そうだ、そう。公使館焼討ちなんかより遥かに、そう。

「全員起きろ、始めるぞ」

 あぁ、そう。

 人数の問題ではない。笑えたな、あの時の坊主と小姓。

「全員殺せ、以上だ」

 その一声だけで、先端で静かに船を下ろす部下がいる。
 酒瓶を持ちふらふら、当たり前に向かえば「大丈夫ですか隊長」だなんて押し止めようとする若者……今更だ。

「自分が…自分が行き」
「いー酒飲めよ。あたぁ女だ。女は、海みてぇに、ぬるい」

 酒瓶を預け言っておいた、「泳いでくるよ」
と。

 燃やし尽くせ、柵は全て。
 
 下ろした縄から船に降りる。静かな波の音。どこまでも底がないように感じる。
 この泥濘は死線だ。ピンと張ることがない、弛んだ曖昧さ。

 何故だか自分にはこんなにも、こんなにも、捨てるものも…捨ててしまったものがある。

「…隊長、」
「…留学は飽きたかい?井上くん」

 彼は返事もせず、肩に羽織を掛けてくれた。
 もしこの戦で負けても、紛れてしまうだけの人物。

「君くらいの人物が全てを見届けるのなら、世の中、きっと面白くなっていくだろうな、井上くん」

 「まぁ、出世は出来ないでしょうな」と愉快そうに言う男。
 井上は戦艦の同士に、縄を切るよう合図をした。

 …そう言えば、公使館焼き討ちの際、久坂とのいさかいを宥めたのは、君だったな。

「…ははっ、そうだな。多分、君は出世しない」

 僕の下にいる限りはね、と言ったのを聞き取ったかは知らない。船は、敵船に向け漕ぎ出される。

「そんなこと…言わんといて下さいよ」

 何里か進んで爆音、震動が、潮の流れとは逆を行く。

 なぁ、多分、こういうものなんだよ、命は。海の中燃え盛る船に近付きながら思う。
 あと少しだけ、楽しみたいんだ。この、くそったれな人生を。

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